10/変わってきたもの
カリカリとペンを走らせる音が響く。
通い慣れた町外れの塾。
いつも通りの場所と、いつもよりずっと早い時間帯。
夏休みに入っても自習室は利用可能だった。
朝から夜まで、普段と変わらない範囲で開かれている。
それもそのはず。
学校は休みでも塾はそうではない。
巷では夏の体験学習に夏期講習、その他通常のスケジュールとフル稼働状態。
ここいらが稼ぎ時とでも言わんばかりに駅前には有名進学塾のポスターがでかでかと張り出されていた。
……なのだが、依然として肇たちの通う
やっぱり立地の問題なのだろうか、なんて思う一塾生である。
まあ単純に知名度がないだけ、というのもあるだろうが。
「…………、」
「……どうしたの? ぼうっとして」
「――ううん、なんでも?」
「? ……そう……?」
こちらを気にかけてきた渚に笑みを返しながら、いま一度手元の問題集に向き合う。
中学校生活最後の夏休みはこの通り勉強三昧となった。
ちょっと上の志望校を目指す受験生の運命みたいなものである。
家では宿題、塾で勉強。
それ以外はまあ適度に運動したり息抜きをしたり。
満喫しているとか謳歌している……と言われると少し違うが、概ね満足のいく毎日を送っているとは言えた。
「…………、」
「…………、」
無心で問題を解いていく。
ペンの動きは今のところ淀みない。
思考にも集中にも問題はなし。
案の定というか、部屋よりも自習室のほうが意欲は増した。
たぶん、不思議とこの環境が合っているのだろう。
「…………――」
「………………、」
静かな自習室には小さな音だって大きな要因だ。
ふたり分の気配と、ふたり分の勉強のオト。
春から続いてきた渚と肇の関係はそれなりのまま続いている。
彼としては特にコレといった進展もないが、かといって大きな後退もなく。
彼女としてはとんでもないものに苛まれつつも、状況を動かせるワケもなく。
距離感はまだまだ勉強友達。
こうして並んで座っていても、会話の機会は意外と少ない。
(――あぁ、そういえば)
ふと、なんでもないかのように肇は自覚した。
なだらかな変化だからあまり気付かなかったけれど、進歩はたしかにあった。
こうやってふたりで自習室を使っているとき。
初めの頃はよく質問なんかをぶつけ合っていたが、今となってはそれも少ない。
別に関係がこじれたとか変な空気になるからとかそういうのではなく、お互いの学力が順調に上がっている証拠だ。
彼が苦手だった数学理科も今となっては大抵の問題を自力で解けるようになっている。
(……うん。期末も学年三位まで上がってたし……もしかしたら、もしかするかも)
なんとなくで選んだ進学先ではあるが、ここまでやったのだし折角だから受かりたいな、と思う肇である。
間違いなく受かっておいて損はないところではあるだろうし。
ちょっとだけ、乙女ゲー
前世でプレイした――殆どシナリオもイベントも曖昧な――ゲームを現実で直に見るという経験はそれこそ中々できるものじゃない。
だからといってなにかするつもりはないけれど、同学年の人間として普通に過ごすぐらいは何ら問題ないだろうと。
「……あのさ、水桶くん」
「? どうしたの」
「……夏休みの宿題とかって、終わってる……?」
「うん。最初の二週間で殆ど片付けたよ。自由研究もお盆までには終わるかな」
「早いね……」
「ありがとう」
きらきら笑顔で返す少年は渚が若干引いているのに気付いていなかった。
夏休みの宿題を二週間。
できないコトはもちろんない。
やってやれないコトはおそらくない。
世の中には初っ端一日で継続系以外の課題をすべて終わらせる猛者だっている。
逆に最終日まで残して泣きながら徹夜で強引に片付ける修羅だっているのだ。
そう考えると二週間で夏期休暇の課題を捌くのは不可能ではない。
不可能ではないのだが……渚はその初めの二週間、彼が自分と一緒に塾の自習室で普通の教材を使った勉強をしていたと知っている。
「……水桶くんってさ」
「うん」
「もしかして、勉強大好き……?」
「え、嫌いだけど」
「き、嫌いなんだ……」
「? うん」
なんで? と真顔で訊ねてくる男子の顔がちょっと怖い。
渚はそのとき初めて彼のえげつなさを見たような気がした。
然もありなん。
彼女がその正体まで知る由もないが、生まれ変わる前は死ぬまでの二年間に命を燃やすよう金にも名誉にもなんにもならない絵を描き続けた集中力モンスターである。
もちろんそれそのものな行為に比べれば格段にレベルは下がるが、この類いの作業における肇の忍耐はちょっとおかしい。
「……疲れないの? その、無理してるんじゃない……?」
「疲れるけど、平気だよ。ちゃんと寝てるし。体力もあるし。怪我も病気もないし」
「……ストレスとか……大丈夫……?」
「まあまあ、それなりに。気分転換とかしてるし」
「そう、なんだ。……なにしてるの?」
「英単語のリスニングしながら掃除機かけたり」
(勉強の息抜きに勉強してる……)
はたしてそれで良いのか受験生……、と心配になる渚だったが、むしろ彼の行動は受験生として申し分ないものなのでは、と気付いて頭を抱えそうになった。
勉強の合間に英単語を覚える。
牛丼を食べたあとにデザートでピザを頼むような暴力だが、本人が気にしていないのなら仕方ないのかもしれない。
勉強のしすぎで血糖値スパイクは起こらないのだし。
「防水性のイヤホンかスピーカーがあるとお風呂の時とか捗るよ?」
「いや……そこまでは私、良いかな……お風呂ぐらいゆっくりしたいし……」
「そっか」
「……でも、あんまりやり過ぎはよくないよ。ノイローゼとか……」
「……たしかに。病気になってからじゃ、遅いもんね」
よし、と肇は少し意気込むようにしてペンを構えた。
止まっていたところからしばらく、カリカリと小気味の良いペン先の走る音が続いていく。
時間にしておよそ三十秒ほど。
それでキリの良いところまで終わったのか。
ペンを置いた彼は椅子を引いて立ち上がり、腕を組んでぐっと軽く伸びをする。
「――それじゃ、俺は一旦休憩。外の自販機で飲み物買ってくるけど、優希之さんは?」
「あ……じゃあ、私も一緒に行くよ。ちょうど、喉渇いてたし……」
「わかった。じゃあ行こっか」
後を追うように渚も財布片手に席を離れ、ぱたぱたと肇の隣に駆けていく。
ちょうど肩を並べる感じで、手がぎりぎり触れるかどうかという位置。
……余談ではあるが。
いつからかなんとなく、そこが彼女の定位置になっているコトを肇はおろか、本人ですら未だに気付いていなかった。
◇◆◇
クーラーの効いた室内と違い、一歩建物の外に出るとうだるような熱さが包んだ。
すでに真夏日、気温は三十度に近い猛暑の連続である。
自販機で肇はスポーツドリンクを購入した。
流石の温度にいつものココアには手が出なかったらしい。
渚も珍しく選んだのは紅茶ではなく冷たい麦茶だった。
ふたりして近くにあるベンチに座り込んでペットボトルを傾ける。
「――――、ふぅ」
「……熱いね」
「うん、熱い。年々熱くなってる気がする」
「たしかに。……エアコンは偉大なんだね……」
「言えてるかも」
ごくごくと喉を鳴らしながら飲み物を嚥下する。
塾の前にある自販機周りはちょうど日陰になっていて日差しもない。
気温自体が高くて熱くはあるが、時折吹く風は涼しくて気持ちの良いものだった。
ほう、と小さく息を吐きながらぼんやりと空を眺める。
「…………、」
身体も心も疲れ切ってはいない。
この程度で弱音を吐く程度でもない。
けれど実際、少なからず負担はあったのだろう。
水分を取ってひと息つくと、頭の中がすっと切り替わるようだった。
どこか穏やかな心持ちのまま視線を動かす。
少し離れて見える街並み。
晴れ渡った青い空。
遠く山の向こうには立ち上る入道雲。
ぜんぶがぜんぶ、景色としては月並みなものだけれど。
「なんか……」
「……?」
「いや……なんか、良いなって。こういうの」
「……ん、そっか」
久方ぶりの感覚。
そこまで肩に力を入れていたつもりはなかったけれど、抜けたものがきちんとあった。
だからなのか、感傷に浸ったからか。
いつかの日々を思い出す。
遠く遠く、遙かに昔のコトになってしまったけれど。
沢山はしゃいで遊んだあと、こうして姉と一緒に公園のベンチで休んでいた時があった。
あの頃もなんだか、今みたいに安心できて――
「……ねぇ、水桶くん」
「……ん?」
「あの、さ……宿題、終わったって言ってた……よね」
「そうだね」
「なら……その、気分転換に、なんだけど……」
「……? うん」
風が吹く。
銀糸の髪がなびいていく。
ざあ、と緑色が騒ぐように揺れた。
頬を撫でたのは熱に消えるぐらい淡い冷たさ。
それにつられるように、肇は渚のほうへ視線を向ける。
「――――ふ、ふたりで花火、とか……見に行かない……?」
わずかに目を見張る。
大した意味はない。
ただちょっと予想外だっただけで、彼の答えは悩まずして出てきた。
「いいね」
そのぐらいはまあ、一緒に勉強している仲間として全然アリだ。
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