Episode11 どうすることもできない

~最初に~


 作中において、登場人物の身体的な事情に触れている箇所があります。ですが、決して同じ事情を持つ方々を貶める意図はございません。表現の一環として、何卒、ご容赦くださいますようお願い申し上げます。



※※※


「あのさ……俺、”あの時”響子に注意すべきかと思ったんだけど……」


 デートの途中、耀司(ようじ)に当然に切り出された響子は面食らう。

 注意されるようなことをしてしまった記憶も心当たりもないため、いったい何のことやらとも。


 耀司の言っている”あの時”とは、先日、耀司の友人三人ならびに彼らそれぞれの彼女とで飲んだ時のことらしい。

 初めて顔を合わせる人たちといったい何を話せば良いのか、と響子にとっては正直、気が進まないにも程がある飲み会だった。

 しかし、貴美(たかみ)ちゃんという女の子とはなかなかに話が弾んだ記憶がある。

 あの貴美ちゃんとは、L○NEを交換しておけばよかったかもしれないなぁという後悔も。


「響子はあの子にこう言って話しかけてたろ? 『背ェ高いですね。バレーかバスケをされていたんですか?』って」


「うん……そうだけど」


 確かに覚えている。

 すらりとして引き締まった体型と爽やかなショートカットの貴美ちゃんは、ボーイッシュでスポーティーな雰囲気の長身女子だった。

 その第一印象の通り、貴美ちゃんはバレー経験者で、中学・高校と女子バレー部のキャプテンもしていたとのことだ。

 響子自身も万年補欠ではあったが中学時代には女子バレー部に所属していたという共通点があり、さらには響子と貴美ちゃんとは偶然にも同い年でもあったので、話が盛り上がったのだが……?


「あの時は、たまたま相手がバレーをしていたから、不愉快な思いをさせずに済んだわけだけど……仮に背が高いことをすごく気にしている人だったら響子はどうするつもりだった? 背が高いとか低いとかは、ただの外見的特徴の一つに過ぎないし、仮に肥満とかハゲの場合なら響子も口にはしてなかったろ? どんなことであれ、相手が自分の力ではどうすることもできない身体的なことをコミュニケーションの切り口にするのは良くないと思うよ……それにさ、背が高いからバレーやバスケをしてたんじゃないかって考えに直結するのもどうかと思う。響子はもっとコミュニケーション能力を高めて、相手のことを思いやった会話をするようにしなきゃ」


 響子の顔がカアッと熱くなった。

 耀司の言っていることは正論、つまりは最もなことであると思った。

 この時の響子は、耀司の忠告を素直に受け入れようと思えた。


※※※


 しかし、その数日後、響子は耀司との会話にズレというか、疲れを感じずにはいられない場面に直面することとなる。


 響子は実は、会社の後輩にずっと悩まされていた。

 その後輩は響子より三つ年下で、色白でフランス人形みたいに可愛い顔をした女の子だ。

 彼女は短大卒業後に入社し、もう半年以上働いているが、単純な入力作業ですらミスも多く、スピードも遅い。

 本人もそれは自覚しているようで、何とか挽回しようと頑張っている……頑張ろうとしているのは傍から見ていても分かるも、それが見事なまでに空回りし、結果として別にしなくても良い余計なことしてしまっているといった具合だ。

 いわゆる”無能な働き者”に該当するだろう。

 しかし、響子を最大に悩ませているのは、彼女のそのグダグダの仕事ぶりではなく、別のことであった。

 彼女の顔や名前も知らない耀司に愚痴をこぼさずにはいられないほど、響子はげんなりしていた。


「……その子ね、ワキガなの。それもかなり重度だと思う。私はその子と席が近いわけで……あのにおいを近くでずっと嗅いでいると、私も体調悪い時とか具合が悪くなってきて、食欲も無くなってくるんだよね…………。季節問わず、あれだけ臭っているのに、本人は気づかないものなのかな? それに私もなんだか、においにすごく敏感になってしまって、私自身も臭っているんじゃないか、ワキガが感染ったんじゃないかって錯覚しちゃうほどなのよ」


 現に響子は彼女に出会ってからというもの、前は夏にしか使っていなかったデオドラントを、肌寒くなってきた今の季節にも使うようになっていた。

 それに長時間、彼女と同じ空間に居続けたら、髪や服にもにおいが移っているのも事実だ。

 だが、彼女に辞めてくれとも言えないし、言える立場でもないから我慢し続けるしかない。


 そんな響子の愚痴をひと通り聞いた耀司は、溜息をついた。


「今の自分がどれだけ思いやりのない酷い事を言っているか、響子には自覚ある? その子が自ら望んでワキガに生まれてきたとでも思ってる? 自分の力ではどうすることもできない身体的なことを攻撃するのは良くないよ。このことは”前にも”言ったと思うけど。……それと何か勘違いしているみたいだけど、ワキガは感染らないよ。あれは感染症じゃなくて体質だから。アポクリン汗腺というのがあって……」


 ワキガが感染らないことぐらい、響子だって分かっている。

 それに攻撃なんてしていない。

 いくらあまり好きでない相手にだって、体臭のことなんて直接攻撃できないというか、言えるわけがない。

 本人だって、自覚があるならすごく気にしているだろうし、つらい思いをしてきたことだって多々あったはずだから。

 それゆえに、今も自分だけじゃなくて、会社の皆だって本人には言わずに必死で我慢しているだけなのに。


 響子はただ話を聞いて欲しかった。

 大変だね、って共感して欲しかった。

 それだけだった。

 女の話は共感を求め、男の話は解決を求めるという話はどこかで聞いたことがあったも、共感を求めていた響子は解決どころか耀司の”指導”を受ける結果となった。


※※※


 ワキガの後輩の件に加えて耀司との関係にも悩むことになった響子が、休日に一人で街を歩いていた時、声をかけられた。


「響子ちゃん? 響子ちゃんだよね?」


「えーと……あ! もしかして、貴美ちゃん?」


 以前の飲み会で話が盛り上がった元バレー部キャプテン、貴美ちゃんだ。

 L○NEを交換しておけば、と後悔していたが、またこうして偶然にも再会できるとは。


 響子と貴美ちゃんは、近くにあったカフェへと入った。

 聞けば貴美ちゃんは、あの後に彼氏と別れて今はフリーらしい。

 貴美ちゃんは言う。


「実は前々から、彼氏とのズレを感じていたんだよね。それが積み重なっていって限界を迎えたっていうか。そりゃあ、いくら彼氏彼女といえども相手は自分とは別の人間だから、私の考えている通りの反応をしてくれたり、かけてほしい言葉をかけてもらえるわけじゃないってことは理解しているけど。……でもね、相手の性格とか、私自身の冷めてしまった気持ちとか、いろいろなことを含めて、もうどうすることもできないんだって思ったら、何だかドッと疲れちゃって……」


 実は私もそうなの、という言葉が、響子の口からもつい出そうになった。

 なお、響子と貴美ちゃんと会って話をしたのは今回が二度目であり、ともに過ごした時間をトータルしても数時間程度であるだろう。

 しかし、この短い時間においても、響子と貴美ちゃんは根本的に気が合うというのか、前の飲み会の時以上に話は弾んだ。

 果たせなかったL○NEの交換もすることができた。

「飲み会の時に交換しておけばよかったね」と、響子と貴美ちゃんは互いに笑いあった。


 響子と貴美ちゃんがカフェを出た時、日はすでに沈みかけていた。

 並び立つビルの隙間から見える空は茜色に染まっている。


 しばらく一緒に歩いていたが、貴美ちゃんとは自宅の方向が違うため、響子は近くの交差点の横断歩道を渡ることになった。

 響子がふと横断歩道の向こうを……貴美ちゃんを見ると、歩道を歩く彼女もこっちを見ており、手を振ってくれた。

 響子も笑顔で手を振り返す。

 新しい友だちができた。

 これから、もっと仲良くなっていけるであろう友だちが。


 その時だった。

 地を揺るがすほどの爆発音とともに、貴美ちゃんの笑顔も体も吹き飛ばされた。


※※※


 死傷者を多数出した爆発事故。

 その爆発事故の死亡者の一人が、貴美ちゃんであった。

 貴美ちゃんは、あの時、発生元とされる飲食店の横の歩道を歩いていたがために、巻き込まれてしまった。


 発生元から距離があった響子ですら、凄まじい爆風に煽られて後方へと倒れ込み、擦り傷と打撲を負うことになった。

 響子は痛みを堪え、嗚咽と叫換が煙とともに舞うなか、地面へと倒れている”貴美ちゃんらしき人”の元へと駆けつけた。

 その後の響子の記憶は、ぷっつりと途切れている。

 

 響子の体の傷は比較的早く治ったが、心の方はそうではなかった。

 ほんの数秒まで自分に笑顔を見せてくれた女の子が、生前の面影すら見いだせぬ亡骸と化し、地面に転がっていたあの光景は生涯忘れることはできないだろう。

 確かに生きていた彼女の……死などまだ遠いところにあったはずの彼女の人生はあまりにも突然に、そして無惨に断ち切られ、終わってしまった。


 響子は思う。

 私ですらこれほどのショックを受けているのだから、貴美ちゃんのご家族含め、彼女とより長い時間を共有して親しい間柄にあった人たちはショックなんて言葉は通り越すほどに悲痛な思いをしているに違いないわ。

 何より貴美ちゃん自身、まだまだやりたいことがたくさんあったはず。

 これからも仕事や趣味を頑張っていきたかったり、将来的には結婚したり、子どもだって産みたいと思っていたのかもしれない。

 でも、貴美ちゃんはもう何もできなくなってしまったんだ。

 ……あの時、私たちは再会するべきじゃなかった。

 ううん、再会したとしても、ほんの数分でも早く話を切り上げていれば、もしくはほんの数分でも元のカフェで話を続けていたら、貴美ちゃんはあの時、あの場所を通ってなどいなかった。

 爆発事故に巻き込まれることもなく、今というこの瞬間も生きていたはずよ……。

 私のせいだ。ごめんなさい……ごめんなさい。

 

 自責の念に押し潰されていった響子はうつ状態になり、会社も辞め、自宅アパートに閉じこもるようになってしまった。

 わずかな期間で体重も数キロ減り、水しか口にできないような日だってあった。

 耀司や友人たちや元同僚から、響子を心配するメッセージが幾つも入ってはいたが、返信することすらもできなくなっていた。


※※※


 日曜日の昼下がり。

 響子の自宅アパートのインターホンが鳴らされた。

 ベッドからのそのそと這い出る響子。

 インターホンから聞こえてきたのは、耀司の声だった。

 

 心配してきてくれたのだろう。

 そして、響子は耀司が何を言いに来たのか、自分に何という言葉をかけるのかも想像がついた。

 きっと耀司は「そんなに自分のことを責めない方がいい。あれは不幸な事故だったんだ。響子にはどうすることもできない運命的なことだったんだよ。今の響子にできる唯一のことは手を合わせて、その死を悼んであげることだと思うよ」とかなんとかかんとか、言ってくるに違いない。


 そんな言葉は聞きたくない。

 というよりも、耀司に会いたくない。


 自分の心は誰かにそばにいて欲しい、誰かにすがりつきたいと助けを求め続けているというのに、会いに来てくれた彼氏に対し、会いたくない、顔すら見たくないと思ってしまうなんて、自分はもう耀司のことを微塵も好きではない、愛していないのだと響子は気づいた。

 だからといって、今は別れを切り出す気力すら残っていない。


「お願い……帰って。今は誰にも会いたくないの」


「少しでいいからドアを開けてくれないか? 十分、いや五分あれば済む話なんだ」


 響子が感じ取った違和感。

 自分の安否というか、様子を心配して見に来たというより、何か別の話があるのか?


 しばらく押し問答をしていたが、耀司の「大事な話だ。”早くはっきりさせたい”ことなんだ」という、あまりのしつこさに根負けし、響子はドアを開けた。


 瞬間、響子の鼻孔は幾度も嗅ぎ覚えのある、あのにおいにモワッと蹂躙された。

 耀司と一緒に立っていたのは、強烈なワキガで響子を悩ませていた、かつての会社の後輩・香坂(こうさか)さんであった。


 ……え? 何で二人が一緒に? もしかして知り合いだったの? 


 フリーズしてしまった響子の目を耀司はまっすぐに見て、言う。


「響子、本当にすまないと思っている。響子がちゃんと会社に行っているか心配して、会社の近くまで行ってみた時、この香坂さんと偶然、顔を合わせて……それからの俺は香坂さんにだんだんと惹かれていってしまった。響子よりも香坂さんのことを好きになってしまったんだ。自分でもこの思いだけはもうどうすることもできない。だから、俺と別れてくれないか。響子にきちんと了承を得てから、香坂さんと付き合うつもりなんだ。それが響子に対しても、香坂さんに対しても、男として、いや人間としての思いやりだと思うから……。もちろん、香坂さんとはまだ肉体関係はないし、手すら繋いでいない」


 すでに涙目になっている香坂さんも、響子の目をまっすぐに見て言う。


「響子さん、ごめんなさい。響子さんの彼氏だってことは私も分かっています。でも、私も耀司さんのことを……耀司さんの思慮深くて、思いやりのあるところを好きになってしまったんです。それに……それに……耀司さんは、私のにおいだって気にならないって言ってくれたんです。私にこんなこと言ってくれる男の人なんて初めてで……だから、どうかお願いです。私たちのことを許してください……」


 響子は目の前にいる二人の来訪者を、自分でも驚くほど冷静に……冷めきった心のまま、どこか遠いところで見ているような気がしてきた。

 

 香坂さんは自分のワキガに気づいていたんだ……ということはケアをして、この状態ということはやっぱり相当に重度なワキガということよね。

 でも、度合いはどうであれ、世の中にはワキガの臭いが気にならない人、むしろ相性によっては良い香りだって感じる人もいるって聞いたことがあるから、耀司もそのタイプに該当したってことで……何より香坂さんは顔が相当に可愛いから、そのことがワキガすらを上回ったのかもしれない……。

 そして、二股は良くないことで、ちゃんと終わらせてから次に進みたいという考えも理解できる。

 人生が永遠に続いていくことがないように、愛だって永遠には続いていかないのだとも。

 惹かれ合う者たちの思いは、誰にも止められないということも。

 でも、このことは今、このタイミングで言いに来ることなのか?

 私が今、どんな状態にあるのか、二人とも知っているはずなのに。

 ”早くはっきりさせたい”……すなわち、自分たちが早く付き合い始めたいからって、私に無理矢理にドアを開けさせたの?

 しかも、耀司は自分も顔を知っていて、一緒に飲んだことがある人間が亡くなったのに、そのことについてはたった一言も触れないとか……。


 目に染みるような異臭のなか、人の形をした何とも言えない気持ち悪い肉の塊と、”それ”に擦り寄ろうとしている女が目の前に立っているのだとしか、響子には思えなかった。


 能面と化した響子に、耀司も香坂さんもギョッとしたらしい。

 香坂さんは後ずさったにもかかわらず、そのワキガの臭いはブワワッとより強く漂ってきた。

 二人に塩でもぶつけてまくってやろうかと思ったが、もうその気力も体力も響子には残っていなかった。


「……好きにしたら。とにかく帰って」



※※※


 響子の人生をも変えてしまった、あの爆発事故から数年の月日が経過した。

 心療内科には通い続けているも、なんとか社会復帰することができた響子。

 再就職した職場からの帰り道、背後からの「あ! 響子さん!」という聞き覚えのある声に思わず、振り返ってしまった。

 

 声の主は、響子が二度と関わることはないだろうと思っていた……いや、二度と関わり合いになりたくないと思っていた人物の一人だった。

 逃げ出したくなった響子の心中を知ってか知らずか、”香坂さん”は笑顔で駆け寄ってきた。


 香坂さんとの距離が縮まるにつれ、響子は気づく。

 あの濃厚なワキガのニオイが消えている?!


「響子さんも気がつかれました? 実は思い切って手術したんですよ。体にメスを入れるのは怖かったけど、今のところは再発はしていないし、手術を受けて大正解でした」


 彼女が自身の力ではどうすることもできなかった体質も、現代医療の進歩によって解消されたということか。

 このことは周りの者や彼女自身にとっても、良いことであるだろう。


「あの……その節は申し訳なかったです。でも、私と耀司さんとのことを許してくれて、ありがとうございます」


 あの時の響子は許すも何も、気持ち悪さの方が勝り、二人に目の前から消えて欲しかっただけであるのだが。

 聞けば、香坂さんはあれから約一年後に耀司とゴールインしたらしい。

 今は耀司の名字になっている彼女は、正確に言うと”元・香坂”さんになるだろう。


 それから、香坂さんは話し始めた。

 響子は別に聞いてもいないのに。

 そもそも、聞きたくもないのに。


 香坂さんと耀司には、なかなか子どもができないと。

 耀司は猛烈に子どもを望んでいる。

 香坂さん自身も一応は子どもを望んではいるも、躊躇いがあるのだと。


「だって、私、この体質ですごく苦労してきたんです。私はデオドラントでのケアで何とかなるレベルじゃなかったから……。国によってはワキガの割合の方が高いところもあるみたいですけど、日本ではどうしても少数派に属するうえに悪目立ちして、影でヒソヒソされたり、いじめっぽいことだって数えきれないほどありましたし。私にも、自分の子どもをこの手に抱いてみたいという気持ちが皆無なわけではないです。でも、もし、私の体質が遺伝してしまったらと思うと申し訳なくて………私と同じ苦しみや辛さを味わわせたくないから、子どもができなかったらできなかったらで、その運命を受け入れて生きていきたいとも思っているんです。……でも、耀司さんは『結婚したんだから子どもがいないと意味がないと思うよ。子どもがいてこそ夫婦は成長できると思わないの? それに女性なら絶対に子どもは産んだほうがいいよ。だから、頑張っていこう』と言い続けて、私の話なんてろくにきいて貰えないんです……」


 結婚する前に、子どもについて話し合わなかったのか?

 それに子どもがいてもいなくても、夫婦は夫婦であると思うのだが。

 『結婚したんだから子どもがいないと意味がないと思うよ。子どもがいてこそ夫婦は成長できると思わないの? それに女性なら絶対に子どもは産んだほうがいいよ』というのも、あくまで耀司の考えだ。

 夫婦の間の会話だけならまだしも、今の時代、公共の場でこんなことを口にしたら、どうなると思うのか?!


 そもそも、結婚した夫婦の間に性生活があっても子どもがなかなかできないというのは、耀司がよく言っていた「どうすることもできない」ことの括りに入るような……。

 自分たちの力ではどうすることもできない、いくら努力したとしても、それが叶うかどうか分からない身体的なことなことだから。

 現代は不妊治療を受けることができるも、医療が発達する前、遥か昔の時代においては、それこそ神頼みのものであったろうから。

 何はともあれ、もう自分には関係ない……二度と顔も見たくないどころか、名前を聞くのすら苦痛でしかない。


「私にそんなことを言われても、どうすることもできないわ……あの人と夫婦になることを選択したのはあなた自身なんだから」


 響子はそう言って踵を返した。

 彼女がどんな顔で自分の背中を見ているのか、響子は振り返らなくとも分かった。

 そして、彼女は単に話を聞いて欲しかっただけだとも。

 話を聞いて共感して欲しかった、「大変ね」って言って欲しかっただけだとも。


 並び立つビルの隙間から見える空は、あの事故の日と同じく茜色に染まっていた。

 その色がただただ響子の目に染みてきた。



(完)

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