Episode6 ストッキング・クラッシャー

 股野道香(またのみちか)は悩んでいた。

 

 社会人生活も二年目に入ったというのに、いまだにストッキングを上手くはきこなせない。

 何回もはき古したストッキングならまだしも、おろしたてのストッキングでさえ、その日のうちに穴が開いてしまっている、もしくは伝線してしまっている。

 穴が開いてしまう場所としては、爪先の親指部分が一番多い。

 その穴より親指がストッキングから突き出し、靴の中で何とも不快なむず痒いような痛みを生じさせてくる。

 伝線の場合は、クリアファイルの角や傘の先などの尖った所にうっかり引っ掛けてしまい、ピッ、ピ……ピ……ピピーッと瞬く間に被害が広がっていく。

 あるいは、どこかに引っ掛けた記憶もないのに、鎌鼬にでも切り裂かれたがごとく、いつの間にやら伝線してしまっているのだ。


 素肌に直接、傷がつくことと比較すると遥かにマシだろうが、穴が開きもしくは伝線したストッキングをそのままはき続けるという行為は自分自身の不快感だけでなく、社会人として、はたまた女としていかがなものかと周囲から思われるに違いないため、道香はその都度、小さな舌打ちをしながらも予備のストッキングにはきかえるしかない。

 しばらくすると、その予備のストッキングも同じ最期を迎えてしまっているのだけれども。


 「押すなよ! 絶対に押すなよ!!」ならぬ「破くなよ! 絶対に破くなよ!!」と物言わぬ重圧をかけてくるストッキングとの日常的な摩擦であり争いは、道香の完敗が続いていた。


 道香自身も、ストッキングの美容効果は理解している。

 毛穴を隠し、脚の肌を数段増しで綺麗に見せてくれるし、引き締め効果だってある。

 そんな美容効果だけでなく、現在、道香が勤務している会社では女性社員は制服着用ならびにナチュラルストッキング着用も規則に含まれている。

 どの道、現在の彼女の日常とストッキングは切っても切り離せない関係にある。


 道香は溜息をついた。

 嗚呼、セミの命よりも儚い私のストッキングたち。

 私が今までに葬らざるを得なかったストッキングはいったい幾足あるのかしら?

 もったいない、もったいないわ。

 色んな意味で。


 消耗品に該当するストッキング一足の金額は、何万、何十万とするわけではなく、最高級クラスの品質であっても二千円、三千円以内である。

 そもそも、道香は自身がストッキングをうまくはきこなせないことを経験から学んでいるため、いつも最安値のものをセール時にまとめ買いしている。

 だが、塵も積もれば山となる。

 人生を振り返った時、自身がストッキングに費やした経費はなかなかの金額になっているような気がする。

 それに、日常的な苛立ちの時間も積み重なれば、やがては雪だるま式に大きなストレスとなって蝕んでくるかもしれない。

 かといって、今の会社を辞める、すなわちストッキングの着用が義務つけられていない会社に転職するほどの労力をかけるほどのことでもないとも思っている。


 私はサークル・クラッシャーならぬ、ストッキング・クラッシャーとであることを自覚し、これからも生き抜いていかなければならないのかしら?

 だって、私はいまだにストッキングを上手くはきこなせないのだから。


 そう、このことが股野道香(二十四歳)の目下の悩みであり、”最大の悩みであり唯一の悩み”でもあった。



※※※



 突然であるが、話の視点はそんな股野道香(二十四歳)の悩みを吟味している者たちへと切り替わる。

 この者たちは、地上にいる人間たちのコミュニティとは異なる場所で別のコミュニティを築いていた。

 そして、この者たちは時折、地上の悩める人間たちに時折、奇跡としか称せない”救いのギフト”を贈ることを仕事にもしていた。


 あなたにも心当たりはないだろうか。

 もはや八方塞がり、まさにもう絶体絶命といった状況で間一髪助かった……何者かに助けられた、あるいは救われたとしか思えないような奇跡を目の当たりにしたことが。

 それはその実、救いを贈る者たちからの最初で最後のギフトであったのだ。


 今回、その救いのギフトの対象者の一人に、ストッキング・クラッシャーなる股野道香(二十四歳)が選ばれていていた。

 地上の人間の数が多すぎるためか、救いを贈る者たちはチーム分けされ、そのチームごとに担当地域を割り振られ、その地域からランダムに五名の対象者が選出されるシステムだ。

 その後、厳正なる選考を行い、五人の中から一人だけに救いのギフトを贈ることになっていた。

 なお、一度でも対象者に選ばれたなら、救いのギフトを贈られようが贈られまいが、二度目はないことも合わせてお伝えしておこう。


 チームリーダーが言った。


「今回は股野道香(二十四歳)に救いのギフトを贈ることにしよう」と。


 だが、当然のごとく、サブリーダーを筆頭とし、他の者たちも難色を示し始める。


「彼女の優先度は一番低いかと思いますけれども……」


「実際に本人の立場になってみないと、その苦しみや辛さは分からないだろう。股野道香は自身のことをストッキング・クラッシャーと称さざるを得ないほどに苦しみ、悩んでいるからこそ私たちが助けてやるべきだ」


「苦しんで悩んでいるのは事実であり、確かに積み重なっていく必要経費という名の出費も痛いでしょう。しかし、生活を逼迫させているほどでもないし、彼女自身もさすがに転職せざるを得ない状況にまでは追い込まれてもいません」


「これから追い込まれていくかもしれないということが想像できないのか? 『私はコレで会社を辞めました(注:1984年放映のマルマン 禁煙パイポのCMからの流行語)』ならぬ、『私はストッキングで会社を辞めました』なんてことになってもいいのか?」


「……ストッキングをすぐにダメにしてしまう女性なんて五万といると思いますし、そもそも”そんなこと”を悩みの一つにカウントしている人の方が少ないかと」


「”そんなこと”とは何だ? 悩みに大小も深浅も軽重もあるものか!」


「彼女一人だけで考えるなら大小も深浅も軽重もないと言えるでしょう。ですが、相対的に見て、他の四人の候補者とは緊急度、事件へと発展する確率も破滅や絶望への可能性も段違いに低いですよ」


 サブリーダーは続ける。


「他の四人…………二十一歳から三十四歳までの花の盛りとも言える貴重な時期に恋人に散々弄ばれた挙げ句に捨てられ、自分を抑えられずにもはやストーカーと化しつつある鎌山咲世(かまやまさきよ)三十四歳、女手一つで二人の息子を育てあげたにもかかわらず、息子が二人とも詐欺セミナーに嵌まったうえに搾取する側に回ってしまい、裁判沙汰となっている玉藻架純(たまもかすみ)五十四歳、さらには全くの無実であるのに狡猾な同僚に巨額の横領の罪を着せられそうになっている峰薔薇男(みねばらお)四十一歳、そして……実は宇宙人であることを隠して初恋の人間と結婚し、一緒に暮らしているものの、時々、気の緩みにより人間形態から原型に戻ってしまいそうになり、夫に相当怪しまれている人間名・酒倉グレエ(さけくらぐれえ)二十九歳のうちの誰かを優先すべきです」


 最後の一人にはいろいろツッコミを入れたくなるが、確かにサブリーダーの言うとおり、他の四人と比較すると股野道香(二十四歳)の優先度は極めて低い。

 いやいや、低いなんてもんじゃない。

 そもそも、ストッキングをうまくはきこなせず、すぐに破れてしまうことが目下の悩みであり、”最大の悩みであり唯一の悩み”でもあるとは、なんというイージーな人生なのだろう。


 悩みや不幸は、特に創造力の源泉ともなるが、こんなの小説の題材にすらなりそうにない。

 ストッキングがすぐに破れてしまうことを四百字以上、書き綴ったとしても面白くも何ともないし、一体、誰が読むというのだ。


 なお、道香自身は「人生を振り返った時、自身がストッキングに費やした経費はなかなかの金額になっているような気がする」とも考えているが、彼女は人生を振り返った時、何よりも真っ先にストッキングに思いを馳せるのであろうか。

 いい意味でも悪い意味でも、ぬるま湯過ぎないか。

 いい意味でも悪い意味でも、お花畑過ぎないか。

 人間たちの大半はもっと様々なことに悩み、苦しみ、抗い、時には受け入れながらも人生を送っているというのに。


 ……と、こんな心の内はさすがに口にはしなかったサブリーダーであるも、今、一番優先すべき状況にあるのは少なくとも彼女でなく、他の四人のうちの誰かだという決断を下して欲しいとの期待を込めて、チームリーダーを見た。

 しかし、チームリーダーの口から吐き出された言葉は、その期待を大いに裏切るものであった。


「今回は股野道香(二十四歳)に救いのギフトを贈る。私たちは明日以降、股野道香がストッキングをはいても、絶対に破れることのないようにしてやろうじゃないか。チームリーダーの私が決めた以上、これはもう決定事項だ。覆すつもりは一切ない。……言っておくが、これは股野道香の悩みと苦しみだけを慮った末の選考結果ではないぞ。他の四人のうちの誰かを選んだ場合、お前たちが費やすであろう時間と労力も瞬時に計算したのだ。コストカットとは何も金銭的なことだけを指しているわけではない。それに”誰だって”面倒で手間のかかる仕事に取り掛かりたくなどないだろう?」

 


(完)

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