第赤話 色とゼロ

 意識がぼやっと戻ったとき、身を包んでいたのはとてもやわらかくて温かな白色だった。瞼の向こう側に日差しを感じる。


 ロウがのっそりと目を開くと、透明な天井が在った。さらに先には青い空。

 身を包むうららかさと背中に感じるふかふかさを鑑みるに、どうやらベッドに寝かされているらしい。いったいなぜ。周りを確認しようとそのまま視線だけで見回すと、そんな疑問が些細に思えるような光景が飛び込んで来た。


 ロウは体を起こして見回した。


 ここは温室の中のようだ。ロウはその一角に用意されたベッドの上で、仰向けに寝ていた。温室の中にベッドがあると言うのも不思議だが、しかしそれすらも些末。

 この温室には在るべきはずのものがなかった。それは植物……厳密に言えばその色彩。蜜の甘い匂いや鼻を抜ける爽やかな匂いもする。植物たちが吐き出した清涼な湿り気も肌に感じる。しかし、目に映るすべての植物らしき造形が、輪郭だけを残してがらんどうだったのだ。中身を刳り貫かれたと言うよりは、色彩だけを差し引かれたようだった。

 ロウは無色透明な植物から自由を感じていた。虫を、鳥を、人を喜ばせるための色から解き放たれた植物。誰からも見られず、ただありのままそこに在り続けることを許された存在。


「きれいだ」


 気付けば、零していた。


「そう、でしょうか?」


 背中に声を掛けられて、ロウは驚いて振り返った。


「痛っ——!」


 と同時に激痛に膝を抱えた。


「大丈夫ですか!?」


 ロウに声を掛けた女性は、持っていたトレーをベッド横の机に置いて近寄った。ベッドの淵に膝を掛けて、背中をさすろうかどうしようか迷っているようだった。

 ロウは片手を上げて首を縦にゆっくりと振った。しかめた顔では幾分説得力に欠けるが、女性はホッと息を吐いてベッドから離れた。


 女性はトレーからソーサーを取り出して机に置き、続けてその上にカップを載せた。ポットから注がれたそれは華やかに香った。


「温かい紅茶をお持ちしました」


 ロウがお礼を言おうと彼女の顔に目をやったところでぎょっとした。とても分厚いサングラスを掛けていたからだ。ヒールの低いプレーントゥの靴と鮮やかな色味の靴下。曲線が美しい大振りのドレープが掛かったスカート。華奢な体にぴったりとフィットしたハイゲージニット。ミルクチョコレートを思わせる艶やかなロングストレートは肩のあたりでふわりとまとまっていた。とてもかわいらしい印象を与える容姿である。それなのに、目だけは大きなサングラスで隠れていてちぐはぐだった。


「ありがとう」


 似合ってないなどと失礼なことを言う必要もない。


 カップを口元に近付けると、マスカットの香りが鼻を抜けた。ダージリンのセカンドフラッシュだ。


「美味しい」

「良かった」


 彼女の口角が上がった。

 紅茶で気持ちが落ち着いたところで、ロウは自分が置かれている状況を考え始める。


「君は、誰だい? 僕はロウと言う」

「ロウさん。私はヒミと言います」

「ヒミさん。僕は、どうしてここで美味しい紅茶が飲めているのだろうか?」

「ご記憶ないのですか?」

「ああ。土砂降りの中を走っていた。それで滑落したところまでは覚えている」

「滑落……ああ! だから突然降って来たのですね!」

「降って来た?」


 ロウの問いかけに彼女は斜め上を指さした。温室の屋根の向こう側に岩肌が見え、そのさらに上にはロウが落ちて来たと思しき崖が在った。

 この温室がクッションになって死なずに済んだ。そのうえ彼女が介抱してくれたようだ。


「どうやら、迷惑を掛けてしまったようだね」

「迷惑だなんてそんな。確かに真夜中だったのでびっくりして飛び起きたりはしましたけど」

「それはつまり、迷惑を掛けたと言うことになるんじゃあないのかな」

「あっ。そうですね! すみません!」

「悪いのは僕なんだから謝らなくても」

「そうですね。すみませ……あわわ……!」


 どうやら癖のようだ。ロウは短く唸ってから首肯した。


「ヒミさん、君は命の恩人だ。全面的に許すから安心して謝ってくれていい」

「え?」

「謝る権利まで奪うことはできない。心が落ち着く方法でコミュニケーションを取ればいいと思うんだが、どうかな?」


 彼女は元気よく頷く。


「はい!」


 それからロウはヒミに質問して、現状を一つずつ理解して行った。

 ロウは夜中に落ちて来た。意識を失っていたのは数時間程度。落ちたときに骨折したのか、動くと胸が軋んで痛い。しばらくは動けないだろう。

 このベッドはヒミのもの。服は洗濯に出され、今は乾かしている最中。身に纏っているガウンも彼女のものだ。


「それでその、あの、濡れたままだといけないので脱がしたあとに体を拭いていて、見ないようにはしたのですが、その……!」


 彼女の視線が泳いでいるのが、サングラス越しにもわかった。


「それは仕方ないことじゃあないか」

「い、いやいやいや! その、ただ見るだけじゃあなくてですね。あまりに、その、綺麗だったので、……見入ってしまって!」


 ロウは気恥ずかしくなって視線を逸らした。


「さすがに綺麗ではないと思うけれど」

「いえ、とても綺麗でしたよ。背中。ステンドグラスみたいでした」


 そう言われて、ロウはほぅと息を吐いた。


「あの、失礼じゃなければ聞いていいですか? 背中のガラス」

「そこには羽が生えていたんだ。羽には、行きたい場所までの距離を奪って閉じ込める硝子監束ガラスチェックと言う能力があった。けれどレドと言う女に氷漬けにされて割れてしまった。レドは爪で触れたものの温度を奪って爪の中に保存する絶対隷奴リフリジレイトネイルと言う能力を持っている。僕はそいつから逃げている最中だったんだよ」


 彼女は息を飲んで身を縮こまらせる。


「……羽ががれたあとだったんですね。どうしてレドさんはそんな酷いことを」

「恋人のためらしい」

「ロウさんを傷付けることが、恋人のためになるんですか?」


 ロウは顎を掌で押さえる。


「順を追って説明すると、もともとレドとは知り合いで敵ではなかった。ある日、恋人に暴力を振るわれることを相談された。被害者の彼女の話を聞いてともに解決策を考えることにした。しかしある日、彼女は動揺した様子で訪ねて来た。彼氏を引っ掻いて凍らせてしまったと言う。僕は爪の中に保存した温度を返せば元通りになるだろうと助言した」

「それってどうすれば返せるんでしょうか?」

「爪を引き剥がせばいい」


 ロウの言葉にヒミは無言で唾を飲み込んだ。


「それは簡単なことではないよ。痛い思いをしたくないのならやめておくよう言った。結局彼女は爪を剥がして温度を返すことを選んだのだけれど、恋人に逆恨みされてまた暴力を振るわれて、思わずまた温度を奪ってしまった。そして僕のところに来てこう言った。『あの人は自由を奪われたと怒っていた。だからアンタの羽を頂戴。あの人は怒りに満ちた目をしていた。だからやさしいアンタの瞳を頂戴』と」

「それは、どういうことですか?」

「僕の羽と瞳の温度を奪って彼に与えようと言うつもりらしかった。僕は冗談だろうと思ったが彼女は本気だった。隙を突かれてこのザマさ」


 ロウは紅茶を啜った。


「じゃあ、見つかったら大変なことになりますね。このまま隠れていてください」

「いや、出来るだけ早くここを出るよ。彼女はまともじゃあない。君まで巻き添えを食らう。それに、ここは隠れるにはあまりに美し過ぎるんでね」


 温室の透明な壁の向こうにある景色が透明な植物を貫通してここまで見える。


「美しいと言えば、ロウさんの背中。そんなに綺麗に奪えるものなのですね」

「奪うことに、綺麗もなにもなかろうよ」

「そうですね。でも初めてでした。私があれだけ凝視したのに、色がなくならなかったのは」


 色がなくなる。ずっと気になってはいた。無色透明な植物は、誰によってもたらされたものだったのか。


「君が?」

「はい。私が色彩を奪いました。色彩監極カラフルヘブンで」


 彼女は自分の瞳を指した。

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