第7話

 伊織王いおりのおおきみ大武棘おおたけのぎは、不機嫌そうに体を揺すった。腹回りにぐるりと肉がついて動きにくい。胸も女のもののように膨らみ、垂れ下がっていた。


 「また巫女の宮の用か」


 申せ、と酒杯で指された采女は縮こまり、やっと声を出した。


 「巫女王さまより申し上げます。東の山に祟りなすものありとのこと、つきましては――」

 「祓いをしたいというのだな」


 大武棘は酒をあおった。空になった土器かわらけを、侍女に投げ渡す。侍女は危なく受け止めた。落として割りでもしたら何をされるやら、考えただけでも恐ろしい。


 「さっさと次を注げ。……ふん、祓いなんぞくだらん」


 采女は身を強張らせた。大武棘は八百万の神のうち、ただの一柱も敬おうという気がなかった。


 「祓いも鎮めも清めもこの里にはいらぬと、何度言えば分かるのじゃ、あの娘は。目に見えぬものなど、本気で信じておるのか。そうかと思えば、巫女のくせに夫を迎えるなどと……」


 そんなに男子が欲しくば我が宮に入れてやろうというものを、と王は呟いた。賢い女など可愛げがないと思っているが、美しい娘であるということだけは認めていた。


 大武棘は傍らに控えている衛士に言った。


 「それより、戦の支度は進んでおるのか。今度こそ、晴山はるやまめに参ったと言わせてやるのじゃ……」


 景気よく酒を飲み干し、宮をぐるりと見渡したところで、そこにまだ采女がうずくまっているのを認めると、怒鳴りつけた。


 「いつまでそうしておるつもりだ! 戻って、巫女にでも何でも、報告したらよかろう」


 采女が父王の宮から逃げるように立ち去っていくのを、小棘は見た。小棘に従っている高嶋が、気の毒そうに見送る。王は目に見えない神だとか、霊だとか、そういうものが嫌いなのだ。これは、伊織のものなら誰でも知っている。だが本当は、そうした神秘なものを誰よりも恐れているのだ、と小棘は思っていた。信じないと言いながら、みずからの手に負えない力と、それを扱うものを心底恐れている。だから他の里にむやみと戦をふっかけ、巫女に武の力を示したいのだ。


 晴山王はるやまのおおきみといえば、この辺りの地方でおそらく一番力のある里の長だ。近頃、西や北の王朝とも結び、遥か彼方の海にまで手を広げはじめている。こちらから仕掛けない限り伊織に手を出してこないのが救いだった――小棘としては、それはそれで癪だと思わないではなかったが。


 小棘は愚かな王子ではなかった。伊織がまだ里として存在しているのは、大武棘が独断で戦を仕掛けているのが向こうに知れているからだ。王の見得だけで組まれる軍隊の力などたかが知れている。


 それに、晴山王は伊織の巫女王を恐れているのだ。こちらに手を出してこないのは、なにも王が愚かだとか、里が小さいからだとか、侮られているというだけではない。かつて巫女だったヤエナミも、夢見や優れた卜占の力によって周囲の里から畏怖されていたと聞く。そのヤエナミの娘であり、幼くして山崩れを予知した葵が巫女になって男王とともに里を治めているという噂は、諸国に知れ渡っていた。


 巫女王の方が自分よりよほど重く見られているということは、さすがの大武棘も知っている。だから、いっそう戦を焦るのだ。小棘が案じているのは、男王と巫女王との間がさらにこじれ、しまいに伊織の中で戦が起こることだった。考えるだに馬鹿らしいとは思うが、残念ながら今の父のありさまを見るにありえないことではないというのが小棘は憂鬱だった。


 葵が得体のしれない力の持ち主だということが王を駆り立てるが、同じくらいその力を恐れているから、巫女そのひとに向かって拳を振り上げる勇気がないというだけだ。里がふたつに裂けたとき、晴山王がどう出るか。考えたくもない。


 葵の夫を探す山辺彦に名乗りを上げたとき、自分がそこまで考えていたのかどうか、小棘は分からなかった。巫女と王子が仮にも妹背になれば、少なくとも身内の争いは防げると――。


 いや、と小棘は頭を振った。


 「――高嶋」


 小棘は傍らの高嶋に耳打ちした。


 「巫女王に、次の戦はどうなるか伺ってまいれ」


 大水葵を通して、と言うのは癪だった。高嶋は頷き、巫女宮へ向かった。


 十年も前から、おれはあいつに負けているのだ。あの日、葵が兄水葵にあなたは立派だと言ったのを、小棘も聞いた。王子たるもの、いかなるときも頭を垂れて敗者となってはならぬと教えられてきた小棘が、なぜ葵が兄水葵を褒めたのか分かるには、しばらくかかった。それから、相変わらずくそ真面目でおもしろくないやつだと思っている――くそ真面目で、一途で、凛としている。あいつがおれに膝を折って仕えるなど、ますますおもしろくない。だから、側近に選ばなかったのだ。


 宮の高床に、大武棘の側近くに仕える男が立って小棘を見ている。ウカミという小男だ。王は王子たちよりも、この男を信用しているように思えた。そのわけは実にたやすい、ウカミが大武棘の耳に逆らうようなことを言わないからだ。


 小棘はウカミを好きではなかった。小棘が鋭く見ると、ウカミは歯の欠けた口でにんまり笑い、ひょこひょこと歩いて王の傍らへ戻っていった。

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