第2話ー2 箒であり蛇であり
1
翌日早朝、みふぎちゃんは早起きしてラジオ体操をしていた。ケータイで動画を流して、一人で黙々とやっていた。あまりに大音量でやっていたので、階下まで響き渡っていた。おかげで叩き起こされて、ラジオ体操第二から合流する羽目になった。
小学校はほとんど行かなかったので、夏休みの宿題なんかやった覚えがない。そもそもラジオ体操もちゃんとやった記憶がないので、みふぎちゃんがやっているのをなんとなく真似しただけ。
「これ、スタンプ押して」みふぎちゃんはラジオ体操出席簿を見せた。
夏休み期間の日付の下が空欄になっており、そこに出席の証拠としてスタンプを押してもらうことになっているらしい。
「印鑑しかないんだが」
「かわいいのがいい」
困った。
売ってるかわからないと前置きしてコンビニに出向いたが、文房具コーナにそれらしきものがあった。
ところでシャオレーさんの姿が見当たらないが、そのうち戻って来るだろう。
「にゃんこちゃんがいい」
お望みの猫のスタンプを3種類(おかげでスタンプコーナは品切れ)買ってあげた。
「ありがとう。あっくん、明日から一緒にやれる」
「起きられたらな」
「わたし、起こしたげる」
朝食を食べ損ねていたのを思い出して、ファーストフード店に入った。みふぎちゃんはホットケーキを食べた。リンゴジュースも忘れずに。
「今日のお仕事は?」
「一緒に来なくていい」
「追い払うのならやれる」みふぎちゃんは頼もしげに頷いた。
事務所に戻ると、伊舞が出勤していた。
「おはようございます、若。みふぎちゃんも、おはようございます」伊舞は、みふぎちゃんと目線を合わせて感じのよい笑顔を向けた。
「おはようございます。えっと、お兄さんは」
「昨日自己紹介してなかったね。僕はここに勤めている事務員です。伊舞といいます」
「イマイさんは、あっくんのお兄さん?」
「残念だけど違うよ。僕は支部長の部下です」
「あっくん、えらい人?」みふぎちゃんが俺の顔を見る。
「若はこれからもっと偉くなるんですよ。いずれは社長になる人なので」
「すごい、しゃちょー。えらい人」
「余計なことを言わなくていい」
伊舞が毎日組んでくれている仕事のスケジュールを確認する。件数が少ないときは自分でやっていたのだが、もう自分一人ではどうにもならないほど、毎日依頼が立て込むようになった。嬉しい悲鳴なのだが、如何せん、いつ自分が何をすればいいのか、自分でもその都度確認しないと捌けなくなってしまった。
ちなみに、今日の仕事は。
「伊舞、確認するが、これ」
「はい、昨日のみふぎちゃんの大活躍を受けて、組合長経由で、どうしてもというお得意様のお声をもとに急遽組み直しました」
「もともと入ってた依頼があっただろ?」
「運よく緊急性のあるものがなかったので、事情をお伝えして、延期していただきました。これも日頃、若がこつこつ信用を積み重ねている賜物ですね」
いいのか、それで?
というか、組合長の声が大きいのがいけない。あの人見た目もやることも目立ちすぎるんだ。
だいたい、みふぎちゃんに何の断りもなく勝手に。
「わたし、役に立ちたい」
いいらしい。
午前の部は、昨日みふぎちゃんの単独宿泊をお願いしたホテルからだった。
ここから徒歩で行ける。
「みーちゃん、よく働くね」シャオレーさんが付いてきていた。
朝方はまだ気温が上がりきっていないので移動しやすい。
「お父さんもおはよう。あっくんがラジオ体操してくれた」
「あっくん、僕が至らないところまでありがとうね」
子守りバイトてこんな感じなんだろうか。
ホテルは夏休みシーズンなのでだいぶ賑わっていた。チェックアウトの時間帯なので、ロビィに人が集まっている。その合間を掻き分けるつもりはないので、ラウンジのソファで待つことにした。
しばらくして、顔見知りの支配人が問題の部屋に案内してくれた。
4階の404号室。
「もともと404号室は存在しないんですよ」支配人が苦々しい顔で言う。「縁起が悪いので、わざと4と9を飛ばして番号を振ってるんですけど」
扉には確かに、404とあった。
金属プレートが付いており、後付けで細工したという形跡も見当たらない。少なくとも見た目では。
「この部屋はいつからありますか?」
「最初の報告は、だいたい1ヶ月前ですね」支配人が答える。「最初は従業員がふざけているのだと思い本気にしませんでしたが、さすがに大半から懇願されたら見に来ざるを得なくて」
404の手前は403、その奥は405となっている。
やはりこの部屋は404以外に番号を振れない。
「中に入れますか?」
「どうぞ」支配人がカードキーを手渡す。
キーにも、404とあった。プラスティックに直接印字してあるので、加工はできなさそうだった。
「入ったことは?」
「ありとあらゆる気味の悪い現象が報告書で上がっていますね。それの一つ一つの信憑性は低いのですが、あまりにも数が多い。無視できる数じゃない」
みふぎちゃんが、黙って扉を見つめている。
「客を泊めたことは?」
「我々も評判が物を言いますからね」支配人が言う。「何かがあってからでは遅い。万全を期して、この部屋を私が目視したときから、4階自体に客を入れていません。従業員にも無闇に近づくなと言いつけてあります。オンシーズンにワンフロア丸々使えないなんて、嫌がらせ以外の何物でもありませんよ」
みふぎちゃんが振り返って、無言のまま頼もしげに頷く。
「あの、申し訳ないんですが、終わったら呼びますので」
「有難いです。実はこの手の話題がすこぶる苦手でして」支配人が首を振って肩を竦める。「組合長から聞いたとき、さすがは会長のお孫様と手を合わせたものです。では、何卒よろしくお願いしますね」
支配人が足早に立ち去る。先ほど、部屋に入ったかどうかの質問をいなされたが、この反応を見るに、自分では一度も体験していないのだろう。
「見える?」エレベータが到着して降下する音を確認してから、みふぎちゃんに話しかけた。
「昨日のより大きい」
「いけるか?」
「そのために来てる」
「僕が開けるね」シャオレーさんがカードを差して、ドアノブに手をかけた。
ゆっくりと、扉が開く。
「あっくん、ここにいて」
スケッチブックを抱えたみふぎちゃんの後に、シャオレーさんが続く。
ドアが勝手に閉まった。
急いでドアノブを触ったが、押しても引いても開かない。
「みふぎちゃん! シャオレーさん!」ドアを力の限り叩いた。「大丈夫ですか? 無事ですか?」
みふぎさんのことがよぎって鳥肌が立つ。
黒なんかよりよっぽど怖い。
また俺は、役に立たないのか。
「ホテルってさ、オートロックなんだよ。知らなかった?」シャオレーさんがドアを開けて内側からのぞいていた。
恥ずかしい。
あらゆる不都合なことを、怪奇現象に結び付けるのをやめたい。
「みーちゃんがトランス入ってるから、静かにね」シャオレーさんが唇に指を立てる。
ずん、と重い圧力を全身に受けた感覚が襲う。
黒が。
見える。
部屋そのものを満たしていて、部屋の内装がまったくわからない。
床に座っているみふぎちゃんが、スケッチブックにクレヨンを塗りたくっている。
黒。
黒黒。
黒一色。
これ以上黒を塗れなくなった紙をぐしゃぐしゃに丸めて。
力の限りびりびりに引き裂く。
そのタイミングで。
黒は。
晴れる。
「おしまい」みふぎちゃんが立ち上がってこちらを見る。
「お疲れ様」
部屋から出て扉を確認したが、客室ではなく、スタッフルームだった。スタッフオンリーと書いた金属プレートが貼りついている。周囲を見て回ったが、404号室は確かに消滅していた。
1階のロビィに下りて、終了したことを報告すると、スタッフがぞろぞろと4階に確認に行った。
支配人の好意で、ランチビュッフェを御馳走になった。みふぎちゃんは大好きなリンゴジュースをお腹いっぱい飲み放題できて満足そうだった。
「報酬って別でもらってるんじゃないの?」シャオレーさんが言う。コーヒー片手にみふぎちゃんの隣に座っている。
「みふぎさんはどうだったのか知りませんが、俺のは無料オプションです。うちの会社の客に対して、困りごとや依頼を解決するなんでも屋です。祖父がその昔やってたのを、そのままもらっただけですけどね」
「二代目なんでも屋てこと?」
「三代目ですね。社長も――母も、短期間ですがやってたらしいので」
「社長になるには通らなきゃいけない必須業務てわけなのかな。面白い会社だね、君のところは」
「あっくん全然食べてない」みふぎちゃんが新たに料理を持ってこようとしたので。
止めた。
「なんで? 朝もスープだけ」
「腹が減らない」
「好きなもの持ってきたげる。何がいい?」みふぎちゃんが、俺の眼をじっと見る。
好きなもの。
あるのだろうか。
「動いたらお腹減るよ。そうゆうことじゃないのかな」シャオレーさんが言う。
「正直に言うと、何かを食べたいと思ったことは一度もないです。生きるために仕方なく口に入れてるだけで」
「リンゴジュースおいしいよ?」みふぎちゃんが自分のグラスを俺のほうに近づける。
「これはみふぎちゃんのだよ」グラスを持ち主に返す。
だから、
誰かと一緒に食事なんかしたくないのに。
支配人がプールと温泉複合施設の無料券をくれた。
ちょうどその施設の傍の旅館が、午後の仕事先だ。
偶然にしてはできすぎているので、支部に依頼する前に内々で優先順位が決まっていたのだろう。俺はただそれをなぞって、みふぎちゃんを連れていくだけ。
せめて会長の孫には気持ちよく依頼先に出向いてほしいという、誰が主導かもわからない不要な心配りだ。
そんなことをしなくても、
仕事なんだから行くしやるのに。
「あっくん、怒った?」みふぎちゃんが俺の顔をのぞきこむ。
移動は電車を使った。たまには電車に乗りたいときもある。
「怒ってないよ」
「じゃあ笑って」
「面白くないのに笑えないな」
それきりみふぎちゃんは黙ってしまった。シャオレーさんも何か言いたげにしているが何も言わない。
旅館に着いた。
初対面だったが、挨拶もそこそこに、女将が旧館に案内してくれた。玄関に足を踏み入れた瞬間、頭重感と寒気が同時に走った。
黒が。
居座っている。
女将には本館に戻ってもらった。怪訝そうに何度も振り返っていたが、そのたびに「大丈夫です」と返答した。
みふぎちゃんが建物に入ろうとしない。
「どうした?」
「逃げた」
黒が。
消えている。
「どこに」
「おかみ!」みふぎちゃんが走り出した。「お父さん!」
「はいよ」シャオレーさんがいち早く本館に戻って、女将を捉えた。
黒が。
噴出する。
みふぎちゃんがぶつぶつと何かを唱えて、スケッチブックに墨汁を垂らす。指や手の平で拡げ、ぐしゃぐしゃに丸めて引き千切る。
「おしまい」みふぎちゃんの締めの一言で。
ふう、と息を。
吸って吐くことを思い出した。
心配した旅館の従業員が集まってきていたが、事情を説明してわかってもらえた。女将も無事だった。
「疲れたかな?」シャオレーさんが声をかけてくれた。
みふぎちゃんが手を洗わせてもらっている間、ラウンジで待つことにした。
「しばらくこんなことを続けるとなると、それなりにきついものがありますよね」
「君は留守番でも、と思ったけど、君のお客だからね。君が行かないと始まらないしね」
観念するしかなさそうだった。
「せめて、あんまり黒を直視しないほうがいいかもね。見てるだけでもってかれる側面もあるから」
「あっくん、プール行きたい」戻ってきたみふぎちゃんが万歳する。妙に大きなトートバックの中身は、スケッチブックと画材だけではなさそうだった。
功労者を労うためにも、無料券をもらった施設に行くことにした。好意を無碍にもできない。それにきっと、予定にない仕事が入るだろうと容易に想像がつく。
俺はこのまま一生、敷かれたレールの上を無感情に進むしかない。
施設は大きく分けて、屋外プールと室内温泉の二つ。個人的には温泉のほうがよかったが、みふぎちゃんを一人にもできないので、道すがら水着とタオルを買ってから向かった。
14時。最も暑い時間帯。
空もどこまでも蒼い。絶好のプール日和だろう。
施設は19時まで営業しているので、そこそこ長い時間遊べそうだった。
問題は、みふぎちゃんは男女どっちの更衣室を使うのか。
「女子用でいいんじゃない?」シャオレーさんが言う。「だって着替え前も後も女の子にしか見えないわけだから、更衣中だけ隠せば問題ないよね」
確かに。というか深く考えるのが面倒くさかった。
「じゃあ着替えのあとで」更衣室の前で別れる。
「僕がついてくから心配しないで」シャオレーさんはそう言うが。
シャオレーさんが女子更衣室に入るほうが問題ではないのだろうか。もうどうでもいいか。
俺の着替えはさっさと終わったので、見つけやすい場所で待機することにした。
「あの、失礼ですがお孫さんでいらっしゃいますか」40代くらいの男性に声をかけられた。スタッフ用Tシャツを着ているが、雰囲気柄ここの責任者だろうと思う。「組合長に聞いて、お呼び立てさせていただきました」
「ご依頼であれば、わざわざ無料券などご用意いただかなくても、アポさえ取っていただけたら喜んで出向きましたのに」
責任者は俺の皮肉が通じたようでちょっと困ったような表情を浮かべたが、すぐに仕事用の顔に戻って事情を話し始めた。
水中で足を引っ張られて溺れそうになる客が多発し、閉鎖する破目になったプールがある、と。
「水を抜いて何度も調べたんですが、設備面での異状はまったくなく、水を入れると何故かそうゆうことが起こるんですよ。もうこちらとしてはお手上げで。変な噂が広まる前になんとかしたくてですね」
だから、こそこそと裏工作をせず、最初からそう言ってくれればいいのに。
水着に着替えたみふぎちゃんにスケッチブックと画材を取りに戻ってもらい、問題のプールへ向かった。
三角コーンにロープを張って仰々しく封鎖してあった。水を抜いてあったので、客が誤って泳ぐような事態は防止されているが、その代わりに。
黒が。
沈殿する。
「ちょっと離れててもらえますか」責任者に注意喚起する。
みふぎちゃんはぶつぶつと何かを呟いて、勢いよくスケッチブックを開く。2Bの鉛筆でぐりぐりと線を描き始める。
責任者が怪訝そうな顔をするが、黙って見守るように目線を送る。
画用紙の白い面が残り1割ほどになった頃、スケッチブックから切り離し、ぐしゃぐしゃに丸めて。
びりびりに破り捨てる。
黒は。
霧散する。
「おしまい」みふぎちゃんが振り返る。
「終わりました」
「え、いま何をされたんですか?」責任者が困惑顔になる。
「企業秘密です。でも、もう何も起こらないはずです」
不承不承の責任者だったが、あらかじめ組合長から聞いていたのだろう。
主力戦力は俺じゃなくて、この少女(嘘)だと。
責任者は俺とみふぎちゃんに形式的なお礼を言うと、スタッフを呼んでプールの点検を始めた。
「もう遊んでいい?」みふぎちゃんが聞く。
「19時に閉まるから、好きなだけどうぞ」
みふぎちゃんは嬉しそうに笑うと、俺にスケッチブックと画材を押しつけて、ウォータースライダー目がけて走って行った。
「君も行っておいでよ」シャオレーさんが、みふぎちゃんの荷物を引き受けようとする。
「これをあなたに預けた場合、スケッチブックと画材が空中浮遊する怪奇現象が新たに生まれるんですが」
「それは困った。みーちゃんの仕事が不十分だと思われるのは心外だね」
シャオレーさんにみふぎちゃんを見守ってもらっている間に、俺のロッカーに荷物を置いてくることにした。
更衣室の外で待ち構えていた責任者が、先ほどの中途半端な非礼を詫びに来た。スタッフ総出で調べて、みふぎちゃんの能力が本物だと理解できたようだった。園内レストランで使えるドリンク無料チケットを握らせて有耶無耶にしようとしていたので、好意として受け取った。
こちらは無料オプションでやっているので、別に感謝は俺に示してくれなくてもいい。仕事についてのあれやこれは、支部宛てのご意見メールフォーム(伊舞がチェックする)か、会長に直接伝えてくれたらそれでいい。
「あっくん、ダメだった」みふぎちゃんがしょんぼりした顔で俺の腕を引っ張る。
「身長が足りなくてね。お子様用のじゃ嫌なんだよね?」シャオレーさんが、みふぎちゃんの頭を撫でで慰めようとする。
「俺が一緒でも駄目ですか?」
ウォータースライダーの注意書きを見るに、そもそも身長が130センチ以上ないと係員に追い返される仕組みになっている。
「つまんない」みふぎちゃんが不快顔を全面に出す。
「他に楽しそうなのはないのか?」
「大きなすべり台したかった」
みふぎちゃんのご機嫌を直すために、さっきもらったチケットを見せた。
「リンゴジュース飲むか?」
「かき氷がいい」
果たしてドリンクチケットでかき氷が交換できるのだろうか。
恐る恐る店員に見せたら、すでに責任者の配慮がなされており、好きなフードと引きかえてもらって構わないとのことだった。俺の分は不要なので、その分みふぎちゃんのかき氷のトッピングを豪華にしてもらった。具体的には、シロップの代わりに特別にリンゴジュースをかけてもらい、更にソフトクリームをのせてもらった。
「りんごかき氷!!」みふぎちゃんは満面の笑みで容器を受け取る。「あっくん、ありがとう!!」
「喜んでもらえたなら何より」
店内で座ってゆっくりした。みふぎちゃんに全振りしたとはいえ、さすがに俺に何もないのを不憫に思った店員が、気を遣ってコーラフロートを持ってきてくれた。責任者に確認を取ったので何も心配しなくていいとのこと。
好意は素直に受け取ることにしているので、有難くもらった。
「おいしいけど、あたまいたい」みふぎちゃんがこめかみを押さえて眉を寄せる。
「多かったら無理しなくていい」
「僕がもらおうか?」シャオレーさんも椅子に座っている。
「食べれるんですか?」純粋な疑問だった。
「一緒にオムライス食べたじゃん」
確かにそんなこともあったような気もするが。
「いまどうゆう状態なんですか」
「僕もよくわかってないんだよね。でも君たち以外に見えないだけで、ご飯食べたりはできるよ」
「食べたものはどこに行くんですか?」
「そういえばどこだろ」シャオレーさんが胃の辺りを撫でる。「我ながら謎が多いね」
深く考えないようにしよう。
結局、残したかき氷はシャオレーさんが食べた。この状況を部外者が見ていたら、どんな怪奇現象に見えるのかが気になって落ち着かなかった。宙空に消えるかき氷?
運よく客がまばらだったので誰にも気づかれていないと思いたい。
すっかり機嫌が戻ったみふぎちゃんは、営業終了の音楽が流れるまでプールで泳ぎ尽くした。おかげで温泉に行く時間がなかったが、プール内の簡易温泉に入ることができたのでまあいいか。
みふぎちゃんが眠気でうつらうつらしていて危なかったので、帰りはタクシーを使った。
20時前。
事務所に帰ると伊舞が待っていてくれた。
「お疲れ様です。夕飯まだでしょう? 差し入れが届いてますよ?」
午後に出向いた旅館の女将が、大したお礼ができていないとして、わざわざ事務所に重箱入り(4段重ね)の弁当を持ってきてくれたらしい。中身は色とりどりで、種類も量も大ボリュームだった。
「おいしそう!」みふぎちゃんは帰路ずっと眠っていたので、すっかり元気を取り戻していた。「食べていいの?」
「はい、どうぞ。取ってあげますよ。どれがいいですか?」伊舞が人数分の皿を用意してくれる。
「待たせて悪かったな。先に食べていてくれてよかったのに」
「ご存じでしょう? 私に先に食べさせたら何も残りませんよ?」
「それはそうだな。よく我慢してくれた。思う存分食べて行ってくれ」
「では遠慮なく」
8割以上が伊舞の胃袋に収まった。みふぎちゃんが一通り味見してうつらうつらし始めたので、片付けを伊舞に任せて、ベッドに連れていった。シャオレーさんが部屋で待っていた。
「疲れたでしょ? シャワー浴びて寝ていいよ」
「報告書があるので、適当にやります。みふぎちゃんのことはお願いします」
着替えとか、風呂とか。
「たぶん夏休み一杯こんな感じだと思うけどさ。みーちゃんはもちろん、僕も結構楽しんでるんだよね。君はどう?」
否定する気はさらさらなかったので肯いておいた。
疲労感はあるが、心地よい部類で。
久しぶりにすぐに眠りが来た。
次の日も、朝っぱらからラジオ体操に付き合って、伊舞が組み直した黒祓いの仕事に向かった。
こんなことが一週間続いた。
ちょうど一週間後の朝、血相変えた組合長が事務所に駆け込んできた。
黒祓いしたはずの更衣室に。
黒が。
再生した。
2
組合長の車で、みふぎちゃんと(シャオレーさんは組合長には見えない)例の更衣室を確認に行った。
「俺っちも、ビックリしててよぉ」組合長が一人で大騒ぎしている。「元に戻っちまってるんだよぉ。もう何が何だか」
そんなわけはない。そんなはずはないのに。
黒が。
満ちている。
「みふぎちゃん」助けを求める思いで声を発した。
「わたしは追い払っただけ」
追い払った?
てことは。
「祓ってはないのか」
「わたしはできない。見えるだけ」
嘘だろ。
「じゃあ、あの、スケッチブックに描いてたのは」
「頼むよ。支部の孫さんよぉ」組合長が縋るような眼で見てくる。
「あの、ちょっとすみません」みふぎちゃんを連れてその場を離れる。
建物の陰に入る。
「黒を祓えるのは、納家の女性だけなんだ」シャオレーさんが神妙な顔つきになる。「みーちゃんはね、みーちゃんが言ってた通り、見えるだけ。布を粉々に引き裂いたって、布自体が消えてなくなるわけじゃない。この方法は、一時凌ぎに過ぎないんだよね」
なんで、それを。
「早く言ってくれなかったんですか」
それでは、黒はまた集まってきてしまう。
「週一くらいで繰り返せばなんとかなるかも?」シャオレーさんが言う。
「それじゃあ意味がないじゃないですか」
「意味がないかどうかは、君が決めることじゃないよね」
「支部の孫さん?」組合長がのぞきに来てしまった。「なんとかなりそうかぁ?」
どうする。誤魔化すか。事情を話すか。
「弱っちまうよなぁ。支部の孫さんがこうゆうの専門家だって聞いてよぉ」
「失礼ですが、その話は誰から」
「おお、そりゃあ、住職さんだ」
予想していた人物と違う名前が出て来てビックリした。
あの人も会長(祖父)と同じくらい、ここらへんでは知らない者がいない。知名度と信用度の高さにおいて、トップを争える二人だ。
とすると、今回の婚約者騒動と黒祓いの臨時業務は、すべて会長の手の平の上だったわけではなさそうだ。
誰の目論見が最も反映された結果なのか、見極める必要がある。
「いまだって、そのよぉ、俺っちには見えないもんと話してたんじゃあねぇのかい?」
「聞きますけど、見えてないですよね?」シャオレーさんのほうを指さす。
「ああ、ここにいるのは、俺っちと支部の孫さんだけだぜ」
え?
何を言っている?
「あの、みふぎちゃんもいるんですけど」
嘘だ。
「みふぎちゃんのこと、見えてますよね? ここにいますよね?」
「あのちっこい
「ねえ、みふぎちゃん」屈んで目線を合わせた。「もう一回お願いしたら、何日もつ?」
「ここから追い払ってどこかにやればいいの?」
「できるのか?」
「できるけど、お父さんに聞かないと」みふぎちゃんがシャオレーさんを見る。
まさか。
シャオレーさんの正体は。
いや、それしかなかったし、そうなんだろうとは思っていたが。
黒が。
微笑む。
「ここ一週間のあれやこれを全部集めたら、ちょっと僕らの手には負えない量になっちゃうけど」シャオレーさんが穏やかに言う。「君のとこの信用は守られるね。いいよ。二度と会えなかったはずのみーちゃんと一緒に楽しい夏休みを過ごさせてもらったお礼に、出来ることをやってみるよ」
組合長には、必ずなんとかすると伝えて、一旦事務所に戻る。
伊舞が、俺の帰りを待っていたとばかりに立ち上がった。
「わかってる。ここ一週間の仕事先からの再度の呼び出しだろう。必ずなんとかすると、連絡しておいてほしい。なる早で解決すると」
「わかりました」伊舞が椅子に腰を落とした。
「一つ確認したいんだが、みふぎちゃんが見えるか?」
「何か白いボヤっとしたものが見えますが、それが何かは私には」
やっぱりそうか。
「それがなにか?」
「ありがとう。ちょっと出掛けてくる」
「いってらっしゃいませ」
支部のあるこの建物は、もともと何かよからぬことがあり放置されていた商用ビルを、みふぎさんが祓った。シャオレーさんを触媒に使って。
そのお陰で、支部を営業できている。
みふぎさんとシャオレーさんが協力して祓ったのであれば、その子どもであるみふぎちゃんが実体化できていたとしても何らおかしくはない。
俺は、いつの段階からまた見えるようになっていたのだろう。
黒が。
集まる。
「さすがに身体が重くなってきたかも」シャオレーさんが苦笑いする。「黒に質量はないから、完全に僕の気のせいなんだろうけどね」
黒祓いしたすべての箇所を回って、みふぎちゃんが再び描いた黒をシャオレーさんに吸収してもらった。
シャオレーさんの見た目は特に変化はないが、密度の濃い黒を直視したときの圧迫感は、確実に強くなっている。
「あの、みふぎちゃんは」
「本人に聞いてみたら?」シャオレーさんが目線を遣る。
「わたしは死んだの」みふぎちゃんが重い口を開く。「生まれてちょっとしてから死んじゃって、それで、トキネおばちゃんが生き返らせてくれて、それで、これ」スケッチブック。「これに同じ色を書いて破ると、ちっちゃくできて追い払えるってわかって、それで」
最初から。
時寧さんの手紙云々も、婚約者云々もすべて。
「何しに来た? 俺のところに」
「トキネおばちゃんに言われて」
「だから、何しに来たかって聞いてる」
「あっくん、怒ってる?」
怒っているのだろうか。
なんだろう。
疲れた。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい。謝ってほしいわけじゃない」
みふぎちゃんだって被害者なんだろう。そんなことよくわかっている。
でも。
俺じゃなくたってよかったんじゃないか。
俺以外の誰かだって。
「夏休みが終わったらでいい。帰ってくれ」
「ありがと、みーちゃん。もういいよ。よく言えたね」後ろに立っていたシャオレーさんがみふぎちゃんの頭を撫でる。「リンゴジュース買ってあげるから、ちょっと休んでおいで。たくさん歩いて疲れたんじゃない?」
みふぎちゃんが自販機でリンゴジュースを買って、ベンチに座るのを見届ける。
海の見える公園。
17時過ぎ。
今日は一日ぱっとしない天気で、空はよく見えない。
「そのカネ、俺のですよね?」先ほど幽霊からスリに遭った。堂々と俺のポケットから財布を抜いて、ジュース代をパクられた。
「そうだね。君に借金したことになる」シャオレーさんが大げさに肩を竦める。
「一生返って来なさそうですね」
「一生かけて返すつもりだよ。でもこの通り幽霊になってるから、形がないものになるけどね。何か欲しいものはあるかな」
「それ、時寧さんにも言われてたんですよね。俺が欲しいものなんか、わかってるくせに」
放っておいてほしい。
これ以上、わけのわからない怪奇現象イベントに巻き込まないでほしい。
「みーちゃんへの質問の不足分を補うよ」シャオレーさんが真面目な顔になる。「みーちゃんが君に会いに来たのも、僕がここにいるのも、考えられる理由はたった一つしかないよね。これからその原因のところに行こうと思ってるんだけど、一緒に来てくれないかな。きっと君も行きたかった場所だと思うよ」
みふぎちゃんがジュースを飲み終わってから、徒歩で移動した。気持ちはすごく焦っていたけど、タクシーではものの5分程度で到着してしまう。それでは心の準備が間に合わない。
俺が通う学校の校庭からよく見える。
いまは支部で管理している空き家。鍵はいつも持ち歩いている。違う。誰かの手に渡るのが嫌だっただけ。
「月に一回、定期的に掃除してくれてるんだってね」シャオレーさんが振り返って笑みを浮かべる。「元家主に代わってお礼を言うよ」
「家主に直接言われてるんで、大丈夫です」
「そう? それならいいけどさ」
今月の掃除は済んでいる。
中に、入る。
「久しぶりだな」懐かしい声がした。「明かりはつけなくていい。つけてもつけなくても、わたしの姿は見えてるはずだ」
逆光に白く透ける襦袢。
みふぎさんが、
そこにいた。
「さあ、専門家のわたしの仕事だ」
02
「ごめん、みふぎ。赤ちゃん死んじゃった。悪いけど、もう一回産んでくれる? 今度は女の子ね。あ、精子はこっちで探してくるから、
もともと永く生きられなかった命なのか、時寧氏の不注意で死なせてしまったのか、どっちでもよかった。
僕とみっふーの子は、この世にもういない。
そのことは変わらない。
しかし、時寧氏のその物言いは、僕を激昂させるには充分だった。
手が勝手にとゆうか、頭も手もそれが最善だと冷静に判断できていた。
時寧氏が床に転がっている。
「痛いなあ。これだから、
怒りで言葉が出てこない。唇の端と全神経が痙攣している。
「殴ったのチャラにしてあげるからさ、みふぎの前からいなくなってくれる? 二度と現れないで?」
「嫌です。あなたとあなたの会社の都合で、これ以上みっふーを悲しませるのは見ていられない」
みっふーは、動かなくなった子どもを抱いて、ぼんやりと床に座ったまま。
生後たったの三ヶ月。
なんでそんなに早く。
まだ何にもなっていない。
生きて動いているところを、一瞬だって見れていない。
名前だって、僕は知らない。
なんで、こんなひどいことに。
「はいはい。もういい?」時寧氏が柏手を叩く。「葬式とかいろいろはぜんぶこっちでやるから、さっさと消えてくれる?」
「消えるのはそっちです。この子は僕らの子です」みっふーを子どもごと抱き締める。「僕はみっふーからも、この子からも二度と離れません。連れて帰ります」
「連れて帰る? 啖呵は身の程を知ってから切りなよ」時寧氏が莫迦にしたように嗤う。「宿なしカネなし何もなしのお前に、一体何ができるって? 愛じゃ食っていけないんだよ?」
「トキネ、お前」みっふーが赤ん坊を見つめたまま口を開く。「いつからだ」
「みっふー?」抱き締めている腕を緩める。「どうしたの?」
「レー、この子を頼む」みっふーが僕に赤ん坊を預け、ふらふらと立ち上がる。「様子がおかしいとは思っていたんだ。わたしの人権より愛社精神が優先されるのはいまに始まったことじゃないが、それにしたってちょっと性質が悪い。性格が歪んでいるとゆうよりは、汚染されたな?」
ずん、と重量が頭と肩に圧し掛かる。
事故物件にいるときみたいな、不快な悪寒が全身を襲った。
「ムスブさんの嫌がらせ置き土産なんだよね」時寧しがはあ、と息を吐く。「段々だんだん身体が壊死してく感じ? 頭がどんどん真っ黒に染まってくの。視界も、自分の手も真っ黒でさ。ただはっきりしてるのは、みふぎを出来るだけ永く生かして、そんで、みふぎの次の代を確保しなきゃってこと。そうしなきゃ、私は心残りが大きすぎて意識を黒にあげられない。あげちゃったら楽になるのわかってるんだけど、まだ無理」
「じゃあ尚のこと、わたしの人権を認めたほうがいいな」みっふーが言い返す。「これは提案なんだが、1年。1年でいい。わたしとレーを放任してくれないか?」
「だ、か、ら、小張の遺伝子なんか混ぜられたら困るの。うちの血統に瑕が付くじゃん」
「子どもは作らんよ。作ったところでわたしに育てられるビジョンがまったくない。トキネのことは言えんよ。きっと何かの手違いで死なせてしまう。こんな思いはもうたくさんだ。疲れたんだ。わかってくれ。休養がほしい」
「でも小張のガキと一緒なんでしょ? 何かの間違いが起きることもあるよね?」
「わたしからも条件を付ける。もし万一、休養期間でレーとの間に子どもができたら、その時点で休養を切り上げて復帰する。子どもは要らないからトキネの指示に従うし、なんならトキネの調達した精子を使ってくれていい。ただ、1年間レーとの間に何もなければ、わたしの子宮で後継者作りは諦めてくれ。わたしも逃げやしない。わたしを使ってくれる企業なんか、トキネのところしかないんだ。1年後の復帰から死ぬまで、遠慮なく私を使い潰してくれればいい」
みっふーの条件は、決して時寧氏に有利ではないし、冷静になって熟慮ができれば、会社の未来になんら貢献していないことがわかる。
でも、それでも、いまの時寧氏の状況は、正常な判断ができないほどに切羽詰まっているのだろう。
「え、全然いいよ」二つ返事で許可を下ろす始末。「1年でいいんでしょ? ゆっくりしておいでよ。あ、軽井沢にうちの別荘があるから。好きに使ってくれていいよ。ただ、避暑目的で山奥に作ったから、買い物とかネット環境とか、だいぶ不便かもだけどね」
そんなのは、僕が免許を取って車を買えば問題ないだろう。
たった1年だけど、僕とみっふーの同棲生活が始まった。
結論から言うと、みっふーと一緒にいられるのは嬉しかったけど、イチャイチャできないのはちょっとしんどかった。
そして、この1年休養を取った本当の意味は、時寧氏にももちろん僕にも思いも寄らないところにあった。
みっふーだけが、遥か先を見据えていた。
あのとき死んだ僕らの子の名前は、
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