第青話 硝子割る
ヒミの看病のおかげで、ロウは自分一人で立って歩くことができるようになった。あと数日すればここを発つことになるだろう。
温室内を散歩していたときのことだった。
「みぃつけた♡」
不意に温室の外から声が聞こえて、背筋が凍った。
声が聞こえた方を見ると、そこには見覚えがある姿——レドが立っていた。
ロウが行動を起こす前に、ピシッとヒビが入る音が聞こえる。彼女が温室の壁に指を突き立てていた。
——パリィンッ!
温室の壁が破壊され、彼女は氷の破片を踏み割って中に入って来た。
「あれ?」
しかしレドは歩みを止める。彼女の腕からは血が出ていた。
「なによこれ!」
無色透明なバラだ。その棘が彼女の腕を裂いたのだ。怒りに身を任せて、レドは手をぶんぶんと振り回した。近くにあった植物は一瞬にして凍り、ばらばらに砕け散った。
「ロウさん大丈夫ですか! 今凄い音が——」
うしろからやって来たヒミが、レドの姿を確認して言葉を止めた。
「お邪魔してまーす。ロウを渡してくれる?」
レドは掌をこちらに向けた。
ロウが後退ると、代わりにヒミが前に出た。
「レドさんですよね? 温度が欲しいって聞きました」
「そうよ。なに? アンタが代わりにくれんの?」
「はい。私の瞳の温度を差し上げます」
「なにを言っているんだ!」
彼女の申し出に声を荒げたのはロウだ。レドはキョトンとしたあと不機嫌そうな表情を浮かべる。
「どっちでもいいけど、早く話を付けてくれる? アタシもダーリンを温めてあげなくちゃいけないからさー」
ロウはヒミの手を引っ張る。
「君が僕の代わりになる必要はないだろう。僕の問題だ」
「これはチャンスなんです。私の瞳から温度が奪われると言うことは、
「同時に病気も戻るぞ。せっかく妹さんの命を助けたのに、また苦しむことになる」
「イトは、今の方がきっと苦しい。夢を失くして、死にたいと思いながら生きていくより、病気に抗いながら夢に向かって頑張った方が、よほど幸せに思います」
彼女が背負ってきたものは大きい。どれだけ言葉を尽くそうとも、罪悪感は消せない。だが、それでもここで彼女が身を投げ出すことが間違っていることは明確にわかっていた。
「それに、見たいでしょう? この温室に色彩が戻るのを」
植物に目を向けるヒミを引っ張って、胸に抱いた。
「僕は、君の作った無色透明が好きだよ」
そう言ってヒミをうしろに回し、前に出る。
「話はついた」
レドは肩眉を上げる。
「良かったぁ。ずーっとイチャイチャを見せつけられるからさー、両方から奪い取ってやろうかと思ったわ」
「それは良くない。彼女の瞳から温度を奪っても、やさしい温度は手に入れられない。彼女は僕のために身を挺するやさしさを持っているのではなくて、ただ自暴自棄になっているだけだからね。君の恋人に怒りの他に自暴自棄が付与されてしまっては困るだろう?」
「そうね。アンタの瞳のやさしい温度だけもらうとするわ」
ロウがもう一歩前に出ると、ヒミが腕を掴んでいた。首を振っている。
「目の前で、また、奪われるのを見ないといけないんですか」
声が震えていた。ロウは笑みを向ける。
「僕の瞳から温度が奪われたら、どうかサングラスを取って見つめてほしい。どうせ見えないなら極寒の暗闇より、光にあふれた真っ白が良いからね」
そう言ってロウがレドの方を振り向くと、既に眼前に彼女の指先があった。
「じゃあねー」
レドは用事が済むとあっけなく出ていった。
ロウは振り返り、暗闇の中、手探りでヒミを探した。彼女の頬に掌が触れる。そこは濡れていた。ロウは彼女からサングラスを外して自分を見させる。
「こら。サングラスを外して見てくれと言っただろう」
「だって、ロウさんが……! また、目の前で奪われて」
「見てくれ」
「嫌です。また奪ってしまう。なんでそんなことさせるんですか!」
「君から透明をもらいたいからだ」
彼女は震えていたが、しばらくすると観念したように震えが止まった。ロウはヒミの視線を浴びるために顔を近づけていく。それはさながらキスをする恋人のようでもあった。
「与えてくれ。君の
ロウが凍った瞳をヒミに向けると、二人の視線が交わった。温かな光だった。極寒の暗闇に射す、一条の光。景色が白んでいく。
「ロウ……さん?」
「なんだい」
「私たち、今、視線を交わしていますか?」
「そうだね」
ロウの瞳からは融解した氷が蕩け落ちていた。まるで二人して、泣き合っているように対峙していた。
「ロウさん!」
ヒミはロウに抱き着いた。ロウは倒れそうになりながらも彼女を支える。
「君が僕の瞳から闇色を奪い去ったから、僕は世界の輪郭を取り戻した」
ロウは完全に見えていた。ヒミの頭に手を宛がい、恭しく撫でた。
「ヒミさん。僕はおこがましいことを言うよ。どうか奪った色彩を、返さないでほしい。僕に暗闇を戻さないでほしい」
それは妹への
「ズルいですね」
そう言って笑った彼女の瞳は、世界の色を閉じ込めたような、極彩色をしていた。
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