第二話











「そんなにしたいなら……」


 爪の長い細くてきれいな指先が、ブラウスのボタンをひとつ外した。


「いいよ、シて」


 聞き心地のいい艶やかな声に、私の胸はトクン、と跳ねた―—

























 今日は一段と暑い。


 じめっとした重たい暑さが周囲を漂っていて気持ちが悪い。汗も湧き水のように次から次に湧き出てくる。


「はぁ……なんでこんなことに」


 休日の昼間。


 本当なら今頃、クーラー冷気がガンガン効いた自室で気ままに本でも読んで過ごしていたのに。


 私は今、この蒸したサウナのような気温に己の身を晒しながら、カンカンと太陽が照りつけるアスファルトの上をとぼとぼ歩いている。気分はまるで焚火の上で焼かれた豚の丸焼きに近い。そのくらいには地面から熱が放たれている。


 右手には、口止め料のサイダー。…と、お菓子なんかが入ったレジ袋を持って。


 どこに行くかは……察してほしい。


 気乗りしない沈んだため息を夏の燦燦とした明るい空気に溶け込ませて、いつもより重たく感じる足をそれでもしっかり動かして歩みを進める。


 …これは全て、過去の自分が犯した過ちのせいだと思うと何も言えなければ、今さら逃げ帰るなんてこともできない。


 それに……僅かばかり愚かな期待も、悔しいことに抱いてしまっている。だから正直な心境を話すならば、まさに“いやよいやよも好きのうち”状態である。恥ずかしながら、内心では早く会いたくて仕方がない。


 陰キャのツンデレとか誰得なんだよ……なんて自虐するのは後にして、到着してしまった一軒家の前で静かに深呼吸をひとつ。


 今からはじまる、おそらく心臓が持たないであろう時間に覚悟を決めて、インターホンを鳴らした。


『はーい、ちょっと待ってて。今開けるね』

「あ……はい」


 反応があって、心の準備をする時間もないくらいすぐに玄関の扉が開かれた。


「来てくれてありがと」


 控えめな笑顔を見せて現れたのは、薄手のノースリーブにほぼパンツみたいなパジャマズボンというなんとも刺激の強い恰好をした橘さんで、あまりの過激さに私の脳は早々に機能を停止させた。


 えろい、とか思う思考の空きさえ無くなる。


 きっとそのほぼ半裸みたいな服で涼しい室内で過ごしていたんだろう、汗ひとつかいてない相手を前に、拷問かなってくらい暑い外の世界を、しっかり服を着て汗だくで歩いてきた自分が馬鹿らしくなってきた。


「汗ヤバ。お風呂入る?」

「いや……大丈夫…」


 ケラケラ笑われても言い返せる気力がないから断って、招かれるまま家の中へと移動した。


「暑かったでしょ、なんか飲む?」

「あ…サイダー買ってきました」

「まじ!うれしー……てか、なんで敬語?」

「や、なんか…なんとなく」

「やめてよー、わたしが偉そうにしてるみたいじゃんか。同級生なんだから、タメで話そ」

「あ、うん…はい」


 橘さん主体で会話は進んで、玄関から廊下、階段を経て辿り着いた部屋は……なんとも女の子らしいピンク色やぬいぐるみが散りばめられた空間だった。


 普段、友達の家になんて来ることがないし、さらに関わりもなかった相手ということも相まって変に緊張する。


「適当に座って~」

「あ。うん…」


 簡易的な折り畳みテーブルのそばに置かれた座布団の上に腰を下ろして、慣れない居心地の悪さから体を委縮させる。橘さんはそんな私の隣にわざわざクッションを持ってきて座った。


「サイダーちょーだい」

「あ、はい」


 袋から取り出したペットボトルを渡したら、受け取らずに「開けて」と言う。


 もはや奴隷かなにかになった気分で蓋を回せば、炭酸の弾ける小気味のいい音がクーラーの効いた涼しい空間の中で響いた。


 甘く爽やかな香りが広がる。


 そういえばここに来るまで水分を取っていなくて乾ききった私の喉はゴクリと大きめの音を鳴らしてしまって、それを聞いた橘さんが楽しそうに歯を見せて笑った。


「先に飲んでいいよ」

「え、でも…」

「それとも、私が飲ませてあげよっか」


 手に持っていたサイダーは企みを持った手によって奪われて、赤いリップの塗られた口元へと運ばれる。


 透明で気泡の多い液体が口内へと落とされても、喉は動くことなく唇が閉じられた。


 溢さないようにと僅かに閉じられた赤く皮膚の薄い部分が近づいてくるのを、外気に晒されていた時よりも熱くなった体温に気恥ずかしさを覚えながら眺めた。


「ん」


 顎に親指の腹が置かれて、下唇に人差し指の先が食い込む。


 呆気にとられてされるがままいたら、柔らかな感触が触れた後で口の中にほんの少しだけ炭酸の抜けたぬるい甘さが垂れてきた。


 反射的に、胃に落とそうと飲み込んだ。


「……おいしい?」


 味なんて、分かるはずもなかった。…正確に言えば秒で記憶から吹き飛んで忘れた。


「こういうの、好きでしょ。変態だから」


 正直、好きだから何も言い返せない。


 変態でいいとさえ思ってしまう自分は本当に愚かで情けない奴だと分かっていても、抗えない欲望が沸々と湧いて出る。


「もっと飲みたい…?」


 きっと相手はただ私を弄んで、からかって反応を楽しみたいだけの、暇つぶし程度の気持ちしかないのに……まんまとハマってしまう。掌の上で転がされることを甘んじて受け入れちゃう自分がいる。


「飲み…たい」


 羨望が滲み出て手を伸ばせば、その手はあっさり捕らえられた。


「だーめ」


 今はもう口止め料にもならないサイダーをテーブルの上に置いた橘さんは、鼻を鳴らしてかわいらしく、そして悪戯に笑う。


「サイダーよりも飲みたいもの、あるでしょ?」


 含ませた口調に、何が含まれているのかまでは分からなくて戸惑った。同時に、心はこれから起こる出来事への期待感に包まれる。


 いったい何を、飲ませてくれるんだろう。


 沈黙の間、自分のドクドク激動する心音だけが鼓膜を震わせていて、涼しいはずの室内で汗をじっとり搔きはじめた。


 それは相手も、同じだったみたいで。


「…汗、舐める?」


 女子高校生と、夏。


 クラスメイトと、自室。


 サイダーと、汗。


 青春真っ盛りな私たちは、ひどく歪んだ関係を持つことになる。


 この日を境に。




 













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