ノア・デイモンが
ノア・デイモンが神隷騎士として叙任せられたのは数カ月前のことだ。身に余る光栄──とまでは思わなかったが、それでもやはりうれしかった。なにしろ異例の取り立てだ。馬丁の息子であるノアは、家柄などと無縁の若者だったのだ。
推挙したのはグリムだ。その理由をノアは知っていた。グリムは騎士団内で、自分が古い習慣に囚われない公平な気質を持っていると喧伝したかったのである。だからあえて身分不相応なノアに目をつけ、登用した。純粋に騎士としての資質を買われたわけではない。
当初、ノアはグリムの誘いをよろこんで受けた。父親のように他人の馬を世話して一生を終えるなど、ごめんだ。しかし特別扱いのノアに周囲の風当たりが強くなるのは当然だったろう。従騎士のころから、礼儀作法はおろか常識にすら乏しい彼は、育ちのちがうほかの騎士候補から白い目で見られた。場ちがいの駄馬だと。
最初はいじけた気持ちでいたが、転機となったのがウィリアム・クリスピンとの出会いだった。あの、いけ好かない野郎。おなじく騎士候補の両者は、はじめて顔を突き合わせたときから互いをそう思っていた。クリスピンは貴族の息子だ。なにをやらせても如才ない。対してノアは粗野で、ろくな教育を受けていない平民。あいつには負けたくない。その対抗心がふたりを駆り立て、努力の末に頭角を現したといえる。
ノアとクリスピンは同時期にめでたく神隷騎士となった。そして見知らぬ世界へ足を踏み出した青年は、やがてオーリア正教会と神隷騎士団の実態を目の当たりにすることとなる。
神聖王国オーリアの中枢、オンウェル神殿。子供の時分、ノアはたびたび神殿を囲む石壁の向こうがどんな場所なのか想像したものだ。きっと高潔で賢い人がたくさんいて、正しく国の舵取りをしていると思い込んでいた。だが実際には真逆だ。オーリア正教会の中央協議会では、私利私欲を満たそうとする者たちが大手を振ってのさばっていた。加えて騎士団内の派閥。ユエニ神に魂を捧げ、国民に奉仕するはずの神隷騎士が、利権をめぐって反目しあっているのだった。どうやらこの国では上へゆけばゆくほど悪徳が蔓延しているらしい。
騎士団内の対立は日ごと昂進し、ついに一部が叛乱を企てるまでに至った。なかでもグリムは改革派の急先鋒だった。彼の庇護下にあったノアとクリスピンも、否応なくそれに巻き込まれた。
騎士団長のマントバーンを旗頭にする改革派が、国を乗っ取ろうとしていると聞いたときには、さすがにノアもおどろいた。オーリア各地の貴族のうち、およそ三割ほどはすでに水面下で権力の委譲を黙認したという。彼らは自分たちに利があるのなら、反逆者に支配されることにもやぶさかでないのだ。
国内の北方はとりあえずまとめた。あとは南方だ。今日、グリムはその根回しに費やすカネを無心するため神殿へやってきたのだった。
以前からオーリア正教会の儲蓄が裏切り者を介し、工作資金として方々へばらまかれていた。それでも南方を押さえる目処が立たなければ、マントバーンは蜂起を前倒しして武力で平定する算段のようだ。
馬車の御者台でグリムとクリスピンを待つノアは、退屈を持て余していた。
秋の陽気が眠気を誘う。いつまで待たせる気だ。そのうちノアは馬車を離れて、好奇心から神殿の庭園へと足を運んだ。
大陸中の草花を集めたオンウェル神殿の庭園は有名だ。しかし夏至祭と冬至祭を除けば、神隷騎士とて神殿の敷地へ入ることはあまりない。ましてやノアのような下級騎士ではなおさらだ。さらに平民であれば、神殿の壁の内側へ入るには多額の寄付が必要なのだった。
神殿の横を通り、裏から表へと回る。途中、ノアはふと傍らの神殿を見あげた。
左右に翼廊を配し、そびえ立つ巨大な建造物。最初は目を奪われたそれにも、すぐに興味が失せた。なぜこんなものを人々は礼賛し崇めているのか。不思議に思えた。ノアの目には、ばかでかい神殿がただの冷たい石の集まり、もしくは顕示欲の象徴としか映らなかった。神隷騎士は叙任の際、義務としてオーリア正教会より洗礼を受ける。が、形だけの儀式だ。その証拠にノアの心の内に神はいない。
しばらくゆくと主庭の端にある大きな花壇が見えてきた。名前はわからないが、さまざまな色の花が咲き乱れている。
塵ひとつ落ちていない石敷の回廊を歩き、花壇へ近づく。やがてノアの足が止まったのは、天竺牡丹が植えられている一画だった。
血のように赤い大輪がいくつも咲いていた。ノアは腰を曲げ、ひとつの花を手折った。掌ほどもある大きな花。幾重にも重なった花弁がきっちりと放射状に並び、あまりに幾何学的で美しいというより不気味に感じる。顔に近づけて匂いを嗅いだが、ほのかに青臭いだけだった。花弁のあいだから蜂らしき虫が飛び出てきて、おどろいたノアは咄嗟に花を手放した。
「花壇の花がご入り用でしたら、声をかけてくださいな。花泥棒さん」
女の声がした。ノアがそちらへ首を回すと、彼から少し離れた場所にひとりの修道女が立っていた。
「いや、そういうわけじゃ……」
まずいところを見られた。ノアは足下に落ちた花を拾ったものの、どうしてよいかわからず花壇の土の上にそっと置いた。
ばつの悪そうなノアの有様が滑稽に見えたのか、修道女が軽やかな声で笑う。彼女は飾り気のない修道服を身にまとい、頭部をベールで覆っていたので、顔だけがぽっかりと浮いて見える。
「騎士団の方ですね。神殿になにか?」
「用事があるのはうちの隊長だ。いま、神殿のなかで誰かと話をしてる。おれはただ、それについてきただけだ」
「そうでらしたの」
灰色の瞳。柔和で人なつっこい笑顔。修道女にしては垢抜けた印象を受ける。知らずのうち、ノアは彼女をまじまじと見つめていた。
「ノア!」
大声で名を呼ばれ、われに返る。
クリスピンだった。息を切らせた彼はノアに駆け寄ると同輩の肩を摑んだ。
「おまえ、なにやってる」
「ちょっと散歩してただけだ」
「もう帰るんだよ。グリムが待ってる、すぐにこい」
言って、クリスピンはノアの腕を強く引いた。
「おい、そんなにひっぱるなよ」
顔をしかめたノアが抗議するも、クリスピンはおかまいなしだ。
「失礼」
取り繕った笑顔で修道女に声をかけると、クリスピンはノアを引きずるようにしてその場を去っていった。
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