26/帰ってきたお姫さま





 冬期休暇中も開かれている塾だが、いくらなんでも大晦日の少し手前から三箇日まではお休みだ。


 塾が休みであれば当然自習室だって使えない。

 その間は大人しく家で勉強するコトになる。


 ――ので、本日年内最終日。


 十二月三十一日。


 肇は実に穏やかな気持ちで朝を迎えた。


(今日ぐらいは……二度寝も、いいかな……)


 らしくもなく気が緩む。


 集中力に自信があるとはいえ彼も人間だ。

 文句も言わずに決まった作業を熟せるロボットとは違う。


 そとで自習、うちでは宿題。


 それ以外はほぼ食事と睡眠というハードスケジュールも、二日前に塾が閉まり、昨晩学校からの課題を全部終わらせたことで一旦終了。


 ようやくゆっくり出来る余裕を持てたところで、彼はもぞもぞと布団にこもる。


「――――――」


 冬真っ只中の寒い朝である。

 暖房をつけているとはいえ布団の温もりは変わらず恋しい。


 薄ぼんやりと目を開けて携帯の画面を確認すれば時刻は七時半を過ぎたところ。


 休み中とはいえ普段の彼ならもう起きている。

 平日ならそれこそもっと早い時間帯からだ。


 ……が、人間生きていれば気を抜きたくなるときがあるというもの。


 たまには休日らしく惰眠を貪ろう、なんて悪魔の囁きに耳を傾けたときだった。



「――――んぅ」


「…………、」


 もぞもぞ、ごそごそと。

 なにやら、布団の中で彼の意思とは関係なく、ひとりでに動く熱源を感じる。


「――――ふみゅ……」

「………………、」


 大きさは大体百六十センチ前後。

 彼より少し小さい、おおよそ人間大サイズのものだ。


 その温もりはどこか人肌の温度に似ている。

 というかそれ以外考えられないほどに似通っている。


 言わずもがな、いま一度瞼を持ち上げて布団を捲れば予想通りの人影が目に入った。


「了華……」

「――――にゅぅ……」


 すぅすぅと寝息をたてながら脇――肇の隣、ちょうど布団全部被るような状態――でわずかに丸まっているのは誰でもない。


 彼の実妹だ。

 恒例の如く長期休暇で実家に帰省している妹殿だ。


 それがなにをどう寝ぼけていたのか兄の布団に潜り込んできたらしい。


「……おーい、了華ー?」

「――――ふにゃ……」


 人間懐炉カイロ湯湯婆ゆたんぽか、彼の傍で眠る了華の表情は穏やかだ。


 起きているときはいつも保たれているキリッとした顔がそれはもう溶けている。

 ふにゃふにゃのほにゃほにゃである。


 見ている肇までつられて微笑んでしまうぐらいの安眠っぷり。


 思わずちょうど良い位置に頭が来ていたのもあって優しく撫でてしまう。


(了華、髪さらっさらだよねー……ふふ、女子校じゃなかったらモテモテだろうなあ)


「――――すぅ……」


 一体誰に似たのか、それとも顕性遺伝子だけを引き継いで来たのか。

 はたまた兄バカと言っても過言ではない彼の色眼鏡補正が強すぎるからか。


 一部の才覚を除いて平凡平均平静な肇と違い、了華は紛うことなき美少女だ。


 流石に主人公ヒロインでトップクラスの渚には敵わないがそれでも十二分。

 きっと異性が普通に混じる環境であれば引く手数多だろう。


 はじめとしてそれほど可愛らしいりょうかは当然誇らしい。


「……了華? 起きて? 朝だよ。あと、ここ俺のベッドだよ」

「――――んぅ……、」

「了華ー? 了華ちゃん。了華さま。了華お嬢様。了華ヒメ? 起きてー」

「んんぅ……、……っ」


 ゆっさゆっさと身体を揺らしてみるが、どうにもまだ彼女は幸せな夢の中。


 すぅすぅと心地良い寝息のままにきゅっとシーツなんか掴んでいる。


 毒林檎を食べさせられた白雪姫とか、はたまた魔女の呪いにかけられた眠り姫とか。

 お姫さまはシナリオ上簡単に目覚めてはくれないらしい。


「……了華ー? 起きないとキスしちゃうぞー、なんて」

「――――ふぇぅ……?」

「あ、起きた」

「…………――――すぅ」

「こらこら、もう」


 即座に二度寝の態勢に入った妹を枕のほうまで引き摺り上げる。


 むにゃむにゃふわふわと微笑む妹は実に愛くるしい。

 それはもう最高に可愛い。

 これ以上なく可愛い。


 最早可愛いで家が建って住宅街に発展して町が出来上がるレベルだ。


 そんな了華の頭をよしよしと際限なく肇が撫でる。


 そういうコトをしているので妹が兄離れしようと決意するほどなのだが、もちろん彼はそんな事情に気付いてもいなければ知りもしなかった。


「了華ちゃん起きてー」

「――――むにゃ……ふぇ……」

「お目々開けてー? 了華ー」

「――――にゅぅ……」

「……まったくもー……了華っ、ほら起きてっ」


 耳元で気持ち大きめの声を出すと、ようやく彼女の身体がピクリと跳ねた。


「――っ、……んぅ? ……にぃさぁん……?」

「おはよう、了華」

「………………えへへ、にぃさんだぁ……」

「はいはい、お兄ちゃんだよー」

「……にぃさぁん……ふぇへへ……」


 目は開けたもののまだ寝ぼけているのか、普段からは想像できない間延びした声で了華がぎゅっと抱きついてくる。


 可愛いキュート

 究極アルティメット可愛いキュート

 超絶怒濤スーパーウルトラハイパー可愛いキュート


 こんなのはもう町どころではない。


 国だ。


 国が出来ている。


 妹の可愛さだけで国家が出来つつある。

 新生カワイイ帝国リョウカ王朝の幕開けだ。


 国家元首はもちろん可愛いの化身、天使の権化、地上に舞い降りた女神こと了華いもうとしかいない。


(流石自慢の妹、了華は凄いね。むしろ凄いが了華のためにあるね。うん)


「にぃさぁん……えへ、えへへ……っ」

「あはは。もうしっかり。中学二年生なんだから」


 言いながら、肇は一切の迷いも躊躇もなにもなく。

 さも慣れ親しんだかのように。


 前髪をさらっとかき分けて、了華の額にちゅっと口付けた。


 ――いやまあ仕方ないコトがあるにはあるのだが。


 兄も兄で結構妹に対するモノが色々とぶっ飛んでいる。

 それもこれも前世で百万飛んで一千万の愛してるを送り続けた誰かさんおねえちゃんのせいだ。


「――ふぃひっ……にぃさんだいしゅきー……」

「うんうん、俺も了華のこと大好きだよー。よしよし」

「えへへ、えへへへへ……っ」

「でもそろそろ起きようね、お姫さまなら目覚めてー」

「えへ――……、………………、……兄さん?」

「うん」


 直後、彼女の取った行動は早かった。


 布団をはね除けて瞬時にベッドを脱出。

 その勢いで乱れた寝間着パジャマをパッパッと直して、ついでに大事な部分に問題がないか確認。


 残念なコトに異常なし、オールクリア。


 ぴしっと綺麗な気を付けの姿勢でその場に立って、こつんと踵を合わせる。


「おはようございます兄さん。ところでなぜ兄さんが私のベッドに?」

「俺のベッドだしここは俺の部屋だよ、了華」

「――本当ですね。……たしか夜中、トイレに行ったのでそのとき……」

「寝ぼけてて間違えちゃった?」

「はい……」

「まあそうだと思ったんだけど。とりあえずおはよう」


 肇もベッドから出て立ち上がると、了華は応えるようにこくんと頷いた。


 一見して平常心そのものだが実際は違う。

 必死に冷静そうな態度を装っているだけで視線は右へ左へ泳ぎまくっている。


 たぶん部屋間違えたのが恥ずかしいんだろうなー、なんてぼんやり考える兄はやはり天然ポンコツでしかない。


「ご迷惑をおかけしました兄さん。では私は一先ず自分の部屋に戻りますので」

「うん。着替えたらまた降りておいで。今日は俺もずっと家だから」

「はい、分かりました。――失礼します」


 しゅばっ、と秒で扉の前まで移動した妹はご丁寧に一礼。

 そのまま廊下に出てまた一礼していた。


 ぱたん、と自室のドアが閉められる。


(……もう眠気飛んじゃったし、俺も起きよ……)


 くあ、と欠伸をこぼしつつ肇は箪笥から服を引っ張り出した。


 暢気な彼は先ほどの一連のやり取りもなんのその。

 気にした様子もなくさっさと寝間着から部屋着に着替えていく。




 そう――まさか隣の部屋で久々の兄成分アニニウム過剰摂取オーバードウズにより副作用で妹が死にかけているなどとは思いもせず。



『あぁああッ!! あぁあぁあぁ!! あぁあぁああぁあ――――ッ!!!!!!!』



 声にならない悲鳴を枕に顔をうずめて必死に押し殺す了華。

 肝心の兄はそんな彼女の努力をこれっぽっちだって知る由もなかった。


 まあ、なにはともあれ。


 一年の締めくくり。

 天気は小雪。


 今日も水桶邸は実に平和である。



『あぁああぁああ!!!! ああぁあッ!! あッ! あぁああああ――――!!!! ――あっ♡』



 ……約一名の心境を除いて。





 ◇◆◇




 リビングに降りるとすでに朝食は用意されていた。

 母お手製のベーコンエッグとトーストだ。


 いつもは共働きで忙しい両親も年末は流石に休業。


 母親はこのとおり家事を、父親は外で雪かきなんかしているらしい。


 北の国ではないのでそこまで深く積もりはしないが、銀世界が出来上がるほどにはここ最近降雪続き。

 あとでちょっと手伝いに行こう、なんて思いながら肇は食卓につく。


「おはよー肇。あ、ご飯食べ終わったらシンクに置いといて」

「おはよう母さん。洗い物ぐらいならするけど?」

「いいのいいの。了華もまだだし、まとめて後でやっちゃうから」


 受験生は大人しく自分に時間使いなさい、なんて窓を拭きながら言われる。


 こう見えて掃除洗濯炊事のできる家庭的な男子こと肇だ。

 妹が進学して寮に入るまではふたり分の料理だってつくっていた。


 故に多少の洗い物なんてお手の物――なのだが、こうもキッパリ断られては無理に手を出しづらい。


 母親は母親で彼に任せているのに思うところがあるのだろう。

 日頃の疲れも感じさせない勢いで動く姿はとても三十台とは思えなかった。


「――お待たせしました兄さん。母さんも、おはようございます」

「はいはい、おはよー了華。あんたもちゃっちゃと食べて片付けなさい」

「…………、」


 しばらくして二階から下りてきた了華が肇の隣に腰掛けた。


 もちろん格好はちゃんと普段着に着替えられている。

 軽く整えてきたのか、髪の毛も寝癖やら跳ねやらがない。


「……? どうしましたか、兄さん」

「いや……、」


 そしてなんか、妙に、お肌が艶々ツヤツヤしているような気がするのだが――


「――なんでもないや、うん」

「ふふっ、そうですか」


 なんとなく聞かない方が良いような気がして誤魔化す。


 本能からの注意勧告、純朴なりの危機察知能力が働いた結果だ。

 その答えにまでは辿り着けなくても訊くのは不味いと判断したらしい。


 率直にいって彼自身の長年の勘である。


 当たるも八卦、当たらぬも八卦。


 いずれにしても気にするコトはないだろう、と。


「――そういえば兄さんは初詣いくんですか?」

「まあ、いちおう? 合格祈願のお守りとか買っておきたいし」

「そうですか。残念です、私、学校の友達に誘われてて」

「? 良かったじゃない。みんなで初詣、楽しそうで」

「兄さんと行けませんのでっ」

「ああ、そういう。そっかそっか」


 すぐ横でハムスターみたいにトーストを囓る了華の頭を撫で回す。


 どうあれ血の繋がりというのはやっぱり大きなもの。

 ひとつ下に生まれてきてくれた妹はそりゃもうカワイイ・オブ・ザ・カワイイ。


 どこぞの姉によって姉弟とはかくあるべし、と身体に教え込まれたのもあって肇の甘さは留まるところを知らなかった。


 水桶了華、全人類の四大欲求である食欲とを同時に満たす。


「俺も誰か誘ってみようかな、知り合い」

「良いじゃないでしょうか。……あぁ、夏休みのときに言っていた塾の方は――」

「ん、優希之さん良いね。あとで連絡しとこう」

「――やめてくださいねと言おうとしたのにぃ……っ」

「えー、なんでー」


 ぎりぃっ、と歯を食いしばる危機感を忘れなかった妹君。

 そんな了華を前に肇は困り顔をしながらくすくすと笑っている。


 悪意なしにまるっきり微笑ましいものを見る目だった。


「優希之さん良い人だよ。頭良いし、勉強教えてくれるし、綺麗だし可愛いし」

「後ろふたつの情報は要りません!」

「なになに、優希之ちゃんの話? たしかにあの子すっごい美人さんだったわねー」

「っ、だ、だいたいそれなら私と比べてどっちのほうが上ですか!?」


 がたん、と椅子から立ち上がりかけた了華をどうどうと押さえる。


 張り合う必要があるのかどうか肇には甚だ疑問だが、聞かれただけに律儀にうーん……なんて考え込む。


 ……数秒して、ぽつりと。


「………………若干……」

「はいっ」


「優希之さんかな」


「兄さんっ!?」


 がーん、とショックを受けるのは現在進行形で兄離れ挑戦者である。


 言うほど離れられていないのではというツッコミは禁句だ。

 目に見える成果がないだけで、実際精神面では効果が出ている……はず……たぶん……おそらく……きっと。


 了華的にあると信じたい。


「いや、客観的に見て。だってあの子凄いよ、存在からして」

「そんな感想は求めていません! 嘘でも私と言ってください兄さん!」

「ごめんごめん」

「兄さんのばかぁー!」


 ぽてぽてと肇の胸を叩きつつ、嘘泣きしつつ、同情を誘おうとする策士了華。



 しかしそれでどうにかなる兄ならそもそも苦労しない。


 妹のいじらしい抵抗によしよしと宥めながら朝食のホットココアに口を付ける。


 少し冷めてはいるがちゃんと美味しい。

 冬場はやっぱり暖かいものだ。


「まあ優希之さんが駄目って言ったら駄目なワケだし、そうと決まったのでもないからね? あくまで誰を誘うかっていう選択肢のひとつだよ」

「そ、そうですね! 年末年始ですし、あちらにも色々と事情がおありなのでしょう。他をあたりましょうね兄さん」

「おかしい。まだ聞いてもいないのに答えが決まってる話の流れだ……」

「年頃の女子でしたらその方も友達と行くのでは?」

「たしかに、それもそうだね」


(計画通り)


 肇に隠れて了華がニヤリと笑う。


 これでさりげなく兄と塾仲間とかいう優希之某の接触を潰すことができた。

 第一候補をなくした彼はその他のクラスメートか誰かを誘うだろう。


 了華は勝利を確信してトーストに齧り付く。


 任務完了ミッションコンプリート


 一仕事終えたあとの食事は最高にたまらない。


「でも聞くだけタダだし聞いてみるよ、いちおう」

「なんでッ!!」

「こらー、了華ー。テーブル殴るなー」


 訂正、作戦失敗ミッションフェイルド

 食卓に叩きつけられた拳がわなわざと震えている。


「兄さんはその優希之さんという方がそんなに良いんですか!?」

「わりと結構好きだよ?」

「どうしてッ!!」

「了華ー、次やったらアンタにも拳骨落とすからねー」


 その後、宣言通り渚へ連絡しようとする肇の背後には「断れー、断れー……」と念みたいなものを送る少女の姿があったとかなかったとか。





 ◇◆◇





 ――ふと、携帯の震える音で渚は目を覚ました。


「…………、」


 もぞもぞと布団に包まったまま、無心で手を伸ばす。

 所構わずぺちんぺちんと叩かれる様相はモグラ叩きみたいだ。


 尤も彼女が叩きたいのはモグラでもなければ、叩くのでもなくそれはモノを探す行動なのだが。


「ん」


 べしっ、と会心の手応えを覚えてぐっと掴む。


 そのまま携帯は彼女の生息範囲テリトリーへ。

 するすると腕と共に布団の中へ仕舞われていった。


 さながら姿なき狩人。

 ファンタジーの世界に居そうな、捉えた獲物を己の城に引き摺り込むタイプのボスだ。


(……こんな時間に、だれ……?)


 寝起きの不機嫌さも隠さず画面を点ける。


 こんな時間というが現在すでに十時半過ぎ。

 朝に強い善良な人たちなら起きている時間帯だ。


 夜更かし三昧の学生諸君や日頃の疲れを癒すのに必死な社会人諸君には些か少ないかもしれない。


 が、それはともかく。


(メッセージ……だれ……、……水桶……、)


 なんだ水桶くんか、と画面を切って枕元にぽんと置き直す。

 そのまま顔をうずめるようにして再度目を閉じていく。


 なんだか寝ぼけている気がするけれどとりあえずいまは睡眠。


 一に睡眠、二に睡眠、三四も睡眠で、五も睡眠だ。

 とにかく寝たい、力が出ない、やる気も曖昧な渚である。


 理由なんて考えたくはないけれど。


 おそらくこの二、三日の間。

 塾が閉まって、毎日のように顔を合わせていた彼とめっきり会う機会がなくなったのが――――






(………………待って水桶くんッ!?)



 がばぁっ、と布団を飛ばして跳ね起きる渚。


 ぽやぽやしていた頭はゆっくり情報を整理したところで一気に覚醒。

 そして同時に理性は感情の荒波、濁流に呑まれて流されていった。


 残念ながら救助レスキューは難しい。


(でっ、だ、なんっ、え!? 水桶くん、からっ、メッセージ……!?)


 カタカタと震える手で携帯を掴み直す。

 いま一度画面を点灯してみれば通知の文言は変わりない。


 メッセージ、一件、水桶肇。


 ためしに寝ぼけ眼をごしごしと擦ってみた。

 まだ変わらない。


 もしやこれは夢だろうか。

 いまだ夢の中にいるのか。


 ぎゅっと頬を抓ってみる、ちゃんと痛い。


(な、あぅ、ぇ、え!? ほ、ほんとになんで……!? なにか用事……!?)


 胸を高鳴らせながら祈るようにそっとロックを解除する。

 アプリのトーク欄を開いてみれば短い文面で一言。


 〝いま電話して大丈夫?〟


「――――――」


 渚の脳は機能停止に陥った。


 電話、デンワ、でんワ、電わ、でんわ。


 ――? と内心で思いっきり首をかしげる。


 はて、なんだろう。

 彼の言いたいところがちょっとよく意味が分からない。


 電話というのは一体どういう意味なのか、もしかして通話というコトなのか、それならそれでなぜ通話をするのか――渚にはまったく理解できない。


 この乙女ゲー主人公ヒロイン、思考能力が低下している。


(――――どっ、どど、どどどどどどど……っ!?)


 挙げ句の果てに頭の中で吃りに吃ってとんでもないコトになっていた。


 工事現場の掘削ドリルみたいな混乱に襲われながら渚は画面と睨めっこ。

 目の前の状況を冷静に判断するため、まずはひとつずつ区切って確認してみる。


 ――いま/電話して/大丈夫?


(大丈夫じゃない大問題だよ)


 寝起きである。

 目が覚めたばかりである。


 髪の毛はボサボサだし寝間着パジャマのままだ。


 問題しかないが――それは目に見える彼女の状態であって話すのに支障はない。


 渚は目を伏せて、んんっ、と軽く喉を鳴らしてみた。


(――どうしよう起きたばっかりで喉が潤ってない……っ)


 気にしすぎだった。


 けれどもまあ仕方ない。

 彼女の気持ちを考えるなら当然のコト。


 これでもちゃっかりきっかり、本人には言えないが恋する乙女なワケで。


(……だ、大丈夫です……っと)


 なんか敬語になったけれど構わない、これで送信、とボタンを押す。


(――――はやッ!?)


 直後、秒で鳴った携帯に渚の肩はびっくぅーん! と跳ねた。

 あまりの驚きに宙へ放りだしてしまったスマホでお手玉なんかする始末。


 それをなんとか掴み取って、着信画面を穴が開くほど見詰めて三秒。


 意を決したように瞼をぎゅっと閉じながら、彼女は通話ボタンを恐る恐る押し込んだ。



「――――も、もしもし……っ」

『あ、優希之さんおはよー。元気?』

「う、うん……元気、だけど……」

『そっかー』

「……その、み、水桶くんは……?」

『俺も元気だよ。冬休みの課題も殆ど終わったし』

「お、おー……はやい、ね……」


 詰まりながらも笑みを浮かべる渚。

 彼への対応が一段階下がっている気がするが、なにしろ不意打ちなので致し方なし。


 今日は機会があると最初から分かっている場合と、今日は話す事もないだろうと気を抜いている場合とでは彼女の心持ちにも天と地ほどの差がある。


 現在は紛れもなく後者だ。

 唐突にかかってきた電話チャンスに完璧な対応ができるほど渚は強くない。


「っ……そ、それで……あの、」

『? うん』

「い、いきなり電話、とか……どう、したの……?」

『あぁ、なんか、優希之さんの声聞きたくなって』

「っ!?」


 〝――――兵器だ。ここに生物兵器がある……ッ〟


 ガタガタと震えだした両足を渚は懸命に力を込めて落ち着かせる。


 どうでもいい理由ならまだしもその言い方は反則だ。

 声が聞きたい――だなんて、それこそ恋人とかじゃないと普通はしないやり取りと言っても過言ではない。


 つまり実質渚と肇は恋人である。


 Q.E.D. 証明終――――じゃなくて。


 そうじゃなくて、つまり、その、なんというか。


「わ、私……の、声……!?」

『うん。ほら、メッセージだけだと素っ気ないかなーって』

「そ、そっか……っ」

『ていうことで本題に入るんだけど』

「? ぇ、あ、うん……?」


 なんだろう、と渚は困惑したまま首をかしげる。


 声が聞きたいのが本題ではなかったのか。

 だとするとそれはちょっと残念だが……とにかく、ならば用件は何なのかと。


『今日大晦日でしょ』

「う、うん」

『年が明けたら初詣行こうと思ってるんだけどさ』

「うん、うん」

『ふたりで一緒にいかない?』


「――――ふぇぁっ!?」


 今度こそ渚の思考回路は爆散した。


 これより頭を支配していた理性は無事消滅。

 以降は恋愛脳がトップをつとめるらしい。


 そんな悪ふざけは無しにしても久しぶりの彼との時間。

 少し離れていたあとの再開だ。


 もうその時点で彼女は強く直感した。


 ――どうしよう。


 そんなの、絶対にマトモじゃいられない……!



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