行方

第33話

 木間を透いて笛の音が聞こえた。子どもの声も、高いからよく通る。


 祭りをやっているのだ。今年はよく米が実ったらしい。みなの声は明るい。


 もう少し奥へ行こう、とナギは思った。沢の岩は大きく、小山のようなのを越えていく。


 見も知らぬ森だ。だができることなら、他に人の入ってこないような静かな川辺に行きたい。背に負った娘を揺すり上げる。あかるこの殯宮もがりのみやを探すナギに、それ以上の願いはなかった。


 深い傷を負ったあかるこは時を置かずに死んだ。助けを乞うこともなく、傷を診ようとするナギの震える手を押し止め、夫と静かに言葉を交わすことを選んだ。青白い頬に、小さなほほえみが浮かんでいた。


 こういった命に関わる重大な怪我を負うと、ひと思いに死なせてやった方がよほど慈悲深いと思えるようなひどい苦しみ方をしたり、末期の恐怖に襲われ、絶望したまま死んでいくものも少なくない。だがあかるこはナギと話ができることを喜び、最後に口づけしてほしいとねだった。


 慣れないままの唇を離し、互いの息が間近に重なり合った瞬間に、あかるこは花がほころぶように笑い、それから眠たげに目を閉じた。そのまま息を引き取ったのだった。


 満ち足りていた。ナギは、あかるこにはもはや命が通っていないことを、なかなか信じられなかった。鼓動が止み、息が絶えたあとも、待っていたら目を覚ますのではと思わずにはいられないくらいに……。


 「そんなにきれいでしたか? ……」


 この辺りには雨が降ったらしい。草が湿り、足が滑る。ナギは呟いた。


 「あなたの見ていた……世界は……」


 道を上がってゆくと、脇を流れていた沢は下へ遠のいていく。沢に沿って行く道のことをナギは考えたが、坂を上がりきった先で急に眩いものに襲われ、目を細めて立ち止まった。


 木立ちの薄闇に光が一条だけ差し、草木に溜まった雨粒が、それを一面に弾いているのだ。ひとかけらでも光を受ければ、水の粒はどんな色にも輝く。


 きらきらと、玉を鈴なりにつけた森を歩いていくと、あるところで柔らかな葉の重なりを踏み抜いた。道が絶え、水玉の瞬きの他は真っ暗な葉叢と苔が崖を覆っている。その下に先の沢が淵になって澱み、水面みなもが時折白く光っているのが見えた。


 ナギは淵を臨む葉叢の中に腰かけ、ぼんやりとあかるこの体を抱きしめた。どこか天の上の方で吹いた風があったらしい、金や銀の雫がふたりに降った。そのうちのひとつがあかるこの唇に弾け、生きやかな桃色の艶が生まれた。目を開きそうだ。息が通いそうだ、今にも――。


 ねえ見て、と耳元に聞こえた気がした。あの雨粒、なんて綺麗なんだろう。ねえ、ナギ――。


 涙が出た。今さらあかるこの目はもう開かないのだと分かったからではなくて、夢のような、暗く光に満ちた木叢があまりにあかるこに似つかわしかったからだ。


 あかるこは、まなざしを隠さない娘だった。心の中が透けて見えるような目だ。だから神にも好かれるのだと思う。ナギはあかるこに見つめられるのが好きだった。間違いなく、好き合っていることが分かったのだから。


 あかるこが何かを見つけ、綺麗、と言ってナギの方を見るとき、ナギはあかるこの目であかること同じ世界を見ることができた。綺麗ですねと、ほほえみ返すことができたのだ――本当は、あかるこほど無垢な人生を送ってなどいなかったのに。


 雨粒に照らされたとき、まず剣を突きつけられたのではと身構えた自分は、殯の平安にはふさわしくない。好きでもないのに剣を打ち合うことしか覚えなかった己も、誰かを斬らねば生きられない世の常も、あかるこがナギを庇って死んだことも、あかるこを刺したのが自分の刀子であったことも、等しくナギを傷つけた。ナギが傍らにいることを許してくれたあかるこの目は、もう二度とナギを見ないのに。


 はじめは、どうせ叶わない恋だと思っていた。思いがけず縁が結ばれてからは、近しくなったからこそ、恋心を抱くことすらおこがましいのにと思った。身分に差があるからではなく、あかるこがあまりにも純粋で、剣を扱う手を触れるのすら恐ろしいような優しさの持ち主だったからだ。そのくせ従順というわけでもなく、宮に縛りつけられても自由を求めて、何かをあきらめるということのない娘だった――あかることともにいるとき、ナギもまた自由でいられた。あかることあかるこの自由を守るために、剣を持つことが誇りにすらなった。


 だが、今はそれも――ただ空しいだけでしかなかった。


 「大水葵朗子」


 唐突に声をかけられ、ナギは驚いて振り向いた。神妙な顔つきで、ヤスオが立っている。脇に弓兵と、剣を帯びた衛士を従えて……忍んできたようすもないのに、まったく気がつかなかった。足跡を辿られたのだろうか? それとも、道すがら誰かに姿を見られていたのだろうか? 迂闊だったとは思わなかった。なぜか、安堵に近いものを感じた。


 ヤスオはヤスオで、あかるこがナギの腕に抱かれて身動きしないのを見て口を噤んだ。そのまましばらく窺って、あかるこはどうやら眠っているわけではないと察したらしい。それでも、ナギに尋ねた。


 「……亡くなられたのか? 」


 はいと答えるのも億劫で、ナギは首を縦に振った。ヤスオは追手らしからぬ顔つきで立ちすくんだ。ナギの動向を警戒していた衛士たちは顔を見合わせ、やがてそっと拝礼した。あかるこの死を悼んでのことだろうが、もしかしたらナギの顔があまりにひどかったのかもしれなかった。


 「こちらの方面に駆り出されているのは我らだけのはずじゃ……」


 ヤスオは姿の見えない敵を探すみたいにそこら中の木立ちに目を走らせた。


 「ナホワカ殿ですよ」


 ナギは居ずまいを正すでもなく、投げやりじみて言った。無礼とは思わなかった。


 ヤスオは目を見張った。


 「何? 」

 「ナホワカ殿があかるこを殺めたのです」

 「馬鹿な。死者が起き上がったというのか」


 ヤスオはまなじりを吊り上げた。


 「ナホワカがおかしなことをしたのは認めるが、そなたまで変になったのか。死者の名を使って戯れるなど許さぬ――」

 「それでは、わたしがそうしたと? 」


 ナギは怒りのために喉が震えるのを感じた。


 なぜ誰もかれも、わたしたちのことを信じてくれないのだ!


 「あかるこがそれを望んだとでも? わたしが妻を殺したとでも言うのか! 」


 衛士たちが後ずさった。ヤスオは胸を突かれたように黙り込んだが、ナギに向かってというより、自身にひとりごちた。


 「生きることの方にこそ覚悟がいるとおっしゃったのは葵さまであろう。死を望むなどとは思わぬ」


 なぜこんなところで、という言葉の先は、伏せられた。ヤスオはナギに一歩近寄った。押さえつけるような物言いは一切なく、願うような口ぶりだった。


 「我らとともに来てくれぬか。……きちんと弔いをして差し上げよう」

 「ウカミさまが――」


 ナギはヤスオたちから目を背けた。剣を向けるなら好きにするがいい、と思った――ナギはもはや生き永らえたいとは思えなかったし、たとえ命が助かってもこの森で墓守りをするつもりだった。他に望みは何もなかった。


 「あかるこを大切に葬ってくださるとは思えませんが――」


 こんな奥まった山の森で、息の絶えた娘をいつまでも抱いているナギが哀れに思えたのか、ヤスオは剣を抜こうとはしなかった。


 「衛士頭というのは存外力がなくてな」


 とヤスオは語りかけてきた。


 「味方をしてやりたくとも、公にはできぬときもあるのだ。心があるのはそなたひとりではないのだ、大水葵」

 「ヤスオさま」


 ナギは答えず、ひとつ問うた。


 「高嶋は、息災ですか」

 「ん……」


 ヤスオは頷くことをためらうような微妙な息を漏らし、頬を掻いた。かなり間があって、それから言いにくそうに答えた。


 「……ああ、息災だ」

 「そうですか」


 いよいよ帰るわけにはゆかなくなったと思いながら、ナギはヤスオを見た。


 「わたしは伊織へは戻りません。わたしたちははなから望んで伊織を出たわけではありませんが、どうしても里へ仇なさぬ証がいるとおっしゃるならば、首を切ってお持ちください。飾りもお持ちになればいい。高嶋ならわたしのものだと分かるでしょう」

 「大水葵」

 「ですが、この場を穢すのはお許しください」

 「殯宮か」


 ヤスオは雨粒の輝く森を見渡し、深い息とともにぴたりとナギを見据えた。


 「本当にそれでよいのか」

 「あかるこは、ここへ葬っていただきたい」


 とナギは頼んだ。


 「里へ戻られましたら、巫女には何の咎もなかったのだと、ふしだらなどではなかったと、みなへお伝えください。それさえ叶えてくださるのなら」

 「明らかにできぬことをあとから覆すのは難しいぞ。それでもよいか? 」

 「はい」

 「そうか。――では、もう何も言わぬ。だが、一度傷ついた名誉なんぞよりも、そなたらが幸せだったかどうかということの方が大事なのではないか」


 ヤスオは呟いたが、一度剣に手をかけ、ナギを促そうとして、また剣から手を離した。


 「別の里の衛士にはならぬと誓うのなら、そなたの剣を預からせてもらえればそれで構わんぞ。頭のない墓守りでは葵さまもお寂しかろう……生きてさえいれば、何か願いが生まれることもあるであろうし……」

 「どうぞ思われるように」


 ナギは剣を差し出した。ヤスオは受け取り、まじまじと眺めた。


 「前にも思ったが、これはまた見事な剣だ」

 「小棘さまにいただいたものです。お確かめになれば、わたしのものだと話してくださるでしょう」

 「あいわかった。……ウカミ殿には、そなたらはふたり揃って討たれることを望み、確かに弔いをしたとお伝えしよう」

 「それはあまりな仕打ち」


 弓兵が俯き、突然そんなことを言いだした。

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