寵愛の精霊術師
触手マスター佐堂
第1話 転生したようです
頬に風を受けた感触で、オレは目を覚ました。
疲労のせいか頭が重い。
あまり頭が回転していないのが自分でもわかる。
空いている窓とカーテンの隙間から月光が漏れて、オレの周囲を薄く照らしている。
どうやら、あそこから風が入ってきたようだ。
……ところで、ここはどこだろう。
今、オレが寝ている周囲の風景に見覚えがない。
とは言っても、視認できるのは月明かりが漏れている窓際付近だけで、室内のほかの部分は暗くてよく見えない。
ベッドから降りて立ち上がろうとしたが、うまく起き上がることができなかった。
それどころか、身体をうまく動かせない。
まるで誰か別の生き物の身体に入ったみたいだ。
「――――」
声を出そうと思っても、うまく発声することができない。
まるで、身体が声の出し方を忘れてしまったかのようだ。
混乱を抑えながら、今の状況を整理してみる。
オレ、――は、昨日、普通に自分の部屋のベッドで寝ていたはずだ。
それがなぜ、こんな広い部屋で一人で寝ているんだろうか。
って、あれ。ちょっと待て。
自分の名前を思い出せない。
それは看過できない違和感だった。
うまく身体を動かせないことや発声できないことはまだしも、自分の名前を忘れるなんてどう考えてもおかしい。
地球という惑星にある日本という国に生まれたことは覚えている。
そこで、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学……大学の記憶がないような気がするが、とにかくその辺りまでは進学してちゃんと卒業しているはずだ。
そこで、自分の年齢まで忘れていることにも気付いた。
自分の一人称すらあやふやになってきている。
オレ? 僕? オレと呼んでいたような気がするが、僕と呼んでいた可能性も捨てきれない。
自分という存在が曖昧になっていることへの恐怖で、オレは震えた。
パニックを起こしかけたそのとき、突然、窓際のカーテンが大きくはためいた。
窓の外。そこから、さっきまでなかったはずの人間の気配が、はっきりと感じられる。
誰かがいるのははっきりしている。
だが、オレはただ横になって、じっとそこを見つめることしかできなかった。
自分の心臓の音が聴こえるほどの静寂。
……どれぐらいの時間が経っただろうか。
永遠に続くかと思われたその時間にも、とうとう終わりがやってきた。
やがて、カーテンの裏から
「――――」
オレは思わず、ため息を漏らしていた。
月明かりに照らされたその人――彼女の姿は、あまりにも美しかった。
腰まで伸びた深緑色の髪に、翡翠色の瞳。
その華奢な体躯を、漆黒のドレスが覆い隠している。
年齢は十代前半だと思うが、その表情は少女のものとは思えないほどに艶やかだった。
少女としての幼さと、女性としての妖艶さを兼ね備えた、まさに魔性の女という言葉がよく似合う。
少女はオレの姿を視認すると、パッと表情を輝かせた。そして、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
そこで新しい違和感に気付いた。
顔がでかい。
いや、よく見ると顔だけじゃなくて全体的にデカい。
……間違っても女性に向かって言う言葉ではないが、実際にそう感じるのだから仕方がない。
なんだこれ。どうなってるんだこれ。
「……愛してる」
彼女の口から可憐な声が紡がれる。
それは紛れもなく、オレへの愛を表す言葉だった。
瞳を潤ませ、頬を紅潮させた彼女がオレの顔に近づき、やがて唇に何か柔らかいものが押し付けられる。
その甘美な感触が少女からのキスによるものだとわかった瞬間、オレの意識はブラックアウトした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
二度目に目を覚ましたときは、太陽が高く昇っていた。
改めて、今自分が置かれている状況を確認する。
が、場所自体は昨日の夜と変わっていないようだ。
そういえば昨日の夜、女の子にキスされたような気がするが……今はあまり深く考えないで置いておくことにする。夢の中の出来事かもしれないし。
そして、昨日とは明らかに違うものが部屋の中にあるのに気付いた。
いや、
「よしよし、ラルはあまり泣かないのねー。……ねぇ。大丈夫なのよね、この子。全然泣かないから心配だわ」
「そういう子もいますよ、特別変なことではありません。あまりにも様子がおかしい場合は治癒師(プリースト)を呼ぶべきでしょうが」
「そうね、そうよね」
オレの頭の上で、二人の女の人が話している。
一人は、ゆったりとした白いネグリジェを身に纏った少女だ。
見た感じかなり若い。中学生ぐらいなのではないだろうか。
だが、それよりも目を引いたのはその容貌だった。
オレのことを見下ろしているその瞳の色は朱色だ。
色という色がすべて抜け落ちたような長い白髪に、灰色の肌。
整った顔立ちの美少女だが、どう見てもオレが知っている日本人の特徴とは一致しない。
いや、そこにも驚いたが、オレが本当に驚いたのはそこじゃない。
少女の背中から、彼女の身体を包むように二対の純白の羽根が生えているのだ。
全長はおよそ一メートルといったところか。
太陽の光に反射してか、その羽根は微妙に発光しているようにも見える。
もう一人は、メイド服のようなものを身に着けた女性だ。
歳は二十代前半ぐらいだろうか。先ほどの少女が可愛い系の顔立ちだったのに対し、こちらは美人系だ。
ショートボブにしてある髪は藍色で、肌は白い。
こちらの女性の背中には、羽根は生えていなかった。
え? なに? コスプレ?
こんなド派手な衣装を身に着けた連中、日本でもそうそうお目にかかれるものではない。
それに、昨日の夜に見た少女と同じように、この二人もなんだかやたらと大きく見えるのは気のせいだろうか。
「さあ、ラル」
少女が、オレのほうへと腕を伸ばしてくる。
なんとか動こうともがくものの、相変わらず身体は脳からの命令を受け付けない。
何の抵抗もできないまま、オレはその少女に抱きかかえられた。
……は?
意味がわからない。
オレの体重は、こんな華奢な体躯の少女に支えられるものではないはずだ。
混乱するオレをよそに、頭上の二人は会話を続けている。
「え、えーっと。こ、こんな感じかしら?」
「奥様。恥ずかしいというお気持ちはわかりますが、このままではいつまで経っても終わりませんよ?」
「うう……わ、わかったわ」
メイドらしき人に急かされた少女は、覚悟を決めた表情でオレに向き合った。
いったい何をするつもりなのだろうか。
「そ、それじゃ、ラル……」
少女は顔を真っ赤にしながら着ている服を緩め、その豊満な胸をさらけ出した。
突然目の前に広がった暴力的なまでのその美しさに、一瞬思考が停止する。
これはもう豊満とかそんなレベルじゃない。爆がつくほどの巨大な――、
「……!?」
次の瞬間、恐ろしいほど柔らかく温かいものが、オレの顔面を完全に覆い尽くしていた。
なんとか呼吸をしようと口を開けるものの、空気が入ってこれるような隙間はどこにもない。
ああ、意識がどんどん遠くなっていく。
色々と心残りはあるが、こんな死に方も悪くはない、か。
「奥様、やり過ぎです。ラルフ様を窒息死させるおつもりですか?」
「えっ!? あっ! ご、ごめんねラル!」
メイドの指摘に気付いたらしい少女が、オレの顔を覆っていた柔らかいものを退けた。
そのおかげで呼吸ができるようになる。
危ない危ない。本気で窒息死するところだった。
こんなことで死んだらさすがに情けなさすぎるぞ……。
そんなことを考えながら乱れた息を整えていると、少女の大きな胸が丸出しになっているのが目に入った。
自分の唾液と思しき液体で濡れたそれの先端を見て、思わず顔が赤くなる。
「大丈夫、ラル!?」
けれどそんな不埒(ふらち)な気持ちは、一瞬にして吹き飛んだ。
オレを抱きしめて、半泣きになりながら心配そうに見つめてくる少女。
そして、本能的に理解する。
この人が、オレの母親なのだと。
そしてこの現実を端的に言い表すことができる言葉を、オレは知っている。
「ラル……」
少女――いや、母さんはオレを抱きしめた。
それと同時に、オレの頭は白い靄をかけられたように働かなくなる。
今度は苦しくなかった。
母さんは、とても大切なものを、壊れ物を扱うようなそんな優しい手つきでオレに触れている。
どうしてだろう、涙が溢れそうになった。
この、あたたかいものに包まれている感じ。すごく安心する……。
「あら、寝ちゃうの? ふふっ。おやすみ、ラル……」
頭上から母さんの優しげな声がかけられ、オレは意識を手放した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
オレが
結論から言うと、オレは異世界に転生してしまったらしい。
剣と魔法の、ファンタジー世界に。
最初は半信半疑だった。
そりゃそうだろう。
異世界転生なんて所詮は物語の中だけの話であって、どれだけ願ったところで現実に起こるはずなんてない。そういうものなのだと、信じていた。
だが現に、オレは生後約一か月の赤ん坊になって、異世界にいる。
この現実を受け入れなければならない。
とはいえ心配はあまりしていなかった。
この家は特別貧乏ということもなさそうだし、向こうが何を話しているのかもオレは知ることができる。
まあ何とかなるだろう。
問題なのは、オレが魔法や剣を扱うことができるのかどうかわからないことだ。
チートを持っている実感はないし、努力の積み重ねでコツコツとやっていくしかない、か。
いや、もしかしたらチートも持っているのかもしれないが。
ただ、今は動けない。
誰から魔法や剣術といったものを教えてもらえるのかも見当がつかないし、そもそもオレはまだ字も教えてもらっていない子供。
そんな子供が魔法を使いたい、なんて言いだすのもおかしな話だ。
つまり、今のオレにできることといえば、もっとこの世界について知ることぐらい。
そういうわけで、オレはこれから魔術などに触れることができるまでの時間を、ひたすら情報収集のために使って過ごすことにした。
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