振った元カノが窓の外にいるんだが……
エテルナ(旧おむすびころりん丸)
振った元カノが窓の外にいるんだが……
なんてことない行動だった。ふと窓の外を眺めてみただけのことだった。
空は曇夜、月光も星もなく森閑としている。
いや、微かに音が聞こえる。向かいの屋根から視線を落とすとそこには街灯。電柱に括りつけられるそれはジジジと音を立て明滅している。
まるで樹皮にへばりつく死にかけの蝉か蛍だ。残る寿命の限りを鳴いて身を焦がす様は、両種の掛け合わせと言ってもいい。
そんな求愛に呼ばれて来たのは人の子、それも別れた元カノだった。電柱の脇にひっそりと佇み、生気の失せた真白の顔を仰がせて、眼窩に沈む眼はじっと俺を見据えていた。
目が合ったその瞬間、睨まれた蛙のように悪寒が体を縛り付けた。まるで身動きできず視線も逸らせず、街路から三階までの距離があるというのに、毛穴まで覗けるほどに俺の瞳は収斂する。
無限に思える一瞬の後、街灯は再び鳴き声を上げ消灯した。凝視から逃れた刹那、掴んだカーテンを一文字に切り視線を遮る。
ちくしょう、呼ぶなら夏の虫にしてくれよ。
さて、この状況。決して何も理解できない訳ではない。思い当たる節があるのだ。
それは二か月前のこと、俺は彼女を振った。何も告げることなく姿を消した。新たに好きな人ができたからだ。
元カノはオタク気質で執着心がとりわけ強かった。話して理解してくれるとは思えなかった。だから一方的な別れ方を選んだ。
しかしそれは失敗だった。間違いだったと今、分かった。住所は知らないはずなのに、こうして家を探し当て待ち伏せする。元カノはストーカーになってしまったのだ。
ベッドに腰を掛けひと息、現状を冷静に考えてみよう。
彼女の目的、考えられることは復縁。しかしそれは無理だ。なぜなら新しい彼女を愛しているから。
それを素直に伝えるか? いや、駄目だ。今の彼女に危害が及びかねない。ならば警察に通報するか? いや、それも駄目だ。ストーカー被害など碌に取り合ってくれないに決まってる。ならば単刀直入に諦めてくれと、強い意志を持って伝える他ないか? いやいや、それでは決定力に欠ける気がする。
思い付いては却下して、頭を振った視線の先にあるクローゼットに目が留まる。引き戸の僅かな隙間から覗く、小ぶりで可愛らしいハンドバッグに。
心ともなく足が向かい、手に取ると懐かしい記憶が蘇る。
笑うとえくぼの映える愛らしい女の子だった。趣味のコスプレに熱中し、鏡の前でふわりと体を捻る仕種が艶やかだった。大学にバイトに忙しく、留守の間は不承不承、俺が家事をする羽目に。けれど彼女のことを想えば苦ではなかった。
そんな平凡な毎日が、いつの日からか陰りを見せはじめる。笑顔を見せることが少なくなり、ぼうっとしていたかと思えばヒステリックに金切り声を上げる。
初めの内は心から心配した。身の回りにはいっそう気を遣い、喜ばせる為のプレゼントだって奮発した。
けれど彼女は、その悉くを邪険に扱い、次第に俺の好意は冷めていく。
そんな折に新たな恋を見つけた。ぽっかり空いた心に光を差し込む、燦然と輝く笑顔を持つ少女だった。
一度見たその表情が頭を離れず、遂に俺は彼女と別れる決心をした。けれど僅かな後悔か、若しくは良心か、新たな恋人を得た今も、想い出の詰まったハンドバックだけは処分しきれずにいた。
決定打はこれしかない。このハンドバッグを突き返すのだ。側にいれば憎み、離れれば愛を宿して追って来る。愛憎入り混じる歪んだ心も、想い出と共に突き放せばきっと諦めるに違いない。
さあ、今こそ伝えよう。もう愛してなどいないと、勇気を持って伝えよう。金輪際の絶交を誓わせよう。
けれどもし納得しなかったら、なりふり構わず暴れたら、差し違えるつもりでいるとしたら。念の為、武器だけは持っていこう。工具箱の中に金槌があったはずだ。
準備を整え、意を決して部屋を出ると、冷えた夜風が頬を撫でた。総毛立つ背筋は寒さなのか脅えなのか。
火災報知器の灯りが共用の廊下を赤色に染める。普段は気にも留めない壁の傷やシミを、異形の化物と錯視する。今にも挫けそうな心を押さえ込み、一歩一歩まえへと進む。三階から二階へ、踊り場の側は部屋の窓と同じ方角だ。ちらと街路に目を向けると、息継ぎを終えた街灯に光が灯る。
変わらず彼女は俺の部屋を仰いでいて、けれど瞳だけはこちらを向いていた。
瞬間、心臓が飛び跳ね、あまりの恐怖に顔が強張る。まるで幽霊のようだが、むしろ霊であって欲しいと願わんばかり。生きてる人間が一番恐ろしい。
二階を経由し一階への階段に足を掛ける。再び踊り場が近付く。街灯の光に浮かぶ彼女は執拗に俺の姿を目で追っているはず。
踊り場に足を着け、逡巡しつつも街路を見ると、そこに彼女はいなかった。
予想が外れるとともに不穏が頭を過り、恐る恐る下り階段の方に振り返る。するとそこには……誰もいない。
けれど嫌な予感は拭えなかった。サイディングの外壁に手を置くと、冷感と共に振動が伝わる。その震えは胸裡の恐れから来るものか。しかし徐々に徐々に揺れは強くなっているようにも思える。
階段を下った先、入口に続く曲がり角から目を離せない。果たして彼女は退散したのか。それともこちらに赴いて、今まさに角の裏手まで迫っているのか。闇の落ちる廊下の床面、その中でより濃い影が蠢いているようにも見える。
こちらから出向く勇気もなく、しかし見逃すまいと影に目を凝らし、到来を待つこと寸刻。ふと違和感に気付き焦点を上にずらす。
濃鼠色の出隅に湧く五匹の芋虫。蚕と見間違う白い表皮は女の肌。実はとっくに彼女はそこにいて、蠢く指のすぐ上で、能のごとき白面半分を覗かせて、刺すような目を光らせていた。
決意は所詮、人の意志。恐怖に負けた俺は意気阻喪し、本能のままに逃げ出した。夢中で階段を駆け上がり、足がもつれて手を着くも、必死に段差を這い上がる。
深い恨みを湛えた視線だった。追い付かれたらただでは済まないだろう。擦り剥いた膝の痛みも忘れて廊下を駆ける。
幸いにして部屋に鍵は掛けなかった。毟るように取っ手を掴むと、開きかけのドアの隙間に身体を捩り込む。続け様、内側の取っ手を掻き抱くように、限界まで取っ手を引き寄せた。
だが、閉まり切らない。三寸ほどの隙間がある。反対から引き返す力はない。
ならば何かを挟んでしまったのかと、扉の縦枠から沓摺に目を落とすと、そこには小ぶりなオックスフォードシューズが片足。アッパーは俺の顔に向いている。つまり内からではなく外由来、隙間に差し込んだ靴であるということ。つまりつまり……俺は追い付かれてしまっ……
「ぎゃああああああ!」俺は叫んだ。隙間から覗く敵意の眼光を前に、恥も外聞もへったくれもなかった。
飛び退き尻もちを着く俺を見下ろしながら、彼女は悠々と戸を開け放つ。
「ふふふ」口の端から息を漏らし、彼女の顔にようやく表情らしい表情が現れる。
「な、ななな、何しに来たんだ」
「うふ」
「何が目的なんだって言ってんだよ!」
「ふふ、しらばっくれちゃって」いつからああして待ち伏せていたのだろう、乾いた彼女の唇がパリパリと音を立てて開く。「分かるでしょうぉ? 私が何を欲しているかなんて」
左手を膝に着き腰を落とすと、彼女は右手を俺の方へ伸ばした。恐れる俺を慰める救いの手、などという楽観視はしない。歪んだ彼女の目的は、復縁以外にありえない。
この蒼白の手を握り返せば、俺は彼女に赦されるのだろう。今この場をやり過ごす為には、この冷えた手を両手で包むことが正解に違いない。逆上すれば何を仕出かすか分からない。この場は冷静に、何事もなく穏便に。
俺はそうして自分の心を偽る……ことなんてできなかった。
「諦めろ」彼女の伸ばした手を俺は弾く。「もう俺の心にお前はいないんだ」
彼女の顔から再び表情が消え失せた。しかし先までと違い、滲み出る敵意も薄れている。彼女は戸惑っている。付け入るなら今しかない。
「これも返す!」想い出の詰まったハンドバッグを彼女の懐に放り投げる。
「……何コレ」
「お前との最後の繋がりだ」捨て吐くように言ってのける。
「ほぅら」ところが彼女の口端はいやらしく歪む。「あんたの心に私がいないなんて、嘘ばっかし。やっぱり気にしてたんだぁ」
彼女は勘違いしている。それを渡すということは、最後の縁を断ち切るということに気付いていない。
蠢く白色の五指がバッグの留め金を外すと、かぶせを開いた彼女は中を覗き込む。
「ひ……」顔色は白から青へ、彼女は顔を引きつらせた。「な、何よコレ……」
「言っただろ、お前との最後の絆だ」
「これのどこが絆よ! 髪の毛に爪に……血の付いたコレは……まさか私の……」
「…………」
「このストーカーめ……私の部屋にカメラを仕掛けた変態め……私の目的はデータよ。盗撮した画像を寄越しなさい!」
ヒステリックに叫ぶ彼女。これだから愛想が尽きたんだ。
良かったよ。念のため武器を持っておいて――
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