41/好きだからというコト
その日の昼休みは、久しぶりに馨がやって来た。
いつも通りの落ち着いた表情のまま机の間を抜けて、肇の前で立ち止まる。
「――ん、どうしたの。潮槻くん」
「…………、」
なにかを言い淀むような沈黙。
クラスの空気は少しだけざわついている。
彼が入ってきたからではなく、昼休み特有の騒がしさ故だ。
部活の優等生や有名どころの子供が集まる推薦組の三組や、
学力に自信を持って挑んだものの上側になれなかった二組とはまた違った、
ちなみに商業科の四組は教師陣の噂によると絶賛動物園らしい。
なぜなのか。
「……お昼」
「うん」
「…………一緒に、どうだい」
「いいよ」
かたん、と事も無げに肇が席を立つ。
普段なら空気など然程気にしない……というかあまり気付きもしない……彼だが、今回に限っては気付いた上で意図的にスルーした。
「…………いいの、かい……?」
「もちろん。最近ご無沙汰だったしね?」
「っ…………」
「――そういうワケで優希之さん。今日は潮槻くんと食べるからっ」
「ぇ、あ、う、うん……」
詰まりながらもコクコクと頷く渚。
それにひらひらと手を振りながら、馨の背中を押して教室を出る。
……クラスの全員は承知の上だし。
なんなら肇自身もまあまあそれもそのはずといったところだが。
誘いに来た男子よりずっと心情の強い表情を向けているのに、はたして気付いていないのは当人だけだった。
偏に慣れすぎてしまったからだろう。
「さ、行こっか。美術準備室だよね?」
「…………ああ」
短く応える馨に「よし」と笑って肇が歩き出す。
これまでの微妙な空気なんて一片もなかったような見事な態度。
気遣っているとも取れる対応は、ある種の人間にとっては非常にありがたい反面、ある種の人間にとっては苦い毒にもなる。
肇自身の性質だって同じようなものだ。
良くも悪くも嘘が少なすぎる彼は緩く親しみやすい。
けれどもその分、悪感情をそうであると認知した賢く聡い人間からすればあまりよろしくない。
不気味とか、眩しすぎるとか。
そういった否定的なものが先走ってしまう。
それは
「…………君は」
「うん?」
「……いや、なんでもない。落ち着いてから話そう」
「そうだね。それがいいよ」
くすくすと笑みをこぼす肇。
そこに裏の真意を読み取ろうなんて思考は無駄だろう。
繰り返すように彼は良くも悪くも正直である。
持ち前の天然さと頭の回転の悪さが致命的なエラーを吐くコトこそあれど、口に出す言葉は腹の探り合いなど微塵もない素直なものだ。
……素直すぎるのもどうか、と最近約一名の頭を悩ませていたりもするが。
それはそれ。
被害者は推定ひとりだけなので、残念だが一生涯解決するコトはない。
たぶん、きっと、おそらく。
「――へっくちっ!」
一方、そんなコトがあってかどうかくしゃみを洩らす渚だった。
「……おぉ、どうした優希之。風邪か?」
「…………別に。熱とかないし」
「水桶くんにふられたからってオレに八つ当たりすんなよ」
「ふられてないし!? むしろ――……、……むしろぉ……ッ」
「むしろなんだよ。告られたのか?」
「――――知らないッ!!」
「稀に見るブチギレ」
今度
軽音楽部に所属している彼は昼間も部室にいってギターを弄っているらしい。
最近の悩み……というか半ば口癖になっているのは「ボーカルがいねえ」という。
ちなみにその問題を解決する糸口を渚は知っているのだが言う気はなかった。
彼にとっては可哀想だが、残念なコトにもうそこまで首を突っ込めるような心持ちでもないのだと。
(……歌上手いのって、私の特技ではないしね……)
◇◆◇
「――――ごめん」
準備室の席につくなり、馨はそう言って頭を下げた。
「別にいいよ。気にしてないし」
「…………それもあるけど」
「?」
「……僕は君のコトを誤解していたから」
ああ、と弁当箱をあけながらどこか得心いったように応える肇。
それに馨はわずかばかり目を見開いて顔をあげる。
一方にとっては周知の事実だった、
もう一方にとってはまさかという新情報。
その元凶は律儀に「いただきます」と手を合わせて早速昼食へ箸をつけようとしていた。
「……まさか分かっていたのかい?」
「ううん。ただ、今まで描いたものから逆算するとなんとなく」
「……じゃあやっぱり、アレが水桶くんの本気っていうコトか……」
「まあ、本気といえば本気だね。間違いなく」
なんとも気持ちの良い絵が描けた、と豪語するあたり余程なのだろう。
肇がどういう作品を仕上げるか事前に理解していた馨でさえ、完成品を見た瞬間に心底から目を奪われてしまうほどだった。
ふたりの間にある彼我の力量差など関係なく。
その才能に対する妬み嫉みの類いも介在しない。
ただひたすらに見惚れるような、正真正銘の輝かしい鮮やかさ。
「……今まで君は、本格的に絵を描く立場になかっただろう」
「そうだね。部活もやってないし。家では基本勉強だし」
「だから美術部で活動するようになればもっと上達すると思ったんだ。……毎日描くようになれば自然と腕もあがるって」
「なるほどたしかに。継続は力なりって言うしね」
が、実際それではどうにもならないコトを知っていたりもする肇である。
ソースは
余命宣告を受けてから一日として欠かさず筆を握り続けていたが、結果はこのとおり。
雀の涙ほどにもならない微妙なモノで一度生涯を終えてしまったワケだ。
そこら辺は能力的に仕方ないのかな、と納得もしていたが。
「でも違った。君の言う通りなら、描きたくなって出来たのがアレなんだろう」
「うん」
「だったら……部活なんて、積み重ねなんて要らないハズだ。……分かるんだ、昔から、色々な
「……そっか」
すなわちそれは、隠されていた彼の真実を解き明かした奇跡かどうか。
「――君の技術はもう完成されてる。あまりにも伸び代がなさすぎる。あのやり方は……、……あの動きは、長年の経験に裏打ちされたものじゃないか」
「……凄いんだね、潮槻くん。そこまで分かるなんて」
「君に言われたところで慰めにもならない……」
暗に、凄いのはそっちのほうだと。
嫌味じみたこぼし方で馨は吐き捨てた。
でもやっぱり、それにとんでもないと思う肇である。
なにしろ彼の言に間違いはひとつもない。
完成されて伸び代がないコトも、長年の経験があるコトも残らず真実。
彼の絵に関する技量は前世の終わりで――ともすれば筆を握った瞬間から――後付けのしようがないぐらいに出来上がっている。
代わりと言ってはなんだが、身体は弱かったし、長くは生きられなかったし。
幼いときの家庭環境なんてそれはもう酷いものだったけれど。
「……そこまで重く捉えなくても。俺がただそういう感じなだけで、普通に考えたら部活に入って時間つくったほうが良いものはできるだろうし」
「でも君を無理やり入部させようとしたのは事実だ。そこは――」
「いいんだってば。結局部活自体には入ってるワケだし。だいたい俺自身がそこまで気にしてるのでもないんだから、それで」
「…………っ」
そう、半幽霊部員という特例措置こそあるが、肇はちゃんと美術部に所属している。
同系統の絵描きである彩による計らいだ。
部長権限で「描きたいときだけ来てヨシ! 解散!」されたのは記憶に新しい。
もっと言うなら「来たわね! ヨシ! 開始!」となったのが昨日の事件だった。
テレパシーかなんかでもしているような意思疎通だが、彼ら彼女らはわりと本気で相手の心情を汲み取って会話しているだけなので超能力とかではない模様。
「…………まったく敵わないな、君には」
「そんなコトないと思うけど」
「お世辞はよしてくれ。……僕は所詮、君たちみたいな
「…………、」
かちゃん、と肇が一旦箸を置く。
言いたいコトは多分にあった。
馨の言葉で納得いかない点だってある。
けれどなにより思ったのは、肩を落とした彼に対するコト。
自分たちとは違うというけれど、
それなら――――
「……前にも言ったけど、俺は潮槻くんの筆じゃないんだ」
「…………わかってる」
「それなら落ち込む必要なんてないんじゃない?」
「落ち込むよ。……落ち込むんだ、普通は」
「いやでも…………」
うーん、と腕組みして考え込む。
目に見えて点数のある学力ならともかく、芸術の比較というのは得てして難しい。
正解はあってもそれはあくまで一例。
数ある答えのひとつではあるけれど、突き詰めれば基準も同然だ。
式を求めれば必ず決まった答えの出る数学なんかとはまた違う。
正しいコトは正しいけれど、正しいものが良いものとは限らない。
ちょっとした横道からより優れたものが出てくる場合だってあるだろう。
だからこそ面白いのだが、誰にとってもそれが喜べる
「……なんて言ったら良いか分からないけど。俺に潮槻くんの絵は描けないんだ」
「そりゃあ、そうでしょ……」
「だからそれで良いと思うんだよ。俺は俺で、潮槻くんは潮槻くんだ」
「けれど僕は君みたいになりたかった。……君みたいな才能が、欲しかったんだ」
「……俺の才能なんてたかが知れてると思うけど」
「そんなコトはないって何度も言ってる。……いい加減、学習しなよ」
語気が強くなっているのも馨の心情を思えば仕方のないコトだ。
性格も毒なら素質だって同じく。
なんなら肇の存在そのものが彼にとっては毒だった。
いくら努力を重ねたって届かない。
その秘訣を知ったところで理解できない。
埒天外の才能は文字通り歩くステージからして異なっている。
だというのに、相互理解など不可能。
「……潮槻くんはどうして絵を描こうと思ったの?」
「別に。大した理由じゃない。……色々と見ているうちに、憧れたから」
「そっか。俺は……昔、姉さんに褒められたのが切欠だったかなあ」
「……君、
「いるよ。妹がひとり」
「? でもいま、姉って――」
「もういないんだ。姉さんは、ね」
「…………それは、ごめん」
「ううん。なんでもないから」
――そう、姉はもう、居ない。
この世に生きているのは短命で病弱だった
至って普通の身体でこの歳まで生きてきた
だからもういない。
それが事実。
なにがどう覆ってもそれこそが真実。
その意味を彼はきっちりキッカリ理解している。
悪い方向での捉え方じゃない。
なにせ彼にとっては一度、満ち足りて終わったもの。
それをどうして今更ながら、未練がましく想うことがあろうかと。
「俺の絵を見て、上手いって言ってくれたんだ。そのときの顔はいまでも思い出せる。きらきらしてて、輝いてて、眩しいぐらい綺麗な笑顔だった。すごい素敵な、明るい表情」
〝えっ、これ彩斗が描いたの!? 凄い凄い! 上手だね! 将来は画家さんかなー!〟
きっと彼女は知らないだろう。
そんな何気ない一言が少年の蝋燭に火を灯したのだと。
それだけでわずか十九年の歳月をこれ以上ないほどに押し上げたのだと。
……だから。
いつだってどこだって、その部分だけは変わらない。
故に、彼は〝きっちりキッカリ〟理解している。
「だからなんだろうね。俺も……たぶん部長も。気まぐれで面倒くさいんだ」
本人が訊いていたら「
「けど潮槻くんは違うよね。たぶん、頑張った分だけ身に付く人だ」
「……そこまで知らないだろう、水桶くんは。僕のことを」
「でも、分かるよ。これでも画家の端くれだからね、絵を見れば十分」
「………………、」
これまでの経歴を考えると本当に端くれな肇である。
なにより突出した才能は溢れんばかりの天性の素質だ。
描くほうはもちろん、視るほうでも他者とは一線を画すセンスがあった。
……じゃあなぜ己の画力に自信を持てないかといえば、それはまあ事実として一枚も売れなかったのが意外と響いていて。
お陰で魅力がないのだと完全に信じ切っているあたり重症でしかない。
「俺は正直ちょっと羨ましいよ、潮槻くん」
「……なんで」
「だって描いた分だけ上手くなるんだよ。それって――」
そうして肇はなんでもない、
ありふれた疑問をぶつけるみたいに。
「――凄い楽しそうなものだけど」
決して彼が
「……そもそも、潮槻くんが美術部入ってる時点で俺はアレだと思ったんだけど」
「アレって……なにが」
「俺の絵をどうこうしたいならわざわざ部活しなくても良いのにってコト。いや、言葉にするとなんだけどね。結局潮槻くんは描くの、好きじゃないの?」
「それは――――――」
――輝かしい
眩しい一欠片に
素敵な
だからそんな風に魅力的な何かを。
価値のある、決して埋もれない何かをつくりだせるようになりたかった。
絵の道を選んだのはそこそこ才能があったからだ。
毎日練習を欠かさない程度には意欲が湧いたからだ。
「――――――……、」
でも、ああ。
その願望がすべてのもとになっているのなら。
それならどうして。
己の実力に天井が見えてきて。
届かないと分かってしまって。
そんな現実に押し潰されてなお、筆を折ろうとしなかったのだろう――?
「潮槻くんは理由みたいに話すけど、それは目標なんじゃない? 理由はもっとシンプルだと思う。じゃなきゃ誰かの絵を見た時点で描く気なんて失せちゃうよ」
それこそ部長の絵を見た瞬間にでも心は折れたハズだ。
彼に理解できない
馨ほどの審美眼を持った人間がその事実を気付けないとは思えない。
「好きなんでしょ。絵、描くの。それが全部じゃない?」
「――――――」
笑いながら肇は言った。
馨は真正面から相対して顔をあげている。
「きっと一番上等な燃料だよ。好きこそものの、って言うしね」
「…………そこまで言ったなら、最後まで言いなよ……」
「ふふっ、そうだね。上手なれ、だ」
「…………ああ、そうだよ」
それはそうだ、と。
少年が薄く笑みを浮かべる。
どうにも肝心なコトを見落としていたらしい。
考えれば簡単に分かりそうなものだというのに。
それほどまで拗れていたのは……どう考えても、その問題を解決してくれた目の前の人物のせいだ。
マッチポンプにも程がある。
「……そうか、そうだった」
心が途切れなかった理由なんて、ひとつしかない。
「――――僕は、絵を描くのが好きだ」
そういって笑った表情に、彼の中で重なる影がちらりと覗く。
記憶の片隅に押しやっていた思い出の残滓。
すでに崩れてボロボロな型はきっとこの通りだ。
笑わない芸術少年。
その笑顔を見たのはさて、どんなタイミングだったか――
◇◆◇
――そんなワケで食事を再開しながら、肇はぽつりと話題を振った。
「実際、やる気って本当大事だと思う」
「? ……そういう君は好きじゃないの、描くの」
「嫌いじゃないよ。でも一番じゃないかな。俺の一番の燃料は――」
……分かりきっているコトだけど。
本当、思い返してみればいつだって変わらぬただひとつ。
いくら性能の良いパソコンがあっても電源がなければ使い物にならないみたいに。
彼にとって彼女は、もはやなくてはならないすべての根源なのだ。
――まあ、それだけが理由というワケでもないけれど。
「だからこそ完全スルーはちょっと、うん。ガクッときたけども」
「……?」
「あ、や。なんでもない。……うん、俺の一番の燃料は、そうだね……」
くすりと、彼は笑って――
「――きっと、
主に、そういう意味で。
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