Episode1 答え合わせ
第六感の領域を逸脱した不思議な力。
妻と一人息子を持つ平凡なサラリーマンの忠弘(ただひろ)は、本来ならば目に見えるはずのないものが見え、いや”視えて”しまうようになった。
彼は心霊やスピリチュアルなどには全くの無関心であったし、そういった方面は自分の人生には縁がないものだと思っていた。
何の前触れもなく不思議な力が覚醒してしまうなど、彼は想像だにしていなかった。
人生とは何と奇なるものであるのか。
それはさておき、現に今、忠弘の自宅寝室のクローゼットの中には、頭から血を流した小学校低学年と思しき半袖に短パン姿の少年がいる……というか視えている。
明らかな大怪我を負っているばかりか、痩せこけているうえ全体的に薄汚れてもいるクローゼットの中の少年であるも、忠弘を恨めし気に睨んでくるというわけではない。
彼はただ口をポカンと半開きにしたまま、宙を見上げているだけだ。
忠弘はこの少年のことを”覚えていた”。
自分がこの少年にしてしまったことを、”もう終わったことだ”と記憶の奥底に封じ込めようとしても、ふとした瞬間に忠弘の罪悪感と後悔を煽るかのように、記憶の奥底からその顔を覗かせてくるということも。
後ずさった忠弘は、同じ寝室内の妻のクローゼットを震える手でそっと開けてみた。
妻のクローゼットの中では、胎児が三人、ぷかぷかと浮かんでいた。
いずれも臍の緒をつけたまま、人の形へと変化しゆく途中でその成長を永遠に止められてしまった胎児たちが。
自分のクローゼットの中の少年と妻のクローゼットの中にいた胎児たち。
この二つの光景は何を意味しているのであろうか?
起こる事象には原因があって結果が生じると考える忠弘は、一つの結論に達した。
俺は”クローゼットの中の骸骨”が視えるようになったのかもしれない、と。
Skeleton in the closet。
日本語での類似表現をあげるとするなら、”叩けば埃が出る”か。
今のところサンプルとしては自分と妻の二人だけではあるも、クローゼットの持ち主の”人には知られたくない秘密”が具現化して視えてしまうようになったのでは、と。
忠弘の”人には知られたくない秘密”。
それを抱えることになったのは、忠弘が受験を控えた中学三年生の秋であった。
プレッシャーや難易度、各々が勉強すべき量に程度の差はあれども、受験自体は世の大多数の中学生が通る道ではある。
ただ、当時の忠弘にとっては、二つの学習塾に並行して通わされていたうえ、第一志望の高校に落ちてしまったなら、もう俺の人生は終わりだとまで追い詰められていた。
夜の九時過ぎ、学習塾からの帰り道、疎らな街頭の下で忠弘は件の少年の姿を偶然、見かけた。
少年は石段を下りようとしているところであるらしく、忠弘に背中を向けており、忠弘の存在にすら気づいていなかったように思う。
後ろ姿でも「あの子か」と忠弘が分かるほど、当時、この少年は町内で有名な子どもであった。
今でいう”放置子”に該当するのか。
ガリガリに痩せているうえ、いつも薄汚れた格好をして、ちょっと優しい声をかけてくれた大人にしつこく纏わりついてくるらしいと噂は忠弘の耳にも入ってきていた。
もう秋先で相当に肌寒くなってくるというのに、着る服すら保護者に満足に用意してもらえないらしく、季節外れの半袖と短パンから棒きっれのような手足をのぞかせていた。
哀れさを誘うその後ろ姿。
だが、当時の忠弘にとっては、妙な嗜虐心を呼び起こす姿であった。
保護者に碌に構ってもらえず、周りからも疎まれている”こいつ”になら何をしてもいい。
ストレスで圧し潰されそうになっている自分は、ほんの少しだけ誰かに――自分より弱い者に――八つ当たりをしても許されるだろう、という考えが頭をよぎったのだ。
忠弘は、後ろから「わっ!!!」と大声をあげ、少年を驚かした。
それだけだった。
まさか自分の声に驚いた少年が石段を踏み外し、転げ落ちていくなんて思わなかったのだ。
その場から即効で逃げ去った去った忠弘は、少年のこと――自分が引き起こしてしまったこと――を誰にも話さなかった。
翌日の夕方、少年の死という知らせが忠弘の元にもたらされた。
しばらくの間、忠弘は警察が自分を殺人罪で捕まえに来るのではないかと生きた心地がしなかった。
現場は学習塾からの帰り道のルートであるし、自分の声を聞いた者や目撃者がいて、そいつらの証言から自分に捜査の手が及んでくるかと思っていたのだが、警察は聞き込みにすら来なかった。
忠弘と少年には何の接点もなかったわけだし、少年自身の不注意と少年の保護者の無責任な育児環境が原因となったものだとして、”事故”の話は次第に収束していくこととなった。
忠弘の母親が「犬の散歩をしていた人があの子を見つけて救急車を呼んだけど、ダメだったらしいわ。あんなに夜遅くまで子どもを外に出しているから、ああいう死に方をさせてしまうのよね。親失格よ」と話していたのも聞いた。
あの夜の忠弘を目撃していたのは、夜空の月と星だけであったということか。
そして、妻のクローゼットの中に浮かんでいた三人の胎児だが、おそらく妻は過去に三回、中絶をしていたのだろう。
彼女は四人の子どもをその身に宿したも、産む選択をしたのは自分たちの一人息子・光輝(こうき)だけだったということだ。
太陽の光を見ることもなく星になった三人の子どもの父親はおそらく自分ではない。
自分たちは授かり婚だ。
結婚後、自分も妻も第二子を望んでいたが、結局、自分たちの間に光輝以外の子どもを授かることはなかった。
となると、ごく普通の妻であり母ですといった顔をした女には、”自分との交際開始前に”三回の中絶経験があったと……。
いろいろ考えた結果、忠弘の自身のクローゼットの中の少年だけでなく、妻のクローゼットの中の胎児たちも、視えているも視えていないふりをすることに決めた。
少年も胎児たちも、自分たちに直接何かをしてくることはない。
どちらもクローゼットの中にただいるだけだ。
忠弘はこうも考える。
あの事故の後、俺は第一志望の高校になんとか合格し、大学にも行き、就職し結婚もして真っ当な人生を送っている。
道を踏み外して、転げ落ちたりなんかはしていない。
そもそも俺が本当の悪人なら、あの事故のことなんてとっくに忘れていたはずだ。
覚えているということは、俺が良心の呵責に苛まれている、まともな神経を持った人間ってことの何よりの証明だ、とも。
さらに妻の過去についても問い詰めて、“答え合わせ”をするつもりもなかった。
いまさら藪をつついて蛇を出してどうなる?
妻と知り合った時、互いに二十代半ばを過ぎていたし、さらには互いに別の人との交際歴もあった。
なお、一回の中絶なら暴行された結果ということもあり得たが、いくら何でも三回は多いんじゃないか? という思いも、忠弘は心の中で圧し潰した。
誰しも過去はある。
その過去を叩けば、埃が出てくることもあるだろう。
自分たちのようにクローゼットの中に骸骨を隠している者だってもいるだろうから。
”クローゼットの中の骸骨”が視える、すなわちクローゼットの持ち主の弱味を握れる力を手に入れてしまった忠弘であったが、その力を悪用する気はなかった。
第一、実際に他人の家のクローゼットを覗く機会なんてまずないものなのだ。
どれほど親しい友人であっても普通に失礼だし、泥棒だと疑われても当然の行為なのだから。
しかし、自分の子どもなら話は別だ。
衣食住の面倒を見ているのは親である自分たちだし、クローゼットにある物だって全て自分たちが買い与えた物だ。
躾だの、教育だの、様子が心配だっただのと理由を付けて光輝のクローゼットを開けることは可能だろう。
好奇心からではなく、息子の光輝だけは自分たちのように骸骨を隠し持っていないと信じたかったのかもしれない。
思えば、光輝はあの事故を起こした頃の自分と同じ中学3年生だ。
エスカレーター式の中学校に通わせているから、過去の自分のように高校受験の猛烈なプレッシャーやストレスはないとは思う。
抜きんでた富裕層というわけでもないが、小さい頃から光輝には幾つか習い事もさせ、学習塾にも通わせ、自室も与えて何不自由なく育ててきた。
友人だって人並みにいるようであるし、趣味の一つはジョギングで体を動かすことが好きな溌剌とした中学生だ。
当然ながら補導歴や逮捕歴などあるはずもなく、そんな品行方正で公明正大を具現化したような息子が、クローゼットの中に骸骨なんて隠し持っているはずがない。
自分と妻の子育てに間違いはなかった、と胸を張れる確信を忠弘は得たかったのかもしれない。
忠弘が光輝の部屋の前に来た時、ちょうど当の光輝がジョギングから帰ってきた。
息せき切って帰ってきた光輝の頬は紅潮していた。
ジョギング後の光輝は風呂場に直行というわけではなく、いつも先に自分の部屋へと戻っていた。
「光輝、先月のお前の誕生日にプレゼントしたジャケットがあったろ? それ、ちょっとだけ見せてくれないか? ……父さんの従兄にお前の一つ下の息子がいたろ。静夜(せいや)くんっていって、お前も何回か会ったことがあったろ? ……その静夜くんが最近、お洒落に目覚めてきたらしくてさ。同じ中学生男子ってことで静夜くんへのプレゼントに参考にしたいんだって……」
「いいよ。あのジャケットはクローゼットの中にあるから、好きに見て。何なら写真も撮って、おじさんに送ってくれても構わないよ」
やけに饒舌で言い訳くさい忠弘の即興の嘘を、光輝は疑いもしていない。
親とはいえ自分のクローゼットの中を見られることに、何の抵抗も示していない。
父親が不思議な力を得たことを光輝が知っているわけがないも、光輝はクローゼットの中に親に抜き打ちで見られて困るやましいものを――悪い点数の答案とかエッチな本とかを――何も隠してはいないのだろう。
忠弘は胸を撫で下ろす。
光輝のクローゼットの中に骸骨はいない。
叩いても埃など出てこない。
そうだよな、うちの子に限って。
忠弘は光輝のクローゼットを開けた。
そう、“答え合わせ”をするために。
しかし、クローゼットの中から忠弘にグワワッと襲い掛かってきたものは激しい炎であった。
意志をもっているかのごとく燃え盛る炎は、忠弘の肌や髪を実際に焼け焦がすことはない。
もちろん実際にクローゼットを焼き尽くしていくわけでもなかった。
鳥が締め上げられたような声をあげて飛びのいた忠弘に、光輝が何事かと駆け寄り、クローゼットを覗き込む。
「どうしたんだよ?! まさかゴキブリがいたとか?」
「…………いや、な、なんでもない」
なぜ、光輝のクローゼットの中から炎が?
自分と妻のパターンから導き出した方程式に当てはめると、この炎が何を示しているのか、すでに答えは導き出されているも、忠弘は認めたくはなかった。
でも、こうして視てしまった以上、もう何も知らなかった頃の自分に戻ることはできない。
なぜ、視てしまったんだ?
自分や妻のクローゼットにいた者たちは、過去のことといえば過去のことだ。
だが、この炎はおそらく現在進行形で……。
こんな最悪の”答え合わせ”などしたくない。
窓の外からは、忠弘が導き出した答えに誰かが赤ペンでマルをつけてくれるかのごとき音が響いてきた。
「あ! 消防車だ! もしかして、近くかな?」
消防車のサイレンに、光輝は窓を開けた。
彼のその頬はさらに紅潮していた。
光輝はやたら饒舌に喋り出した。
全く無関係の人間がそこまで知っているはずがないだろうことも。
「最近、やけに不審火多いよね。三日前は蜘蛛井戸公園近くのゴミ捨て場で、その六日前は二丁目にあった廃屋とかさあ……一回だけホームレスが寝床にしていたテントもあったらしいけど。俺、ジョギングしている時も怪しい奴がウロウロしていないかどうかも、ついつい気になってキョロキョロしちゃうんだ。でも、火を付けられたのは誰も住んでない家とか誰も要らないゴミ捨て場の机とソファーとかが大半だし、何より誰一人としてまだ死んでないわけだからセーフだよね」
(完)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます