第44話、第五回裁判

 

 巷


 その文章は怒りに満ち満ちていた。ヨン・ピキナは長年、王のよいしょ記事を書かされ続けてきた。その屈折した憎しみが、一文字一文字に踊り狂って張り付いていた。その文章を読んだ人間は、新聞を叩きつけ怒り、拾い上げ怒り、破り裂いて怒った。そして、もう一度新聞を買い、再び怒った。


 裁判所


 机の上に、新聞が置いてあった。第一面に今日判決が出る裁判、死亡給付金請求の記事があった。フン・ペグルは一瞬目をそらした。自分の考えを、これからしようとしていることを責められたような気がしたからだ。だが、フン・ペグルはそらした目をすぐに元に戻した。

 新聞などに罪悪感など感じる必要性はない。新聞記事は、いつも王にごまをすって事実をねじ曲げているじゃないか。一緒だ。一緒どころか、どれだけ事実をねじ曲げ国民をだましてきたことか、それに比べればこれから私のすることなど、大したことは無い。どれ、今日はどんなでたらめを書いているのか、見てやるか。さげすんだ気持ちでフン・ペグルは新聞を手に取った。国民見当新聞を。


 記者のヨン・ピキナは姿勢をかがめ、隠れるように裁判所に入った。予約していた傍聴席に座ると、両脇の席がなぜか空いていて、裁判開始間近になると屈強な男二名がヨン・ピキナの両脇を固めるように座った。


 扉が開き、裁判官が入ってきた。


 検事のニコ・テ・パパコは、ぼんやりと座っていた。もはや何もするべきことはない、考えなくてはいけないのは己の保身のみ、しかしそれも難しい。向かいの告訴人席では第一検事局長がニコテ・パパコをにらみつけている。


 ニコ・テ・パパ・コの隣にいるカカ・カは、いつもと変わりなく平然と座っていた。


 傍聴席のヨン・ピキナはメモを取ろうとしてやめた。もう新聞記者ではないのだ。これから起こることを、ただ目に焼き付けておこう、記憶しておこう。そう思った。無事にここから出ることができればの話だが。


 いすに座った裁判官のフン・ペグルは、静かな目をしていた。右副判事のコト・ト・ピキョは、腰をさすりながらゆっくりと座った。左副判事のヌコタ・リはおどおどと周りを見ながら座った。


 フン・ペグルの手の中に三人の裁判官の判決が記されている。

 フン・ペグルは判決票書を開いた。判決票書は六通ある。カカ・カが訴えた妹の死亡給付金に対する判決票書が三枚、その死亡給付金に対する逆訴訟に対する判決票書三枚、計六枚である。

 フン・ペグルは何度も見なおし、それから六枚の判決書を副判事に渡した。二人の副判事の目には驚きがあった。

「判決を言います」

 法廷が静まる。フン・ペグルが口を開く。

「カカ・カ氏の訴え、王に対する死亡給付金請求は、敗票二、勝票一、よって、カカ・カ氏の敗訴とする」

 裁判所は混乱した。つまり、二対一で敗訴、三人の中、一人の裁判官が、王が負けと言ったのだ。誰なのだ。人々が三人の裁判官を見つめた。


 検事のニコテ・パパコは天を仰いだ。最悪だ。この一票の責任は誰が取るのだ。私だよな。あとは、誰か知らんが勝票を投じた裁判官か。


 一票、勝票を入れた裁判官がいる。ヨン・ピキナは驚きと同時に喜びを感じだ。だが、それでも、敗訴なのだ。

 しかしながら、死亡給付金請求の判決で、一人、勝訴票を入れている裁判官がいる。もちろん、一審制しかないこの国の裁判制度では、一人が勝訴票を入れたところで、二対一で告訴人敗訴は永遠に変わらない。だが、王に対する大きな疑惑が残る。王は、負けていたのではないのか、王は自らの権力を使い、裁判官に圧力を加え、勝訴票を敗訴票に塗り替えてのではないのか、やりかねない。一人の裁判官が、その圧力に屈せず、勝訴票を投じたとしたら、その一票は何よりも重い。その一票だけが真の裁判官の判決となる。誰が投じたのだろうか。


「私です」

 裁判長のフン・ペグルが立ち上がった。立ち上がり、衣服を脱ぎ始めた。


 法廷内にいる人々は、驚き、何を驚いていいのか若干わからなくなっていた。裁判長のフン・ペグルが勝訴票を投じた。その告白に対する驚き。それで、その裁判長が脱いでいる。その行為に対する驚き。


 フン・ペグルは狭い裁判席で、ふらつきながらも服を脱ぎ、上半身裸になった。

「皆さん見てください! これが王に非がある証です」

 フン・ペグルはやや垂れ下がり、細くゆるんだ体をさらした。腹部に黒い糸で醜く縫われた跡があった。

「ここです、ここ、私の胃袋はありません。城の人間に、すなわち王に胃袋を抜き取られたのです。無罪判決を出さなければ、胃袋を返さないぞと、脅されたのです。これこそが! 彼らが、王が有罪の何よりの証ではないでしょうか。私のおなかが証拠です」

 明らかに説明不足だが、裁判所内にいる人々は一瞬で、この裁判長の身に何があったか察した。睡眠薬を飲まされ、眠っている間に部分麻酔をされ、目が覚めたところで、腹を割かれ胃袋を取られ、無罪判決を出さなければ、胃袋を返さないぞと、時間をかけ脅された。だが、にもかかわらず、裁判長はその恐喝にも負けず、逆にそのようなことをしたことに対して、王に非ありと、それこそ敗訴の証なりと、一人、王に対して敗訴判決を出したのだ。そのように裁判所内にいる人々は、なぜか理解した。

「見てください」

 フン・ペグルは、自らの腹の縫われた傷口に手をかけ、左右に開こうとした。 

 この糸だけでは事実の証明になっていない。ただ単に糸が腹に縫われているだけに過ぎない。中を見せなければいけない。

 しかし、思いのほか、しっかり縫われていたらしく、傷口から血がぽろぽろこぼれるだけで、糸は切れず傷口も広がらなかった。仕方がないので、念のために持ってきたカッターナイフをポケットから出し、腹を縫っていた糸を上から順番に切った。

 糸が切れ、縦に切られた腹の傷が開きはじめた。血が傷口からもれ始めた。縫合していた糸をすべて切り、フン・ペグルは腹の傷を左右に開いた。

 裁判所内にいる全員がそれを見た。腹の中は暗くてよく見えなかった。フン・ペグルも自分のおなかをまじまじと見た。よく見えないが何となく足りないような気がする。


 ずれにずれた驚きの声が、ちらほら上がり、恐怖に顔をゆがめているもの、目をそらすもの、様々な反応がゆっくり起こったが、多くの人が一つの疑問を持った。

 で、どうすればいいのだ? 腹を切り裂かれ胃袋を奪われ脅され、それに屈せず、一人の裁判官が告訴人に勝訴判決を出した。だが残りの二人は敗訴判決、腹を自ら割き、王の非を訴え、その身の潔白を見せたところで、結局の所、カカ・カの敗訴は変わらない。で、どうすればいいのだ? その疑問が、傍聴席の幾人か、半開きになった口から漏れ始めていた。その時。


「どぐれえぇーーーー」

 どなり声が聞こえた。

 怒り、体全身、足先から髪の毛まで、歯を食いしばり両手を握りしめ、どなり声を上げている人間がいた。カカ・カだ。それは怒りの声だった。その声が法廷内を駆け巡った。

「がー!」


 新聞記者、ヨン・ピキナは、その怒りの声を受け取った。ずいぶんと長い間、我慢を重ねてきた。王の親族の不正を会計士の間違いと伝えた。整然と並び遠足に行く子供達の写真を使い、国民全員子供達を見習うべきだと、前の日に起こった暴動を暗に非難した。国民の怒りの声を無視し、事実をねじ曲げ、王をたたえる記事を書いてきた。ヨン・ピキナは両手を握りしめた。歯を食いしばった。立ち上がろうとすると、横にいた男たちに腕を捕まれた。それをふりほどき、怒りの声を上げた。

「だんがりゃーあーあーあぁー!」

 ヨン・ピキナの怒りの声は、まっすぐ飛んだ。腹開く裁判長、すなわち、フン・ペグルのぽっかり空いた腹に吸い込まれ、あーあああーと、反響した。その声に応え、ヨン・ピキナも怒りの声を発した。

「あぁ、ああ、あああぁ、ぬっぱー、だおんべべべぅうぅうぅー」

 血みどろになった手を握りしめ、ヨン・ピキナは怒り声を発したが、残念ながら腹にあまり力が入らないので、それほど大きくはなかった。だがそれは法廷に漂うように広がった。

 さらに反射する。傍聴席にも闘士がいた。こんなおかしな裁判あってたまるものか王は有罪なり、怒りの声が飛んだ。

「いぼっ! ぬったたたったあ!」

 部屋の中にいるものそれぞれが思い当たる、怒りの声を出した。「いっきりりいいぃ!」「しゃきたたたらぁー!」「ぬっ! やいやい!」

 握りしめた拳が震え、怒りが部屋に充満し、その矛先がどこかにないか、それぞれが探し始めた。いつの間にか第一検事局長と副裁判官のコト・ト・ピキョがいない。副裁判官のヌコタ・リは机の下に隠れ震えている。

 矛先を失った怒りは、まとまりを失い始めた。一人二人と怒りのうなりが消え始め、静寂へとかえろうとした。その時である。 

「うぐ、あぐぬぬぬぅ」

 身も崩れんばかり、カカ・カは突然顔を押さえ涙を流した。

 怒りの声を上げていた人々はとまどった。怒りではないのか、さっきまで怒っていたのではないのか。泣いている。悲しんでいる。そうだ。怒りではないのだ。悲しいのだ。救えなかった。失った。認められなかった。この若者は妹を殺された。王に五体をバラバラにされた。悲しいではないか、それでもこの若者は屈せず、裁判に訴えた。残念ながら、勝訴とはならなかった。その悲しみが声になって放たれた。

 悲しみ。

「はぐぅうううう」

 顔を押さえ、裁判所にいる人々は涙を流した。悲しみが満ちあふれた。傍聴席にいる人々は、隣にいる人と抱き合い悲しみを分かち合った。ヨン・ピキナの両隣の屈強な男たちもその隣にいた老婆と小太りの男に抱きしめられ複雑な表情をした。

 だが、忘れてはいけない、悲しみだけではない。

「なんげ! でんで! がん!」

 悲しいだけなら泣けばいい。だが怒りはどうする。この国に対する怒りはどうする。思い出せ!

「うぐ、ひうひうひう」

 怒りだけか。この悲劇、若者に訪れた悲劇、その妹に訪れた悲劇、悲しまなくてどうする。

「ぬんがらぁー!」歯を食いしばり、拳を上げ。

「うんぬぐ~」顔を押さえ、涙を流す。

「ぬんが!」

 人々は拳を上げて怒りの声を突き上げる。天に突き上げられた怒りが沈み、悲しみに変わる。

「うんが~」

 それは涙になって地に落ちる。怒り怒り、悲しみ悲しみ、怒りと悲しみが交互に波打ち、渦となる。それは出口を求め、外へ、収まりきらぬ悲しみ怒り、出口を求め外へ外へ。誰かがドアを開けた。なだれ込むように、怒りと悲しみが外へと出て行く。


 依頼人カカ・カの味方でもあり、ほとんど敵であったニコテ・パパコは、いまいち怒りと悲しみの渦に乗り切れず、結局法廷に残ることにした。依頼人がいた場所に一冊の本が置き去りにされていた。

『これであなたも起こせる。裁判!』帯には『これ一冊で裁判に勝てる』とあった。

「勝ったのか、それとも負けたのか」

 などといいながら、ニコテ・パパコは高笑いなんぞを少しした。

 副判事のヌコタ・リが机の下で、その笑い声を聞いていた。

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