赤いポピーを胸につけて
赤いおはなを胸につけているおばあさんとすれ違った。コイン大のそれは灰色のコートの上によく映えている。ブローチかなんかかな、みたいな独り言が脳みその端っこくらいを通っていく。
寮のレセプションに募金箱のようなものが設置されて、見返りが入っていると思われる、半分小学生のお道具箱のような細々したものの詰まった箱はなんとなく視界に留まっていた、留まっていたけれどそのあまりのごちゃごちゃしさに中身をきちんと確かめることはなくていた。
赤い花のブローチを胸に付けたおばあさんと行き交う。ん? とわずかな既視感、ピン、という感覚が迫る一歩手前のもやつき。ウール地のコートに手編みと思しき赤い花、おしべの部分は黒い丸でできている。おばあさんになったらマネしよ、と思いながら視線を前へ向けた。
つぎの日、またおんなじような赤い花をつけたおじいさんと行き交う。こんどはぺらぺらした素材で出来た丸い二枚の花弁が黒い丸で繋がれて、葉と茎がそれぞれ右上と左下にぽいぽいと付けられたような簡素なデザインだった。記憶が辿られて前も見た! という思いつきに至る。ほう。注意深く周りのひとびとを見渡すと、老人・子供を中心に、いけてるオジサンや時々おねえさんまで、幅広く、赤い花をつけているのだ。
そのまま数日を過ごすうちに、あ、また、まただ、とぽつぽつとキャンドルに灯が点っていくように、たくさんの赤い花を胸につけた集団に囲まれ出したことに気づいた。ある日、寮とキャンパスを結ぶバスの、お馴染みの運転手の黒スーツの上にも赤がついた。もちろんネットで調べれば簡単なことなんだけど、なんとなく直接誰かの口から聞きたくて、高校をイギリスで出ているソフィーに尋ねてみる。
「ああ、」
と彼女は、WW1で殉死したひとを忘れない、という意味だよ、ということを、もう少し詳しいバックグラウンドをくるめて知的な言い回しで教えてくれたのだけど、彼女の言葉がうまく聞き取れない私は、依然としてきちんと事情がわからなかった。意味ねえ。
最も簡素化されたデザインだと、細胞分裂の最終段階、あるいはベン図みたいなその模様は、イギリス人のあかしだ。どうやら若い世代だとつけるひとも少ないようだけれど、そのいわれを百年前に遡るそれは、直近に移民の歴史を持つイギリス人たちが付けている様子はない。みんなで赤いお花をつける、そのなんだか平和な響きにすっかり惹き込まれたけれど、たしかに第一次世界大戦のイギリス人殉死者をわたしが悼む謂われは無さすぎて、付ける気はまったく起きなかった。でも欲しいじゃん。でもよそ者なわたしが買うの恥ずかしいじゃん、なんもわかってねえくせに買ってんな、みたいになるじゃんまじでそうなんだけど。自意識との葛藤がしばらく続いた。結局大学内では、(ほとんどのお金を扱うところには置いてあった)じとっと募金箱を眺めるのにとどまる。
直訳すると読書週間、小学校みたいな呑気な響きのReading Weekの金曜に、ロンドンに芝居を観に行った。せっかくなのでその前にV&Aの展示も予約して立ち寄る。ロイヤルオペラハウス、自然史博物館なども密集するそのエリア、サウスケンジントンでUndergroundを降りると、めのまえにあかいおはな! ついにその花がポピーを表していることが知れる。いかにも英国紳士なおじさんがたが募金をつのっていた。そこで赤い羽根募金に類するシステムなことが知れる。しかし、
「3ポンド以上の募金をお願いしております」
との注文付き。3ポンドぴったりはなんかせこいな、けど5はシブいな、という虚栄心とケチの妥協点は、手持ちの小銭を付け足す程度に落ち着いたところで、横で5ポンド紙幣をさっと渡したこちらもブリティッシュ〜なおにいさんが
“That’s very kind sir, thank you so much”
と言われてて勝手に当てつけみたいに感じてしまう。いただいたピンバッジはコートの左ポケットに押し込んでそそくさとその場を立ち去った。切符と同じところに仕舞った2センチ四方のそれは、落としそう、という予感と、本当に落としたら「落としそうだと思ってたの!」と悔しみつつ、それはそれでイギリスに認められなかった、的なことよね、なんて自分を納得させればいい、なんていう想像が通り抜けたけれど、終電近くの電車がいくつかキャンセルされていつもより長くかかった帰路を経て深夜にたどり着いた自室まで、無事に運ばれることができた。
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