解放される|扉《こころ》

「だから――僕は本当にキミに感謝しているんだよ。【下僕サーバント】だかなんだかと虐げられても、逃げだそうとせず頑張って彼女に付き合ってくれたこと。ベファーナの正体を知っても、怖がらず普通に接してくれたこと。そのおかげで、僕以外の人と一緒にいるのにあんなに楽しそうな母さんを見ることができたんだから」

「…………っ、…………」

 エストのその率直すぎる感謝の言葉に、わたしはとうとう言葉を失ってしまい、止まっていたはずの涙をもう一度こぼしてしまう。けれどその涙はそれまでの絶望からきたものではなく、むしろ喜びからくるものだった。

「ま、そういうことだね。もしかしたらキミにとっては気苦労ばかりでろくな旅じゃなかったかもしれないけど、僕はキミと一緒に旅ができてよかったよ。本当にありがとう、僕たちと一緒に来てくれて」

 ああ、ダメだ。そんな風に言われると、涙が本当に止まらなくなってしまう――

 ありがとう、というただ単純なだけの言葉がどうしようもなく嬉しい。色々ありすぎて砕けそうになっていたわたしの心に、じんわりと染みこんでくる。

 ずっと思っていた。どうしてわたしはなんの役にも立たないのだろう。どうしてわたしは自分の役目をなにひとつ満足に果たせないんだろう。村の幸運の証、王女の影姫、そして今回の封印の扉を開ける役割。結局どれもみんな失敗してしまうだけのわたしに、ただの役立たずに生きている意味なんて本当にあるのかなって、そんな風にずっと思っていた。

 だから――エストの言葉には本当に驚かされたし、とても嬉しくてしかたがなかった。

 わたしが自分でこうじゃなければいけないと、こうする必要があるのだと勝手に思い込んで背負つくっていただけの役割じゃなくて、本当に何気なく振る舞ってきただけのありのままの――素のままのわたしのことを、なによりもまず認めてくれたことが。

 それだけで、すべてから解放された気がした。わたしにしつこく絡みついて離れてくれそうもなかった呪いのようなものが、枷のようなものが、楔になっていたものがようやく外れてくれたのだと、そんな風に感じられた。なにも余計なものがなくなった、わたしだけのわたしに戻れたのだと。

 まるで、今度こそ新しく生まれ変わったみたいに。

 だから彼の茶目っ気たっぷりの言葉にくすりと笑うこともできるようになったし、彼の温かな身体がわたしからそっと離れてしまっても余計な不安を感じなくなったのだろう。

「というわけで、僕の話はこれでおしまい。そろそろちゃんと御役目を果たさないと、ベファーナが来た時に怒られちゃうからね」

「え、でも、ペンダントが反応してくれないと、扉は開かないんじゃ?」

 わたしに背を向けてそう告げた彼に、当然の疑問を簡単に口に出せたのも、だからそのおかげだった。

 そう、感情を一気に爆発させたせいでうっかり忘れてしまっていたけど、わたしたちは目の前の扉を開ける必要があるのだ。わたしがそうする必要はないとエストは言ってくれたけれど、だったらどうやって開けるつもりなのか。もしもこのまま開けられなかったらどうなってしまうのか。

 にわかに不安になってしまうわたしの目の前で、扉の前まで近づいた【救世主メサイア】が左手の手袋をおもむろに脱いでしまった。初めて見る【破壊の子レック・キッド】とやらの剥き出しの手は、そんな忌まわしい力を持っているなんて信じられないくらい真っ白で綺麗なもので、でも他の誰ともなにひとつ変わらないように見えた。

 だからその左手が触れるなり扉が崩れていってしまう光景を、わたしは信じられない思いで見てしまう。ああ、だから近づかないでって言ったのか。確かに迂闊に近づいちゃったら危ないもんね。なんて、場違いに呑気な感想を抱いてしまいながら。

 ――だから、なのだろうか。

「……なんだ、エストくんって……やっぱり、嘘つきじゃない……」

 そんな呟きが、口から勝手にこぼれ落ちてしまったのは。

 きっと、そうに決まってる。世界が美しいから、世界を救いたいとあなたエストは言ったけど、そんなことわたしには信じられないのだから。

 だって、大切なものもそうじゃないものもみんなみんな簡単に失ってしまえるような、こんな残酷すぎる冷たい世界なんかよりも。世界そのものから爪弾きにされた存在であるくせに、そんな世界でさえ美しいと思ってしまえる彼の方が、わたしには美しく感じられるのに決まっているのだから――

 本当に、わたしにはどうしてそんな風にできるのかわからない。いくら二度も手痛い裏切りを受けたからって、世界じぶんを簡単に憎んでしまえるようなわたしには。

 自分の存在を否定されたはずなのにそれでもそんな薄情な世界を美しいと言えるような、強すぎる綺麗な心を持っているエストのことが眩しすぎて、羨ましすぎてしかたない。自分の種族を滅ぼしてしまった罪を背負い森に隠れ住むほど傷ついていたはずなのに、拾っただけの子供をそんな素晴らしすぎるほどまっすぐな人格に育てられたベファーナのことも……うん、まぁ、尊敬できると言えなくもないかもしれない、かな。

 ――なんて、そんな微妙な感情の綾はとりあえず無視しておくにしても。

 わたしが二人のことを心からすごいと思っているのは間違いない。それは一人の個人としてももちろんだけど、なによりも二人の互いを信頼しあい大切に思いあっている関係が尊いと感じてしまうくらいには。

 だからこそ今回のわりと長丁場になった旅の日々を、それぞれ大なり小なり色々な問題を抱えつつも、なんとか大過なく乗り越えられてきたのだろう。思えば過酷な部分もそれなりにありながら、それでも終わりかけた今では楽しかったと胸を張って言えるくらいに。そう、この後も二人と一緒にわたしも加わった三人で旅を続ける光景を、一瞬幻視してしまうくらいには。

 もちろん、わたしの役目はもう終わってしまったのだから、それが叶うようなことはおそらくないのだろうけれど。それでも夢見ることくらいは自由なはずだった。

 ――わたしがそんな夢を見ていたのは、どれくらいの時間だったのだろう。

 ふと我に返ってみると、封印の扉の解体作業は終盤にさしかかろうとしているところだった。得体の知れない金属でできていた扉も、既に半分以上が崩壊状態になっていて大きな隙間を見せつけている。もっとも、見えるのは暗闇だけでその奥がどうなっているのかは、少なくとも離れたここからでは窺えそうもないのだけど。

 カッ カッ カッ

 そして、それでも目を凝らして少しでも状況を確認しようとしたわたしの耳に、石の床を叩く甲高い靴音が飛び込んでくる。

 振り返ると、予想どおり隠し通路をこちらに歩いてきているベファーナの姿が見えた。手にはいつもの杖に加えて、エストから渡された剣も大事そうに抱えている。見たところ黒ローブにもヴェールにも異常はないようだから、怪我をしているということはなさそうだと、少しほっとする。

「――よかった。無事だったんですね」

「? あの程度の相手に心配される理由が思いつきませんが。私は兎も角、そちらは予想通りと言ったところですか。まぁ問題はなにもないようですから、構いませんが」

 わたしの掛けた言葉に不思議そうに首をわずかに傾けると、【滅びの魔女ルインズ・ウイッチ】はそのままわたしの横を通り過ぎて、エストの方へ向かっていく。ただし、その途中でわたしの髪を撫でていきながら。――まるで、慰めるか誉めるかのように。

「ベ、ファーナ……」

 思わず呼び止めてしまいそうになるのを、寸前でこらえて自重した。今はわたしよりもエストの方が重要に決まっているのだから。

 そうして見守る人数が一人から二人に増えて少しばかり経ったところで、ようやく扉が完全に消滅する。それで遮るものがなくなったからか、その向こうの空間からは目映く青白い光が届いてきているようだった。

「お疲れ様、【師匠マスター】」

ええイエス、【我が主マスター】。そちらもご苦労様です」

 お互いに短く言葉を交わすと、懐から取り出してきた新しい白手袋をエストの剥き出しの左手に着けさせるベファーナ。無事に着けられたことを確認したエストが、二、三回感触を確かめるように拳をにぎにぎしてから、ベファーナと軽く握手をかわす。

 それを合図にしたように二人の立ち位置が交換されて、エストの代わりにベファーナが扉(まぁ、もうないんですけど)の前に立った。

 そして、わたしとその隣まで戻ってきたエストが肩を並べて見守る中、彼女はなんの躊躇も見せずに青白い光の空間に向かって歩いていく。現実のものとは到底思えないような、幻想的な光の世界の中へ。


 ――それはまるで、本物の【救世主メサイア】のようだった。

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