奔走

第11話

 伊織の里に、いくつかの噂が流れた。巫女が東の山へ出向き、蛇神の祟りを追い払ったとか、みなに薬草を摘んで与えたとか、事実にごく近いものもあったが、巫女は神に祟られたのだとか、これから里にもよくないことが起こるに違いないだとか、不吉なものもあった。どの噂にも、共通して暗い翳りがあった。葵につき従った里人たちと、宮の采女が死んだというものだ。その数は、大抵実際より多く語られていた。


 そこからどう繋がったものか、しばらくするとまた別な噂が流れはじめた。


 「葵さまが巫女をおやめになるのではないかと言って、東の山の民人が泣きにまいりました」


 初音がドクダミの籠を葵に持ってきた。葵は近頃、珍しく出歩かずにいる。采女がふたり亡くなったので、身を慎んで宮の奥に籠っているのである。葵は瑞々しい青い葉をつまんだ。


 「ずいぶん極端だね」

 「まったくです」


 初音は憤然として言った。今の口調そのままで里人を追い返したに違いないと葵は思った。


 「どこからそんな話になったの? 」

 「采女から死者が出たことで、巫女が祟りに敗れたのではと言いふらしたものがいるようなのです。これは男王に背いた罰であり、伊織はやはり、男王ひとりによって収められるべきなのだと」


 初音の怒りは収まらない。葵が貶められ、巫女の宮の権威が失墜することが許せないのだ。彼女の怒りは、噂にも、噂を気にする里人にも、噂の原因にもなった葵にも向けられていた。


 噂がどこでどう広がろうと、葵に確かめる術はなかった。


 大武棘についている誰かが裏で糸を引いているのではないかという考えはあったが、訪ねてきた小棘王子は丁寧な挨拶を述べたのちに言った。


 「巫女をおやめになるとか聞いてまいりましたが、そうでもなさそうだ」

 「そうご覧になりますか」


 小棘はにやりと笑った。そうすると、隔てのない青年という風情がほんの一瞬だけ漂った。


 「しおらしく身を慎んでおられるとか。似合わないからおよしなさい」

 「なんとまあ」


 初音が目を見開いて呆れた。王子だからと対面を許したが、妹にでもするような物言いに驚いたのだ。小棘は大抵誰に対しても無愛想なのが常だったが、自分より身分が高いながら年若い葵には、口調がわずかとはいえ甘くなるのだった。


 「大水葵も案じている。あなたが宮に籠っておられるのは巫女をやめるために身の回りを片付けているのではないかとね」

 「小棘さま」


 初音が堪りかねて口を挟んだ。小棘は肩をすくめて、葵に忠告した。


 「噂というものを侮ってはいけない。ご用心なさい」


 小棘の言った噂の中で葵の気にかかったのは、ナギのことだった。東の山から帰ってから、ナギとは一度も会っていない。初音が許してくれなかったのだ。初音は大武棘の命に背いて祓いを引き受けた葵によい顔はせず、葵が宮に籠って外出しないのを理由に、ナギを宮から閉め出してしまった。そして、口に出しはしなかったが、噂と同じように葵が大武棘に背いたせいで采女たちが祟りを受けたのだと思っているらしかった。大武棘は、里を興した妹背からの直系だが、葵は違う。噂を信じるものたちは、それを理由にした。


 「葵は巫女としての務めを果たしただけではないか。大水葵は葵を守って無事に宮へ帰したことだし」


 とふたりを庇い、人々の頭を明るく冷ましてくれたであろう山辺彦は、今里にいない。戦の始末をつけに、東西に駆り出されていた。


 いよいよ、葵が承知している分に増して、自分たちが名ばかりの妹背であると思わないわけにはいかなかった。ナギは従者なのだ。はなからそうだったではないか。ただの従者では宮の中へ入れないから、夫を名乗っているだけ。妹背らしいことなど、一度もしたことがない。だが今になってみると、ナギを従者と呼ぶのはとても冷たいことのように思えた。


 もし宮を辞したら、と葵はぼんやり考えた。陽が照って白く光る庭には、衛士たちが交代でじっと立っている。葵からナギが見えたことは一度もなかった。


 噂に囁かれるように宮を辞したら、誰の許しがなくともナギと妹背になれるのだろうか。


 采女たちが初音の目を盗んで誰それと逢ったの、喧嘩して別れたのと、盛り上がっているのを、初めて煩わしいと思った。しかし、父と母の仲を知らず、叔父も一人身で、幼くして巫女になった葵には、本当はナギの言う片恋さえどれほどの気持ちなのかよく分かっていなかった。恋とは、何なのだろう。ナギは、葵と本当はどうなりたいのだろう。葵は、どうしたいのだろう。


 だから、巫女をやめるのではという噂についてナギがどういう心配を向けるのかということにまでは、気が回らなかった。


 その晩の月は細かった。この時分になると采女たちも寝静まり、気をつければ宮を歩き回っても気がつくものはいない。篝火のそばで番をしている衛士はふたりいて、決まった時間に交代のふたりが来るという形で宮を守っていた。宮の周りにはの形に堀が巡っていて、宮の北側の庭だけは真後ろの山と繋がっている。そして宮の北側の、最奥の部屋に巫女の座がある。正面の衛士たちさえ突破されなければ、誰も巫女を害することができないように宮は建てられていた。


 葵は階から北の庭に降りて、そのまま山へ行くのが好きだった。今思えば、初音が叔父に泣きついていると知ったときに、それならとやめておけばよかったのだ。そうすれば、ナギを巻き込むこともなかった。ナギは貧乏くじなどではないと言ったけれど、葵はやはり、あれはナギの親切からでた慰めだと思っていた。ナギがそう思ってはいないとしてもだ。


 「葵さま」


 高床に佇んで真っ暗な木立ちを見つめているところへ急に声をかけられたので、葵はぎくりとした。白っぽい影が、風のようにさあっと寄ってくる。悲鳴を上げずに済んだのは、あるかなしかの光の中でもそれが誰だか分かったからだった。


 「ナギ」


 ナギは木立ちから宮の階の下まで来て、そこで叩頭した。葵の方でも目が慣れてきて、ナギがどんな顔をしているか分かった。まったく困ったひとだ、というふうなほほえみだった。


 「お休みにならないのですか」

 「考えごと」


 ここで、あなたのことを考えていたの、と言ったなら、ナギはどんな顔をしただろう。多分、ほほえみだけが消えて、本当に困った顔をさせたに違いなかった。


 「考えごとですか」


 困らせないようにと答えを選んだのに、ナギの顔つきが暗く変わった。そういえばナギの方こそ、こんな時分まで剣を帯びて何をしているのだろうと葵は思った。


 「ナギは休まないの」

 「北の山を見ておりました。いつ何時、山を越えてくるものがいないとは限りませんから」

 「ずっと? 」


 葵と会わない間、ずっと、という意味だった。ナギは返事をはぐらかすみたいに、息だけでほほえんでみせた。


 「まさか、あなたにお会いできるとは」

 「ナギ、あのね――」

 「葵さま」


 ナギは階を上がり、葵のすぐそばまで歩いてきた。


 「巫女をおやめになると、里人が口にするのを聞きました。宮を出て、ひとりの女人として然るべき方に嫁いでゆくと」

 「そんな話になっているの……」


 小棘の言っていたことより話が大袈裟になっていることへの驚きよりも、ナギの瞳に葵は釘づけになった。月の光のせいではなくて、初めて見る色の目が葵に向いていた。急に、知らない青年を相手にしているように感じられた――ナギの嫉妬が見えた。


 ナギはふと目を逸らした。


 「もし真であっても、わたしがどうしようというのではありませんが……」

 「うそ」


 ナギが葵を見た。葵はナギを睨んだ。ナギが目を背けた瞬間偽りが生まれたのを、葵は見逃さなかった。


 ナギは、葵がナギを選ぶとは思っていないのだ。まなざしを透いて見えるほどの情を持ったままで、葵に嘘をついた。それが許せなかった。


 「どうしてナギがそんなふうに言うの。わたしに嘘をつくの? 」

 「葵さま」


 ナギが身を引こうとしたけれど、葵は袖を摑まえた。ナギが無理に振り払えないことを知っていた。


 ふいに、ナギが葵の腕を強く引いた――葵は息が止まるかと思った。けれどそれは、恋情に任せて抱きしめようとしたのではなかった。


 「曲者」


 衛士たちの声とともに、ふたりが立っていたところに矢が突き刺さった。ナギは葵を抱えたままたくみに身をかわし、葵を背の後ろに入れた。


 「誰に向かって射かけている! 巫女宮の守りが、血迷ったか」


 建物の影に入ってしまえば、わずかの月明かりも届かない。狙ったものの姿が見えないのと、駆けつけたところを一喝されたのとで衛士が目を白黒させている隙に、ナギは彼らを投げ飛ばした。


 誰が呼んだのか、他の衛士たちが雄叫びを上げてこちらへ向かってくる。采女たちも起き出したのか、葵さま、葵さまと悲鳴のように呼び立てる。


 「どうぞ御座おましへ。ここはもう危ない」


 ナギは短く言い残すと、ひとり北の庭を駆け去った。その背を矢が狙い、幾人かが後を追っていく。


 ナギ、と呼びたかったが、それはできなかった。


 「貴様ら、若僧ひとりに何を手こずっている」


 甲高い声がした。ウカミだった。葵ははっと暗がりに張りついた。この男にだけは、ここにいることを知られてはいけないと分かった。だが、


 「巫女の宮に押し入って夜這いをかけるとは、まったくおぞましい。里人の口にのぼるのも、いくら止めておけるか……」


 ウカミは心底苦々しいという顔をして、宮の周りを駆け回る衛士たちを一瞥して立ち去った。葵の隠れている方へ目をよこし、薄い唇を吊り上げるのを見て、葵は冷水を浴びせられたような心地がした。


 葵が祟りに敗れ、巫女をやめるという噂を撒いたのは、この男に違いなかった。ウカミは待っていたのだ。葵との対面を許されないナギが、疑心に耐えかねて霊域へ忍んでくる夜を。

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