赤く染まった雪を見た。

ニシマ アキト

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 その日、沖縄本島に雪が降った。

 目が覚めて、いつものように寝室のカーテンを勢いよく開けて温かい朝日を浴びようと思ったら、曇天によって朝日が差し込まないことはおろか、その灰色の空気の中で無数の白い粒がひらひらと舞っていたのだった。僕は目を疑った。その次の瞬間には、僕は気管が塞がったような強烈な不安感に襲われ、素早くカーテンを閉めて、ベッドの中へと引き返した。今日は仕事をするのはやめておこう。まだ納期までには十分に余裕があるし、予備日も作ってある。雪が降っている状況で仕事などできるはずがない。雪の降る日に仕上げたものを納品するなんて、クライエントにも失礼だろう。

 雪が降らないだろうと思って、沖縄という土地を選んだのに。

 遠く故郷を離れ、わざわざ日本の南の果てに部屋を借りた意味がない。

 心臓が不規則なリズムで激しく脈動している。無意識に呼吸が荒くなっている。僕はベッドの中で身体を丸めて、きつく目を閉じた。完全に不意打ちだった。もう二度と雪を見ないために沖縄に来たはずだったのに。

 毛布の暗闇の中で、僕はスマホで沖縄の天気について調べた。どうやら今、沖縄の空から降ってきているのはみぞれで、純粋な雪というわけではないらしい。沖縄でみぞれが降るのは約四十年ぶりのことなのだという。どうして僕が沖縄に来て一年目の今年に限って、四十年ぶりにみぞれが降るのだろう。僕が雪から逃れることは、やはり許されないのだろうか。

 みぞれということは、沖縄の地面に雪が積もることはないだろう。しかし僕は、白い粒が空気中に舞っている光景を目にするだけで、僕はもう立っていられなくなってしまう。僕の中の、念入りに封印してそのまま死ぬまで二度と思い出したくないような記憶が、否が応でも蘇ってしまうのだ。

 今日は一歩も外に出ず、全ての部屋のカーテンを閉め切って、家の中で大人しく雪がやむのを待とう。そう決めて、僕はベッドの中で二度寝を決め込んだ。

「うわ、マジかぁ……」

 昼過ぎに目が覚めて、さすがに空腹を感じたので昼食を用意しようとした矢先だった。よりにもよって、今日に限って冷蔵庫の中身が何もなかった。二リットルのミネラルウォーターと缶ビールが数本あるだけで、食料の類は何もない。インスタント麺やレトルトカレーも探してみたが、ちょうど切らしているようだった。

「買いに行く、か……?」

 冷蔵庫を閉めて、その場にしゃがみ込んだまま思案する。スマホの天気予報によれば、みぞれは今夜の二十三時まで降り続けるそうだ。部屋の閉め切られたカーテンの向こうを見つめる。

 まさか、雪の降る街に自ら繰り出そうなんて……。

 空腹に耐えることと、雪の中を歩いて買い物に出かけることを天秤にかける。どちらがより苦痛だろうか。

「…………はぁーあ。仕方ないか」

 どちらがより苦痛なのかを考える前に、もっと実際的な問題があった。予報通り今日中に雪がやむのであれば、明日は普通に仕事をしなければならないし、そうなれば明日の夜になるまで買い物に出かける時間は確保できないだろうから、つまり今日食料調達に出かけないとなると、今日と明日の二日間の絶食が確定づけられてしまうのである。今日だけならまだしも、明日も絶食状態が続いたままで仕事をするのはさすがに無理なので、雪だろうが何だろうが、今日を休みにしてしまったからには今日の内に買い物を済ませておかなければならない。

 家のクローゼットを開けて、僕はいそいそと着替え始めた。普段であれば沖縄は冬でもそれほど防寒着を必要としないが、さすがに今日くらいは厚手のジャンパーを着たほうが良いだろう。

 ジャンパーのチャックを上までしめて、部屋の鍵と財布とスマホとエコバッグをポケットにしまって、大きな黒い傘を手に持って、玄関の扉を開けた。関東に住んでいた頃に感じていた刺すような冷気はないが、灰色の空から白い粒が落ちてきている光景を見るだけでやはり気分が悪い。僕は自分の足元を見ながらそそくさとマンションの階段を駆け下りて、真っ黒い傘をひろげて、できるだけ目線を下に向けるようにして、往来の中を歩いていった。

 低気圧の影響もあるのかもしれないが、頭痛もあるし、いつもより身体も重い。少し歩いただけでもう息が上がってきた。本当に僕の体調を慮るのならば、雪の中買い物に出かけるよりも、明日に絶食状態で仕事をするほうがまだ良かったのかもしれない。しかし、そんな状況で仕事をして酷い出来に仕上げて、信用を失うわけにもいかない。

 なんとか近所のスーパーマーケットに着いて、傘をバサバサと開閉して雪を払う。生まれたときからずっと沖縄に住んでいる人はこの雪の払い方を知らないんじゃないかと思う。カートを引くと、身体が重くて思わず取っ手に肘をつけようとしてしまったが、みっともないのでやめておく。

 予め買う物は決めてあるので、素早く店内を移動して商品をかごに入れ込んでいく。いつもは事前に買う物を決めていても、なんとなく他の商品に目移りしてしまって買い物が長引くこともしばしばあるのだが、今日は目移りする余裕もなかった。

 五分とかからず買い物を終えて、店を出ても相変わらず雪が降っていたので傘をさした。歩いている途中で急に体の重心ががくんと右にずれたが、踏ん張って体勢を維持した。重く深いため息を吐くと、まとまった白い空気が天に昇って行った。

 身体ががくがくと震えている。この震えは確実に寒さだけによるものではない。平衡感覚が曖昧になって、次にどちらの足を前に出せば進めるのかわからなくなってくる。

 気づいたら、僕は公園のベンチに腰を下ろしていた。もう無理だ。歩けない。トラウマというのはこれほどに人間の生きる気力を削ぐものなのだろうか。

 ベンチに深く腰掛けて、身体の全体重を預けて、深く息を吐く。傘を持っておく余裕もなくて、真っ黒な傘は開いたままベンチのそばで逆さに転がっている。頭に直接雪が積もることになるが、もうどうでもよかった。泥濘に沈むような眠気に襲われて、何もかもを手放したくなった。

 やがて、公園の外の歩道から小学生の元気な声が聞こえてきた。人生で初めて目にする雪に興奮が抑えきれないのだろう。フリーランスとして仕事をするようになってから、僕が昼食を作ろうと思ったタイミングでふと外を見ると小学生が下校している姿を見たりするから、いったい彼らはいつ給食を食べて午後の授業を受けているのだろうと不思議に思ったりする。こういう下らない思考が眠気を加速させていく。

「あ、あのー……すみません、少しお聞きしたいことがあるんですけれども……」

 朧気ながら瞼を開けると、黒いスーツを着た若い女性が遠慮がちな表情で僕の顔を覗き込んでいた。僕は目を擦りながら、「何ですか?」と雑に返事をした。

「あっ、ごめんなさい、お昼寝中でしたよね……、その、傘、ささなくて大丈夫ですか?」

 彼女はそう言って、僕の頭を撫でてきた。出会って数秒の女性にいきなり頭を撫でられたことに動揺しながらも、僕は地面から黒い傘を拾い上げた。

「え、えっと、頭の上に、雪が積もっていたので……」

「あー、そうですか。そりゃあどうも」と曖昧な笑顔を浮かべつつ納得したふりをしたが、普通初対面の男の頭の上に雪が積もっていても、勝手に自分の手でそれを払ったりするだろうか。状況が限定的すぎて普通も何もないのかもしれないけど。

「それで、聞きたいことというのは?」

 体調は全く改善していなかったが、僕はできるだけ不機嫌を表に出さないよう努めて彼女に応対した。

「あ、えっと、道に迷ってしまったというか……。私、仕事の出張で沖縄に来たんですけど、ホテルの場所が、いまいちよくわからなくて」

「……はあ」

「えっと、ここ、なんですけど……」

 彼女がスマホ画面を見せてきたので、顔を近づけて液晶の文字を読む。沖縄に来て一年目といえど、土地勘がないわけではない。わからない可能性が高いが見るだけ見てみようとしたが、しかしそれは土地勘とか以前の問題だった。

「あの、これ、高知県って書いてありますけど……」

「えっ、えっ⁉ あれ⁉ あっ! やっば! 私、本当は高知県に出張に行かなきゃいけなかったんですね! あっちゃー、沖縄本島と四国を勘違いしちゃってたみたいです。ほら、形がけっこう似てるじゃないですかー!」

 四国とオーストラリアならまだしも、沖縄半島と四国なんて全く似ても似つかないと思うのだけど……。

「……あの、お兄さん。ここは私と一緒にわっはっはーと笑うところですよ。ほら、笑って笑って」

「あなたは笑ってる場合なんですか?」

「笑っている場合ではないときこそ、思いっきり笑って元気を出すんですよ。ほら、幸が薄そうなお兄さんも、笑えば幸福が舞い込んできますよ」

 幸が薄そうとはどういう意味だ、とムカつきつつも、僕は無理矢理口角を上げようとした。しかし身体が重ければ表情筋も重く、上手く笑顔を作ることができなかった。

 するとOL風の彼女は僕の隣に腰かけて、ずいと僕に身体を寄せてきた。

 なんなんだこの人。

「あの、今からでも高知県に向かったほうがいいんじゃないですか」

「いいんですよ。もうどうにもなりません。どうにもならないので、せっかくなら沖縄で少し遊んでいこうかと思いまして」

「じゃあ、国際通りとか行ってみたらどうですか。ここから結構近いですよ」

「お兄さんって、いつもそんなに表情暗いんですか?」

「はぁ?」

 女性は全く表情を変えずに、じっと僕の目を見て、そう言った。

「いや、まぁ、今日はほら、生憎の天気ですから、自然と表情も暗くなってしまうというか」

「生憎の天気? 沖縄に降る雪が、生憎の天気だって言うんですか? あの小学生たちを見て下さいよ。歓喜に舞い上がってますよ」

「子供は雪が降れば喜ぶ生き物ですからね。僕はもういい歳した大人なんですよ。雪が降って良いことなんかない」

「子供に限らず、ほとんどの沖縄県民は、四十年ぶりの雪に少なからず感動していますよ。体調悪そうな顔で憎々し気に雪を睨んでいるのは、あなただけです」

「……別にいいでしょう。僕は寒いのが苦手なんです」

「お兄さんって、沖縄出身じゃないですよね」

「え。……まあ、そうですけど」

「お兄さんがどこ出身なのか、わたしがあててあげましょうか?」

 なぜこちらがあててほしいと思っている前提なんだろう。

「まあ、できるものなら」

「新潟県」

 僕の肩がぴくりと震えた。まさか本当に当てられるとは思わなかった。沖縄県を除いた四十六分の一、だからそこまで低い確率ではないのかもしれないが。

「……あたりですよ。何ですか、あなたは占い師か何かですか? 僕に営業しても無駄ですよ。今、お金持ってないんで」

「わたしはそんなオカルトちっくな職業じゃありません。わたしは占い師じゃなくて、雪女ですよ」

「はぁ?」

 占い師の数倍オカルトっぽい職業だった。そもそも雪女って職業として持つような肩書きではないと思うけど。

「さっきからふざけてます?」

「いやいや大まじめですよ。現に、沖縄に四十年ぶりの雪が降っているのは、雪女であるわたしが沖縄に滞在しているからですよ」

 あんたが元凶だったのかよ。だったら高知県でも何でもいいから早く沖縄から出て行ってくれよ。とんだはた迷惑だ。

「そんなことより、どうしてお兄さんは新潟県という雪国出身なのに、寒いのが苦手なんですか?」

「どうだっていいでしょうそんなこと。あなたが気にすることじゃない」

「気にしますよ。わたしの仕事は、雪で多くの人をハッピーにすることですから」

 この女性の言っていることのどこまでが本気なのかいまいち判然としない。雪でハッピーになれるのは雪遊びが好きな子供だけだ。大人にとって降雪はデメリットでしかないし、場合によっては雪で死者が出ることもある。

 雪遊びが好きな子供にしても、ときには不幸な目に遭うことだってあるのに。

「……じゃあ、ちょっと肩を貸してくれませんか。体調が悪くて、身体が動かなくて」

「わたしが肩を貸せば、お兄さんはハッピーになるんですか?」

「なりますよ、ものすごく」

 女性は表情を変えずに躊躇なく僕の腕を自分の肩に回して、僕が立ち上がるのを補助してくれた。そのまま僕は、女性に担がれながら足を引きずって、自宅までの帰路を歩き始めた。

「僕は寒いのが苦手なんじゃなくて、雪が苦手なんです。だから沖縄に住むことにしたんです。今日の僕がこんな風体でいるのは、雪が降っているからなんです」

「じゃあわたしは、お兄さんにとってはとんだはた迷惑女ってわけですね」

「別にそこまでは言ってませんけど……」

「でも、雪女としては非常に気になるところですね。お兄さんがどうしてそれほど雪が苦手になってしまったのか」

 僕がベンチの上で力尽きていたあの公園から自宅のマンションまでは、徒歩十五分ほどの距離があった。その道中僕はずっと女性に肩を担がれる体勢で、つまり身体を密着させた体勢でいなければならないわけで、その状況での沈黙というものに僕は耐えられない。そういう緊張もあってか、僕は高校を卒業してからは誰にも話したことのないあの記憶を、女性に滔々と語り始めてしまった。あるいは、彼女が雪女だからこそ、話そうという気になったのかもしれない。

 僕は雪が苦手、なんてものじゃない。僕は雪を心の底から憎悪している。恨んでいるし呪っている。この世から雪という概念が消失すればどんなに良いだろうと夢想したことも何度もある。だから僕はあれからずっと、雪が降った日にはずっと家に閉じこもっていた。

 地元——新潟にいた頃の、あの出来事以来、僕は雪を目に映すことすら恐ろしくなった

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