第7話 後宮バトルロワイヤル
ちょうど使い切った絵の具がアールエッティ王国から届いたと聞いて、侍女が届けてくれるのを待つより取りに行くほうが早いと思った僕が浅はかだった。そう反省したのは、前方から五人の姫君たちが歩いて来るのが見えたからだ。
(……面倒だな)
そう思いはしたものの、姫君たちも僕の姿に気づいたようだから踵を返すのもよくない。「仕方ない」と小さくため息をつき、廊下の端に寄って通り過ぎようと軽く会釈したときだった。
(お……っと、危ない)
爪先が何かにぶつかって躓きかけた。スッと消えた棒のようなものは……なるほど、姫君の一人が手にしている日傘か。
おそらく、日傘に足を引っかけて転べばいいとでも思ったのだろう。もし僕が姫君たちのような靴を履いていたら目論見どおり転んでいたかもしれない。
「そういえば、あの方の荷物は絵の道具ばかりだったそうよ」
「まぁ。一体何をしにここにいらっしゃったのかしら」
「お妃候補ではなくて、絵を描きにいらっしゃったのね」
扇子で口元を隠してはいるが、明らかに僕に聞こえるように話している。こうした言葉は、姫君たちとすれ違うたびに頻繁に耳にするようになった。これが王太子の後宮での日常なのだろう。
(まぁ、三十人近くもいればそうなるか)
互いに牽制し合い、誰よりも早く殿下の子を生みたいと誰もが思っている。そのためには弱者を妃候補という舞台から早く退場させたいに違いない。
(これまで、何人の妃候補が退場したのだろうな……)
現在は三十人近くいる妃候補だが、一時期はそれより多かったという話を耳にした。ということは脱落者が何人もいたということだ。おそらくいまの僕のように弱者として目をつけられ、こうして集団でいびられでもしたのだろう。
(もしかして、こういうことを想定しての「身一つで来るように」ということだったのか)
そうしなければ、姫君たちは大勢の侍女を連れて後宮にやって来たはずだ。そうなればこの程度の小競り合いで済むはずがなく、それこそ後宮内で家や国同士の争いになっていたかもしれない。
(……で、侍女たちの代わりに姫君同士で集団を作っているというわけだな)
昨日は七人の集団とすれ違った。すれ違いざまに嘲笑され、同じような言葉を投げかけられた。その前は三人、その前は六人だったか。複数の集団に属している姫君もいるようだが、大方は一つの集団に入っていることも何となくわかった。
一人ではできないことも、複数なら声を上げられる。別に悪いことだとは思わないが、ときに恐ろしい結果を生むこともある。姫君たちは、そのことに気づいているのだろうか。
(そもそも、最後は個人戦になるんじゃないか?)
最初の妃の座を狙っての争いなら、勝者は最初に子を孕んだ者になる。つまり、最終的には誰か一人が生き残るということで、いま手を取り合っている集団内で互いに蹴落とす争いが起きるということでもあった。
(なんとも恐ろしい話だな……)
いっそ憐れに思えてくる。しかし、僕もそんな妃候補の一人なのだ。悠長に「後宮とは恐ろしいものだな」なんて感心している場合ではない。
……わかってはいるものの、こうした足の引っ張り合いのなかったアールエッティ王国で育った僕は、誰かの足を引っ張ることには気が引けてしまう。
(ということは、僕が誰よりも早く子を孕んでしまえばいいということなんだろうが……)
それが何よりも難しい。三十人近くの妃候補の誰よりも殿下の目にとまることなど、はたして僕にできるのだろうか。
「いくらΩだったとしても、男性ですものね。早々に諦めたほうが身のためというものだわ」
「そもそも男性のΩが本当に子を生めるのかわからないじゃないの」
「そうよね。男性のΩなんて長い間生まれていないのだし、子を授かることができるのか怪しいものだわ」
その意見には僕も大いに頷きたい。元侍医の話では男のΩも確実に妊娠するということだったが、そもそもαのアレを入れる場所がないじゃないか。いくら探しても見つからないし、新しく穴が空く様子もない。それでどうやって子を孕めるというのだろうか。
(……いやいや、それではアールエッティ王国の未来が危うくなってしまう)
それ以前に、発情していないことも問題だ。あぁ、いまの僕には問題が山積しまくっている。一人でどうにかできることなら努力もするが、殿下に接触することくらいしかできないのが現状だった。
「もっと焦るべきか。いや、焦りすぎては引かれてしまう可能性がある。ということは、ここはやはりじっくり距離を縮めて……いや、それでは時間が……となれば、多少は強引にいくことも考えるべきか」
口元に手を当てながら、ついそんなことを口走ってしまった。「しまった」と気づいて慌てて口をつぐんだ。勝手にしゃべり出すなんて、姫君たちの機嫌をさらに損ねてしまったに違いない……そう思い、さらなる嘲笑を覚悟しながら視線を上げる。しかし目の前に姫君たちの姿はなく、奥へと歩いて行く背中が見えただけだった。
そういえば、「嫌だわ、独り言かしら」「気味が悪い」「白っぽい見た目も怖いわね」という言葉が聞こえたような気もする。
「たしかに、東のほうには僕のような色合いの人間は少ないな」
アールエッティ王国がある北西の地域には色の薄い人間が多く住んでいる。一方、ビジュオール王国がある東や南側は黒髪や黒目が多く、肌の色も僕たちより少し濃い気がした。
そんな中では、僕のように銀色の髪や淡い碧眼は気味が悪く見えるのだろう。しかも僕の髪は短いながらもフワッフワだ。小さい頃、陽気でキザな従兄殿に「空に浮かぶ雲のようだな」と言われたことがあるが、それも気味が悪く見える一因かもしれない。
「ということは、やはり姫君たちに遭遇しないのが一番か」
僕には姫君たちのように集団で立ち向かおうなんて気持ちはない。元々蹴落とそうという気すらない。であれば、極力接触しないのが後宮で生き残る最善策のような気がする。
「やれやれ、考えなければいけないことが本当に多いな」
しかし、これも国のためだ。なんとしても後宮で生き残り、最初に殿下の子を生まなければならない。そうして妃になり、アールエッティ王国の借金と未来を何とかするのだ。
「それに、男の僕には期限があるようだしな……」
それが最大の問題だった。いつまで後宮に滞在できるのか確認してはいないが、最初の殿下の言葉から察するに、そう長くはないだろう。
「締め切りがわからないということは、これほど不安なものなのか」
絵を描くときには必ず締め切りというものを設定し、それに向かってひたすら突き進んでいく。しかし、今回はその締め切りがまったくわからないのだ。
だからと言って、下手に尋ねて「そんなに国へ帰りたいのか?」と勘違いされても困る。やれやれ、妃になることがこれほど大変だとは思わなかった。
「こんな状況で過ごしていらっしゃる叔母上はすごいな」
アールエッティ王国の隣国コントリノール王国の後宮には五人の妃がいる。叔母上は、その中でも第二妃として揺るぎない立場を築かれていた。だから財政難に陥っている我が国を、芸術品を買うという方法で何度も助けることができたのだ。
そのためには相当な努力と辛抱をされてきたに違いない。そう思うと、これまで以上に尊敬の念を抱かざるを得ない。
「そんな王家で逞しく育った従兄殿も、ある意味すごいのかもしれないのか」
残念ながら、恋の駆け引きは下手なようだが……。僕は両方の頬をぶたれて呆然と立ち尽くしていた従兄殿と、鼻息も荒く睨みつけた妹を思い出し、懐かしいアールエッティ王国に思いを馳せた。
「なぜ母上主催のガーデンパーティに参加しなかった?」
「はい?」
「……招待状が来ただろう?」
殿下がわずかに眉をひそめている。殿下が「母上」と呼ぶ人物は、ビジュオール王国の王妃しかいない。その王妃から招待状が来なかったかと問われ……はて、そんなものを見ただろうかと首を傾げた。
(……もしや、姫君のどなたかが隠したかな)
あり得ることだ。もし僕がガーデンパーティに参加すれば否が応でも目立つだろうし、王妃の目に留まり覚えめでたいなんてことになるかもしれない。姫君たちはそれを嫌がったのだろう。
(まぁ、僕としては姫君たちと接触しなくて済むのだから結果的によかったわけだが……)
ただ、殿下に招待状が届いていないことを知られるのはよくないような気がした。いや、姫君たちが勝手にやったことだろうから僕には関係ないのだが、それを僕が殿下に言いつけたと思われても困る。できるだけ波風を立てたくないのが本音だ。
「後宮での催しには、参加しないほうがよいかと思いまして」
「なぜだ?」
「僕はΩではありますが見た目は男ですし、なかにはよく思われない方々もいらっしゃるでしょう」
「……なるほど」
いまので殿下が納得してくれたのかはわからないが、男のΩは珍しいのだからおかしな話ではない。僕は「その話は終わりだ」と言わんばかりにキャンバスに視線を移し、黄色の絵の具を含ませた筆を動かした。
芍薬を描き終わった僕は、つぎに寝室から見える庭の薔薇を描くことにした。本当はスケッチブックの中から選ぶ予定だったが、あまりに美しく咲き誇っている薔薇の姿にすっかり魅了されたのだ。
小振りな花をたっぷりと咲かせる黄色の薔薇は、アールエッティ王国の庭でもよく見かける種類だった。棘がないから、少し切り分けて王宮内に飾ることもあった。短い夏の前によく部屋に飾っていたことを思い出し、つい懐かしくなって筆を取った。
そんな薔薇の絵を殿下はそこそこ気に入ったらしく、最近では昼食後に覗きに来るようになった。小一時間ほど僕が絵筆を動かすのを見ながら、絵の話や庭の話をする。ガーデンパーティの話も、そんな中で出てきた話題だった。
「母上は残念がっていたようだが、理由はわかった」
「それは申し訳ないことをしました」
「いや、気にしなくていい」
横に立つ殿下にチラッと視線を向ける。表情が変わらないからはっきりしないが、いまの言い訳で一応は納得してくれたらしい。
(後宮で生き残るのは、本当に大変なことなのだな……)
小さくため息をつきながらも筆を進める。そうして薔薇に鮮やかな黄色を載せ終わり、つぎは光り加減を描き入れていくかと新しい筆を手にしたところで、殿下がやけに真剣にキャンバスを見ていることに気がついた。
「殿下、どうかされましたか?」
「……あぁ、いや、」
そう言いながらも、口元に右手を当て何か考えている。もしや僕の描く薔薇に問題でも見つけたのだろうか。そう思った僕は、もう一度「殿下、どうぞおっしゃってください」と声をかけた。
「気に障ったら申し訳なく思うが……」
「いえ、拝聴します」
芸術とは作る側の人間だけのものではなく、大勢に見られて初めて光り輝くものになる。そのためには見る側からの意見を聞くことも大事だと、幼いときに絵画の師に教わった。
「貴殿の絵は写実的で実にすばらしいが、この絵なら、もう少し輪郭をぼかすというか、荒くするというか……あぁ、うまく言葉にならないな」
「輪郭……荒く……なるほど。写実性よりももっと抽象的な……そうですね、子どもの絵本のような風合い、ということでしょうか?」
「あぁ、それが近いかもしれない。いや、気を悪くしたのならすまなかった」
「いえ、それは大丈夫です。……なるほど、抽象画的な要素か……」
僕はこれまで写実的な絵を中心に描いてきた。まるで生き写しのような肖像画が人気なのも、僕のそういった技術が高く評価されているからだ。
しかし、殿下の指摘になるほどと思う部分もあった。思い出したのは陽気でキザな従兄殿に言われた言葉で、「たまには商人たちが扱う商品の包み紙みたいな絵も描いてみろよ」という、なんとも斬新な意見だった。
あのときは「写実性を追求する僕に何を言っているんだ」と気にも留めなかったが、殿下に言われると「それもアリだな」と思える。
(たまには違う要素を取り入れることで、新たな扉が開かれることもあるか)
いまの僕に行き詰まった感はまったくない。さらに写実性を極めようという意欲もある。だが、そうではない一面も今後の僕の絵には必要となってくるかもしれない。
「殿下、ありがとうございます。早速、取り入れてみようと思います」
改めて礼を述べると、殿下の黒目がほんの少し笑ったように見えた。
「……そんなこんなで、創作の面では随分充実しているんだけどな」
昼食後に作業を覗きに来ていた殿下は、少し執務が忙しくなったからと顔を見せなくなった。代わりに、執務が休みの日は昼食後から夕食前までの時間を僕の部屋で過ごすようになった。僕があれこれ試しているのを見るのが興味深いらしく、ときおり「こういうのはどうだろうか」と提案することもあった。
おかげで新しい描き方も見えてきて、充実した創作の日々を送っている。アールエッティ王国にいたときよりも意欲的になっているかもしれない。当然、殿下との濃厚接触も続いているわけで、ベインブルに通わなくても発情するのではと思うほどだ。
「そう、とてもよい方向に進んでいるとは思うんだが……」
部屋の隅の小さな山を覆い隠している養生シートを、そっとめくる。中にはまだ真っ白なキャンバスやスケッチブック、木炭箱が積み上げられているが、一番上には完成した芍薬のキャンバスが置いてあった。ただし、真ん中には大きな切れ目が入っている。
「しかも、ご丁寧にバッテンときたものだ」
明らかに悪意があっての仕業だろう。この部屋には常に侍女がいるわけではない。鍵もついていない。だから後宮にいる人物なら誰でも出入りすることが可能だ。
「つまり、姫君の誰かがやったか、もしくは頼まれた侍女がやったか……いや、後者はないな」
二カ月近く後宮にいれば、侍女たちが誰かの肩を持つような教育を受けていないことはよくわかる。おそらく殿下が厳しく命じているのだろう。そうでもしなければ、いまごろ後宮には血の雨が降っていそうだ。
ということは姫君の誰かが、もしくはいずれかの集団がやったに違いない。無残に引き裂かれたキャンバスを指で撫でると、胸がズキンと痛んだ。
「なにも、罪のない絵を傷つけなくてもよいのにな……」
おそらく、急激に殿下との接触が増えてきた僕が本格的に目障りになったのだろう。男のΩに出し抜かれ、自尊心を傷つけられたということかもしれない。どちらにしても、後宮での争いで僕は完全に標的にされてしまっているということだ。
ふと、破れたキャンバスの端に視線がとまった。そこは芍薬の花びらと葉の間の部分で、薄い青と紫を混ぜた色がポンポンと載せるように塗られている。
「そういえば、初めて筆を使ったとおっしゃっていたか」
ほかとはまったく違う筆使いのその部分は、殿下が色を載せたところだった。
あまりに興味深そうに見ているから、「少し塗ってみますか?」と言って筆を差し出した。少し驚いたような顔をしていた殿下だったが、やはり興味はあったのだろう。僕から筆を受け取った殿下は、ここにポンポンと絵の具を載せたのだ。そうして「絵筆を握ったのは初めてだ」と感慨深げに話していた。
「……殿下の目に触れないようにしなければ」
僕自身は「絵がかわいそうだ」と思うだけだが、初めて筆を使った殿下は傷つくかもしれない。それが元で絵画への興味が遠のくのは悲しい。
「……初めてだったのにな」
少し盛り上がった絵の具の部分を指でなぞる。色を載せたあと、珍しく少し笑っていた表情は楽しそうに見えた。普段表情があまり表に出ない殿下だからか、印象深く覚えている。あの顔を思い出すと、やはり胸がズキンと小さく痛んだ。
「……ふぅ」
無意識に出た息がやけに熱い。そういえば、この絵を見始めたときから少し熱っぽかったような気もする。
「僕は、それほど怒っているということか……?」
いや、そんな気持ちは抱いていない。むしろ悲しみのほうが強いくらいだ。
「じゃあ、この熱っぽさはなんだろう」
そういえば、高熱で倒れたときにほんの少し似ている気がする。あのときは急に熱が出たのだが、回復する途中はこんなじわっとした感じだった。
「……今日は殿下も来ないし、少し早めに休むか」
養生シートを被せる指までも少し熱っぽい。まさか風邪でも引いたのだろうかと思いながらも、少しだけ薔薇の絵に向かった。しかし集中することはできず、「やっぱり今日は駄目だな」とため息をついて筆を置いた。
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