第36話 古い日記 後編

 かつて高名な魔導士がいた。


 彼は充分な地位と金を手に入れて、美しい妻と幼い子供と共に都会暮らしを楽しんでいた。

 しかし、精神系の範疇外でもあった彼は珍しい自身の魔法を研究したいという思いがどうしても捨てきれなかった。

そして、都会の暮らしを捨て、妻子と共にこの長閑な街へ流れてきた。


 彼は充分な貯金を妻に渡して、山の中腹に立てた実験室へ引き篭もるようになっていった。

そんな日々が五年も続いたある日、彼が久しぶりに家に戻ると、そこには変わり果てた妻の姿があった。


 妻の自慢だった髪は抜け落ち、汚らしいボロを来て、手首は骨の分の太さしかなかった。

彼が驚いて妻に尋ねると、妻から娘が死んだと告げられた。


 彼が月日を忘れて研究をしている間に娘は死んでしまったのだと。もう半年も前のことだと言われた。


 そこから彼は研究を捨ておき、熱心に妻の介護をしたが、妻が元に戻ることはなかった。

むしろ、症状は悪くなるばかりで、ついには娘の大事にしていた人形を、娘だと思い込むようになった。


 それならばいっそ、と自身の魔力と命を犠牲にして人形に魔法をかけた。

辛い日々の思い出を思い出せないように、特別な出来事を思い出せないようにと。

ただ平穏な日常が続くことを祈って。


 日記の最後には贖罪の言葉が添えられていた。


 私が弱かったばかりに家族と向き合えず、私が弱いばかりに妻と向き合っていくこともできない。

叶うならば夢の中でジーナが平穏に暮らし、死ぬ時まで弱い私を許さないで欲しい。


 名も知らぬ魔導士の日記を読んで、エメリアとメイシーは涙を流していた。

特にメイシーは目を泣き腫らしながら激昂した。


「こんな勝手な話はないわよ!自分の妻と子供を放っておいて、何かあったら人形に代わりを頼んでまた逃げ出すなんて!臆病者!」


メイシーが返事のない手帳に向かって罵詈雑言を浴びせる中、


エメリアが

「でもこの奥さんは夢の中でしか生きれなかったんだよ」

と言って肩を震わせ顔を掌で覆った。


 二人が手帳を読んだあと、涙を流し始めたとき、キースは音もなく建物の外に行き、囚われた群衆を見つめていた。

きっと、妻を守るために人形に近付くものを排除する魔法が組み込まれていたのだろう、と思った。


 シャルルはキースが出て行った後も、涙を流す二人の側に立ちその背中を見守っていた。


 そこから十数分して、三人も外へ出た。

メイシーが言うには、手帳を厳重に封印すればこの誘導魔法は解除されるそうだ。


 そして、本来はジーナを対象にした魔法が、何らかの影響を受けて、無理矢理町全体へと対象が書き換わったようだと話してくれた。


 シャルルには原因がわかっていたので、そこに思考が裂かれることはなかったが、名も顔も知らぬ魔法使いの嫁の姿を想像すると、黒髪に深紫の瞳をした少女の姿になってしまうようで、あまり何も考えられなかった。


 キースは三者三様の顔をして出てきた三人を見たが、何も言わないでおいた。

ただ、群衆を手で示したあとに「こいつらどうする?」とだけいつもの調子で尋ねた。


 どうしようかと考え始めたとき、キースの身体が二重になっていることに気がついた。目の錯覚や月明かりのせいかと、シャルルは目を押さえたが、もう一度よく見るとピッタリとキースと同じポーズをしたべべがいつの間にかキースの真後ろに立っていた。


「それには僕にいーいっ考えがあるのさッ!すべてこのベベに任せて君たちは物陰に隠れて魔法を解除するといいよ!」


「本当に大丈夫なのか?」

とキースが尋ねても、ベベは早くあっちに行けと手振りを繰り返していた。


 シャルルたちが物陰に隠れたあと、メイシーが手帳を紐のような物で丁寧に縛った。

それを確認してシャルルも蜘蛛の巣をできるだけ山の遠くの方へ引っ込めた。


すると、ベベが廃墟の屋根にのぼり、両手を広げて深く息を吸い込んでから


「みぃんな!ベベの瞬間移動マジックは楽しんでいただけたかな?」

と正気に戻って呆然とする群衆に叫んだ。


「このベベによる大奇術!みぃんな目が飛び出すほどびっくりしたよね!?ハッハー!」


 ベベの話を聞いて、呆然とした群衆の顔には怒りの色が刺し始めた。

皆口々にベベに文句を浴びせかけ、手でその辺りに落ちている物を拾っては投げつけた。


「ハッハー!それではまた!泣いてるような悪い子はベベが笑わせに行くからねぇ!」

と言った後でベベは透明になって消えてしまった。


 ベベが消えてしまった後、モモンマルコンの人々はゆっくりと、文句を言いながらではあるが下山を開始した。

なんとか、まるで収まっているという様子ではなかったがその場をベベが収めてくれたので、シャルルたちもベベの被害者のふりをして山を降りた。


 結局シャルル達は、ガストンが戻ってくるより前に、宿屋に戻り、宿泊料金を置いてそそくさと街から逃げねばならなかった。


 そそくさと、町を後にした5人は、いつものように野営をすることになった。

べべだけはベッドで寝れないことに最後まで文句を言っていたが、キースに一喝されて大人しくなってくれた。


 簡単な焚き火とテントだけを用意したあとで、シャルルはメイシーの元へと赴いていた。

エメリアの記憶のことで、メイシーになんとか助言をもらえないかと思った。

少なくともキースよりはだいぶと魔法に詳しい様子だったし、今回の町が空振りに終わってしまったことで、シャルルの心にはだいぶと焦りがあったのだ。


「こんな夜にすまない。少しだけ君の時間を僕に頂けないかな?」

と尋ねると、メイシーは「構わないわ」と言った。

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