人々は、その海賊をただ〝鬼〟と呼んだ

藍条森也

第一話 〝鬼〟と〝詩姫〟の物語

 〝鬼〟。

 その海賊はただ、そう呼ばれていた。

 本名不明。

 年齢不明。

 経歴不明。

 出生地不明。

 そして、おそらくは――。

 死ぬ場所も不明。

 陸の掟にも、海の掟にもそむいて自分ひとりの価値観で生き抜く男。

 人々は、その海賊をただ〝鬼〟と呼んだ。


 ひとりの海賊が恐怖におののいていた。

 目を限界まで見開き、喉をからからにして。

 イベルナ。

 女海賊イベルナ。

 近隣ではなかなかに名の知れた海賊である。

 一〇〇を超える部下を従え、大型の武装船を駆って海を征く。

 貨物船に対する襲撃を繰り返し、海辺の村や町を襲い、人を殺し、財を奪う。

 その残虐さ、徹底した殺し振りは海賊のなかでも群を抜いており、海賊を超えた『海凶かいきょう』の名で呼ばれるひとりである。

 この辺りの船乗りにとっては恐怖の代名詞であり、海辺の村や町にとっても憎悪の的。ほぼあらゆる国から賞金を懸けられており、その額も海賊たちのなかで常に上位。賞金に目の眩んだ船乗りや、各国の海軍が幾度となく討伐に出向いたが、成功した試しは一度もない。ことごとく、返り討ちに遭った。

 そうして、海に潜む脅威、海凶と呼ばれるようになった。

 それがイベルナ。

 女海賊イベルナ。

 しかし、その海凶はいま、自身を遙かに超える恐怖の前におそれ、おののいていた。

 いままで幾度となく、自分自身が他人を追いやってきたのと同じ立場におかれていた。

 襲われ、

 奪われ、

 殺される。

 その立場にだ。

 イベルナの前には恐ろしく大きい、いわおのような男が立っていた。

 巨体。

 威圧感。

 獰猛どうもうな雰囲気。

 それでいて、やけに軽やかな身のこなし。

 そのどれもが人間のものとは思えなかった。

 それも、当然。男は誰からも『人間』とは呼ばれていなかった。

 〝鬼〟。

 ただ、そう呼ばれていた。

  「……な、なぜだ、〝鬼〟。なぜ、お前がわたしを襲う?」

 イベルナはからからになった喉でようやく、それだけを言った。

 一〇〇人を超える部下はすでにいない。

 ことごとく〝鬼〟によって斬って捨てられた。

 突然、自らの船で襲撃をかけてきたと思うと、イベルナの船の横っ腹に激突。そのままたったひとり、乗り込んできた。迎撃しようと殺到するイベルナの部下たちを麦でも刈り取るようにことごとく斬り倒した。

 その姿はまさに鬼。

 鬼に人間がかなうわけがない。

 そう納得させる姿だった。

 「……同じ海凶であるお前が、なぜ?」

 同じ海凶。

 イベルナはそう言ったが、実際には〝鬼〟とイベルナでは海凶としての格がちがう。

 襲った数。

 殺した人数。

 その首にかけられた賞金。

 すべてにおいて桁がちがう。

 名にし負う海凶イベルナと言えど、〝鬼〟の前では天然痘てんねんとうの前の風邪のようなものだった。

 ニヤリ、と、〝鬼〟は笑った。

 なんともゴツい、いかめしい面構え。

 『美男子』などと言うにはほど遠い風貌。

 それなのに、そうして笑って見せると、なんとも人を惹きつける愛嬌あいきょうのようなものがある。

 「美しくねえんだよ。おめえは、よ」

 「な、なに……?」

 「女海賊イベルナ。もともとは小さな山村の産まれ。薬師くすしの母親のもとに産まれた何の変哲もない娘だった。ところが、ある飢饉ききんの年。薬師の母親は作物に呪いをかけ、飢饉をもたらした魔女だとして告発された。異端審問にかけられ、さんざん拷問にかけられたあげくに死亡。娘であるお前も村の連中の手によって奴隷商に売り払われた。一〇歳にもならぬ身で娼婦として働きに出され、男どもの相手をする毎日。しかし、お前は生き延びた。やがて、知恵をつけ、娼館を逃げ出し、海に出た。名の知れた海賊に拾われ、自身も海賊となった。自分と母親とを不幸にした世間に対して復讐するために。そうして、襲撃しゅうげき殺戮さつりくを繰り返し、海凶と呼ばれる身になった。そうだったよな?」

 「そ、それがどうした?」

 別に秘密でも何でもない。

 〝鬼〟の語ったイベルナの境遇はこの辺りではよく知られていることだ。イベルナ自身、隠してはいなかった。むしろ、自ら吹聴ふいちょう。していた。

 自らの行為を復讐だと誇示するために。

 自分と母親とを苦しめた陸の人間たちに恐怖を植え付けるために。

 女海賊イベルナ。

 その名を知るものにとっては、知っていて当たり前の物語に過ぎない。

 それに、めずらしい話でもない。

 同じ境遇にある娘などいまの世にめずらしくもない。

 イベルナがめずらしいのは、単に復讐を目指しただけではなく、実際にそれを行えるだけの力を身に付けたという、ただその一点だけ。

 〝鬼〟は分厚い唇を笑みの形にねじ曲げた。

 「情けねえ」

 「な、なんだと?」

 「世間に殺されたってえなら、堂々とそのむねかかげ、『正義』として戦やあいい。それを、海賊なんぞになって関係ねえやつらをチマチマ殺してまわる。それを『復讐』なんぞと言ってやがるとはな。

 悲しみを背負った悪なぞ、悪じゃねえ。

 ただの負け犬だ」

 〝鬼〟のもつ湾曲わんきょくした大刀たいとうがイベルナの頭上に振りおろされた。

 轟音を立ててイベルナの体は真っ二つに両断されていた。

 人間の業ではない。

 鬼の膂力りょりょくに任せた鬼の太刀だった。

 イベルナの死体に向かい、〝鬼〟は笑いながら言った。

 「悪は常に強く、雄々しく、そして、美しくなけりゃならねえ。悪の美学が足りなかったのよ、おめえは、よ」

 そして、〝鬼〟はその場を去った。


 甲板は海賊たちの死体で埋まっていた。至る所が血によって染めあげられ、おぞましい匂いを漂わせていた。

 そのなかにあまりにも似つかわしくないひとりの少女がいた。

 全身、産まれたままの姿に首輪を付け、奴隷の鎖を付けた少女。

 その少女はなにも言わず、なにも語らず、ただひたすらに〝鬼〟によって斬り捨てられた海賊たちの死体を見つめている。

 「よう、〝詩姫うたひめ〟」

 親しみさえ込めて、〝鬼〟は少女を呼んだ。

 〝詩姫〟と呼ばれた少女は〝鬼〟を見た。

 「また、〝覚えて〟るのか?」

 コクリ、と、〝詩姫〟はうなずいた。

 〝鬼〟の連れ、ではない。

 〝詩姫〟が勝手に付いてきているのだ。

 〝詩姫〟の住んでいた島はかつて、〝鬼〟によって滅ぼされた。

 家々は焼かれ、人々は殺し尽くされ、すべての財は奪われた。

 そのなかでただひとり、おそらくは〝鬼〟の気まぐれによってだろう。幼い少女だけが目こぼしされた。〝鬼〟は奪った財と共に少女を自分の船に放り込んだ。手近な港に入り、幾ばくかの財と共に放り出した。

 「そらよ。それだけありゃあ、何とかなるだろう。ってか、生き残りたいなら何とかしな」

 それだけを言い残し、船に乗って去ろうとした。だが――。

 少女は陸に残りはしなかった。

 そのまま〝鬼〟について船に乗り込み、〝鬼〟と共に出立した。

 自らの復讐のために。

 そうして、少女は〝詩姫〟となった。

 「わたしは、あなたの悪行すべてを記憶する」

 〝詩姫〟は言った。

 「そのすべてをあなたに語って聞かせる。いつか必ず、あなたに良心を植え付け、良心の苦しみを与える。そのために」

 「やってみな!」

 〝詩姫〟の呪いの言葉に――。

 〝鬼〟は豪放に言い放った。

 「さあ、行くぞ! 出立だ」

 「今度はどこへ?」

 「決まってらあ」

 〝鬼〟はニヤリと笑った。

 「あさっての方向さ」


 本名不明。

 年齢不明。

 経歴不明。

 出生地不明。

 そして、おそらくは――。

 死ぬ場所も不明。

 人々は、その海賊をただ〝鬼〟と呼んだ。

                 

                   完




※注 〝鬼〟は2023年春、執筆開始予定の長編『壊れたオルゴール』にメイン悪役として登場します。

 

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