第48話

 エージと彼女は順調に交際を重ね、それから一年半程経った頃、二人は結婚することが決まった。


 エージに恋人が出来てからノラオと彼が会う回数は確実に減っていたけれど、それでも二~三ヶ月に一度は会うことが出来ていたから、ノラオは報われない恋心をだましだまし、次にエージと会える日を心待ちにして、会えない日々を耐え忍んでいた。


 エージ達の交際の様子から、近いうちにきっとそういうことになるだろうと薄々覚悟を決めていたノラオだったけれど、それでもやっぱり、実際にその報せを受けた時の衝撃には並々ならぬものがあった。


 自分はエージの親友にはなれたけれど、やっぱり彼の運命の相手にはなることは出来なかった―――それを改めて思い知らされたノラオは、アパートの自室で鬱々と天井を仰ぎながら、独り膝小僧を抱えて玄関のドアを見やった。


 あのドアを当たり前のように開けてエージが遊びに来ることは、もうないんだろうか。


 結婚式前夜、大学時代の友人達によって開かれたエージの独身最後を祝う飲み会の席で、ノラオは密かにある決意を固めていた。


 明日の主役を二次会三次会へいざなおうとする悪友達あくゆうたちの手からエージを救い出し、ほろ酔い加減の彼を駅までエスコートする役目を担う最中、見上げた夜空には真っ白な月が浮かんでいた。


「―――月が綺麗だなぁ、エージ」


 何気ないふりを装って、その実声が震えてしまわないように気を付けながら、精一杯の勇気を振り絞って、ノラオは彼にそう伝えた。


 ノラオが今日エージに伝えようと、心に決めていた言葉だった。


「……うん? ああ、そうだな」


 頭がいいのに情緒的なことに疎い一面のあるエージは、ノラオの言葉に秘められた意味など全く介さずに、ただ何気なくそう返した。


 そもそもノラオの気持ちに全く気付いていないエージには、その言葉の裏に隠された彼の真意になど気付けるはずもなかったのだ。


 ノラオもそれを分かっていて、分かっていたからこそ、明日結婚をする彼へ、こういう形で最後に自分の想いを伝えるという選択をした。


 文豪夏目漱石に端を発するという、遠回しな愛の言葉に変えて。


「本当に、月が綺麗だ」


 ―――あなたを、愛している。


「……? お前、そんなに風流なヤツだったか?」


 小首を傾げる何も知らないエージに、ノラオはニカッと歯を見せた。


「オレは意外とロマンチストなんだよ。お前も少しはそういう感性を磨いとけ」

「オレはそういう方面はどうも……」

「知ってる」


 だから使わせてもらったんだよ。


 言外にそう紡いで、ノラオは明日結婚をしてしまう最愛の人へこう告げる。


「なぁエージ……お前は結婚したら嫁さんの実家へ入るわけだし、生活もガラッと変わって忙しくなるんだろうけど、スゲー時々で構わないからさ、オレのこともたまにはかまってくれよな」


 軽い口調でなされた懇願に、エージは眼鏡の奥の涼しげな目元を和らげた。


「もちろん。オレもたまにはお前と息抜きしたいからな」


 それに微笑み返しながら、ノラオは尋ねた。


「……なぁ。自分の苗字なまえが変わるって、どんな感じ?」

「んー……そうだな、言うなれば新しい自分に生まれ変わる……っていう感覚かな。背負うものが増えて、責任も覚悟もこれまでとは全く違ったものになるっていうか……」

「喜多川英一郎っていう新たな人間に―――かぁ。……何かさ、オレからすると変な感じなんだよな。何ていうか、お前なのにお前じゃねぇみてぇ、っつーか」

「そうか? 世間的な呼び名が変わるだけで、お前にとっては何も変わらないと思うがなぁ。だって、そもそもお前にとってオレは最初からずっと『エージ』なんだから―――そう考えると何も変わらないよ、そうだろう?」


 その何気ないエージの物言いが、「お前は特別だ」と、そう言ってくれているような気がして―――ノラオは目頭が熱くなるのを覚えながら、それをごまかすように口を動かした。


「はは、確かにそうだな。違ぇねえわ。……んじゃ、しばらくはなかなか会えなくなるだろうけど、お互いじーさんになって時間が有り余るようになったら、またしょっちゅう会って遊ぼうぜ」

「そうだな。それもきっと楽しいだろうな」

「……ああ」


 わずかに瞳を潤ませながら、ノラオは意識的に口角を上げて、エージの腰の辺りを叩いた。


「―――そん時を、楽しみにしてる」




 翌日、エージは結婚して「喜多川英一郎」となった。




 他人の配偶者として誓いの言葉を交わすエージの後ろ姿を、ノラオは招待者席の一角から、じっと見つめていた。

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