第八話 千々秋月

 白香は悲鳴を上げながら腰の少し上に突き刺さった白銀の刃を引き抜いて、仰向けに倒れた。視界に鹿声の巨体が現れる。白香は激痛と流れ出る血を感じながらも、そばに転がった黒檀の太刀に手を伸ばした。その手を踏みつけて、鹿声は言う。

「いきなり襲ってきて、何の用だ?」

 白香は怒りと痛みの中で自分がここにいる意味を確認するように叫んだ。

「私の兄の仇だ!」

 鹿声は鼻を鳴らして、白香の手を踏みつけたまま白銀の刃を拾い上げる。そして、その切っ先を白香の胸元に向けて振り下ろした。

 物凄い音がして、鹿声の身体がよろめく。その向こうに、太刀を握りしめた川葉が立っていた。蔦の縄を淵に引っ掛けて登って来たのだ。彼は鹿声の刃を断崖の下に蹴り落とした。

「白香!」

 彼女を抱え込むように覆い被さる川葉の背後で鹿声が立ち上がる。

「後ろ!」

 鹿声の足が川葉の頭を捉えた。川葉は咄嗟に腕で防御をしたものの、近くの岩壁に全身を打ちつけた。そのわずかな一瞬、彼は白香に向けて〝天狗の座〟を指さしていた。

 鹿声は倒れる川葉のもとへ歩み寄って行く。白香はそれに背を向けて、四つん這いになりながら、〝天狗の座〟の大岩を登る。

 川葉のうめき声がして白香が背後を見ると、鹿声が彼を殴りつけていた。

 助けたい、という思いを振り払うように〝天狗の座〟に上がる。

 大岩の真ん中、幾筋ものひび割れの中心点にそれは静かに佇んでいた。重い身体を引きずるようにそのそばに歩み寄る。

 風が吹きすさぶ中、白香は深い黒に緑が混じったような不思議な色の剣と、まるで世界に自分とそれしかないような感覚を抱いた。岩に突き刺さった剣の刀身に文字が彫られていた。


 ──千々秋月ちぢしゅうげつ


 二者の間に、唐突に鹿声の巨体が現れた。川葉は髪を掴まれたままなす術がないようだった。

「近寄るな」

 鹿声の放った拳が爆音と衝撃を伴って白香の胸に打ちつけられた。

 びりびりという衝撃に吹き飛ばされそうになるが、白香はその場に留まって、燃える眼光で鹿声を射抜く。

 鹿声の拳が振り下ろされて、白香の肩口に直撃した。その衝撃が〝天狗の座〟をぐらつかせる。岩に入っていたひびが広がって、千々秋月がかしいだ。

 それに気を取られた鹿声は、川葉が白香の取り落とした黒檀の太刀を手にしたのを察知できなかった。太刀の強打を胸元に受けた鹿声は数歩後ずさって膝を突いた。

 その壮絶な眼が川葉を捉えて離さなかった。その場で拳を突き上げると、旋風が川葉を包み込んで、上空に放り上げた。地面を蹴って、刹那で空中の川葉に接近して、腕がはち切れんばかりに握りしめた拳を彼の顔面に向けた。

「白香!!」

 川葉が叫んで、彼女が千々秋月に手を伸ばした。鹿声が怒りから我に返ったように、白香を見た。

 その冷たい柄を握りしめた時に、白香のまぶたの裏にこれまでの記憶が閃光のように走った。


『お前は女のくせに狩りの才能がある』


「触るなぁ!」

 鹿声が怒号と共に空中を蹴った。懐から煌めく短刀を引きずり出す。


『雲月を葬ってやろう。場所は?』


 白香は千々秋月を引き抜いた。胸中は波ひとつない水面みなも

 赤い衣をはためかせ向かってくる鹿声の姿がゆっくりと瞳に映る。


『俺にもな、妹がいたんだよ』


 白香は地面を蹴った。その手にいにしえの霊剣を携えて。真っ直ぐと鹿声へ飛び込んでいく。


『お前はまだ心の赴くままに戦っているだけだ』


 目にも止まらない速さで突き出された鹿声の短刀に真正面から突き進んだ。不思議と重さを感じない剣の柄を強く握りしめる。

 鹿声の刃が白香の胸を捉える。


『楡沢の主を狩ったぞ!』


 首から下げた兄の形見が刃を受け止めていた。

 白香は鹿声の眼を見据えた。胸の奥底から言葉が紡ぎ出されていく。

 それはまるで鎮魂歌。


 ──うるか山


 千々秋月に魂を込める。


 ──風に乱るるもみじ葉は


 一点の曇りもない瞳で、白香は剣を振り払った。


 ──我が打つ太刀の


 神速の斬撃が鹿声を捉えて、血飛沫が舞った。


 ──血煙と見よ


〝天狗の座〟で解き放たれた波紋が広がる。

 山を覆う木々の葉が一斉に赤く色づいた。

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