第13話 陰陽師、推参する

「――もうそれくらいにして、許してあげてもいいんじゃないかな」


 透き通った声とともに暗闇から姿を見せたのは、果たして──成明だった。


「……お、お、おまえ……なんで……ここに……」


 伸吾は成明を呆然と見つめた。


「君のことは式神を使って、尾行させてもらったよ。なんとか間に合ったみたいだね。もっとも、もう一人の少年は本殿の裏で残念な姿になっていたけれど。まあ、それはぼくのせいではないか」


 成明の左手には白い短冊状の紙切れが握られていた。このただの紙切れが式神と化して、路地からずっと伸吾と武彦の後を追っていたとは、伸吾には理解の外のことであった。


「その様子では君は動けそうにないみたいだから、そちらの彼女の方から先に話を聞かせてもらおうかな」


 成明は少女の方に目を向けた。


「夕方に会ったときにも言ったけど、あたしの邪魔はしないで」


 少女は醒めた目でにらみ返す。


「ぼくもさっきと同じことを言わせてもらうよ。──これがぼくの仕事なんでね」


「やっぱり、あなたとは話しても無駄みたいね。――ケンタ、お願い」


 少女は犬の頭を優しく撫でた。犬がすっと成明に向かって歩き出す。


 成明は右手をジャケットの右ポケットに入れたままの体勢で動かない。


 犬が大きく空中にジャンプをした。まっすぐ成明に飛び掛ってくる。


  同時に成明も動いた。右手をポケットから出す。右拳はかたく握り締められている。そのまま、なにかを犬に投げ付けるように右腕を大きく振った。


 まさに成明に噛み付く寸前だった犬の顔面に、白い粉末状の物質がかかった。


 犬はきゃいんという、その容姿に似合わぬ小さな可愛らしい悲鳴をあげると、顔面に付着した粉末を振り払うように、ぶるんぶるんと顔を左右に大きく振り始めた。


「おまえ、ケンタになにをしたのっ!」


 少女が犬に駆け寄っていき、犬の顔面に付いた粉を手で必死に払う。


「こうなるだろうと思って、準備をしておいて良かったよ。君は犬好きみたいだから、もちろん知っているだろう? 犬が柑橘系の匂いが苦手なこと、それに犬にはネギ類を食べさせてはいけないことを」


「じゃあ、この粉末は……?」


「そうだよ。犬が苦手なモノをいろいろと混ぜて作った特製の粉末だよ。犬神いぬがみ対策用の道具として準備しておいたのさ。本当ならば護身刀を持ってきたかったけれど、あいにくと京のお宮に置いてきたままでね。まあ、緊急で準備した道具のわりには、効果はてきめんだったみたいだね」


「『イヌガミ』……?」


 少女は初めて聞いたという風に眉根を寄せた。


「なるほど。その様子だと、やっぱり君は犬神のことは知らないみたいだね」



 犬神とは人間に取り憑く妖怪の一種で、日本では狐憑きと同じくらい有名なものである。犬神を生み出すには、一般的な方法としてまずはじめに生きた犬を頭だけ地面から出して埋め、食べ物も水もやらずにそのまま放置する。その犬が限界まで腹を空かせたところで、首をはねて殺す。その殺された犬の霊こそが犬神となるのだ。


 犬神を呪いたい相手に送り付け、取り憑かせて殺してたり、生み出した犬神の霊を使い魔として操ったり、その呪法には様々な流儀や種類が存在する。特に犬神を自在に使いこなす人間のことを、犬神使いとも呼んだりする。



「――さっきの二人の話は聞かせてもらったよ。おそらく、そこの少年にバラバラにされて殺された何匹もの野良犬たちの魂が合わさって、一匹の犬神と化した。そして、君がその犬神を操って、四人の少年たちを襲わせていた。神社に出た幽霊犬の正体は、そこの犬神だったということだね」


 成明は少女と伸吾の顔を交互に見ながら説明した。


「これで事件の概要はつかめたよ。――さて、問題はこの後どうするかだけど」


「あたしは絶対に引き下がらないわよ!」


 少女は犬神の首筋に手を置いたまま、一歩も引かないという決意の表情をしている。


「それは困ったな。ぼくがこの粉末を持っているかぎり、その犬神はぼくには近付けないということになる。それでも力ずくで犬神をけしかけるということならば、その犬神を殺さざるを得なくなるんだけど。ぼくとしては、なにもそこまではしたくないんでね」


 成明は右手で手刀を作った。いつでも『九字』を切れる体勢である。 


「――その男の味方をするつもりなの? そいつは遊び感覚で何匹も犬を殺したのよ! 犬たちにはなんの罪もないのに! だから、絶対に許すわけにはいかないっ!」


「誤解をしているみたいだけど、ぼくはこの少年の味方をするというのではないよ。ぼくは幽霊犬の調査を頼まれただけだからね。その犬神をなんとかしないことには幽霊犬騒動は収まらない。だから、犬神の処理をこちらに任せてもらいたい。君がその犬神をここに残して、おとなしく帰ってくれさえすれば、すべては済むんだけど。――それではダメかな?」


「その男をこのまま見逃すわけにはいかないわ!」


 少女は一歩も譲らなかった。


「おい、なにのんきなこと言ってんだよ。さっさとそのバケモノ犬をやっちまえよ」


 伸吾が二人が会話をしている隙に、成明の傍に逃げて来た。


「手の方は大丈夫かな?」


「ああ、これくらい平気さ。それよりも、あのバケモノ犬を早く――」


「ぼくとしては無理強いはしたくないんでね」


「なに言ってんだ。あのバケモノ犬は人間を三人も殺しているんだぞ! おれだって、殺されそうになったんだ。あんただって、それは分かっているだろう?」


「まあ、そう焦らずに。もう少し粘り強く説得してみるから」


「説得って……。じゃあ、おれにあの粉末をくれよ」


「粉末?」


「ああ。あんたが説得している最中に、あのバケモノ犬がおれに飛び掛かってきたらどうするんだよ?」


「なるほど。それもそうだね。自分の身は自分で守るのが一番だからね」


 成明は『左のポケット』に手を入れると、中から取り出した粉末を伸吾に手渡した。


「それで、おれはこの後どうなるんだよ?」


 伸吾は粉末を左手でしっかりと受け取った。


「きみはこの後、警察に引き渡されることになるかな」


「警察!」


 伸吾は驚いて聞き返した。


「君たちはそれだけのことをしたのだから、当然だと思うけど」


「冗談だろう? たかが野良犬を殺しただけだぜ」


「君は知らないみたいだけど、動物虐待に関する法律はすでに施行されているよ。ぼくも怖い女刑事さんの目があるから、君をこのまま見逃すわけにはいかないんでね」


「…………」 


 成明の言葉に、伸吾は反論できずに口をつぐんだ。


 伸吾としては、こんなところで警察に捕まるわけにはいかなかった。かといって、父親に助けを求めることも出来ない。


 そのとき、伸吾の頭に悪魔的な計画が思い浮かんだ。



 おれには魔法の粉末がある。この粉末さえあれば、あのバケモノ犬は恐くない。犬さえいなければ、あの女なんて無力だ。あの女をなんとかして、その後で、このおかしな男の仕業にしちまえばいい。そうすれば、すべてが丸く納まる。



 決断を下すのは早かった。


 伸吾は隣に立つ成明の脇腹に、左の肘を力強く打ち込んだ。まるでそうくるのが『最初から分かっていた』かのように、わあ痛い、というわざとらしい悲鳴をあげて、成明は地面に倒れ込んだ。倒れる成明を横目で確認しながら、左手に握った粉末を、犬神の鼻先に向かって投げ付ける。犬神の反応を見ることなく、視線をすぐに地面の先に落ちているナイフに向ける。



 あのナイフを拾って女をやっちまえば、すべては上手くいく――はずだった。



 伸吾の耳に、犬神の獰猛な唸り声が聞こえてきた。視線を犬神に戻す。犬神はすでに戦う態勢を整えていた。


「――――!」


 伸吾は声にならない声を喉の奥からしぼり出した。左手をナイフに伸ばした格好のまま、体が凍り付いてしまう。


「ど、ど、どうして……」


 つぶやく声が口から漏れた。


「どうやら君に渡した粉末を間違えたみたいだね。確か犬神用の粉末を入れておいたのは右のポケットだった。君に渡した左のポケットに入れておいた粉末は――」


 伸吾は成明の声を聞きながら、恐る恐る左手の指先に残った粉末をぺろりと舐めた。舌先に甘い味を感じた瞬間、驚愕で顔がこわばっていく。


「――ただの……砂糖じゃねえかよ……」


 砂糖を顔に受けただけで、なにもダメージを負っていない犬神が、低い唸り声をあげながら伸吾に近付いてくる。


「や、や、やめろ……。あ、あっちに、行けよ……。お、お、おい……。た、た、助けてくれよ……」


 伸吾は自分に近付いてくる犬神から目をそらさずに、成明に向かって助けを求めた。


「助けたいのは山々だけど、君に突き飛ばされたときに足首をひねったみたいで、立ち上がれないんです。いやー、本当に困っちゃったなあ。心の底から助けてあげたいのになあ」


 成明は大根役者がセリフを棒読みするように言った。


「――おまえ、ひょっとしてわざと……」


 伸吾は目の前が暗闇で閉ざされるのが分かった。決して逃れられない永遠の暗闇。


 精神は完全に諦めきっていたが、それでも原始的な生存本能が最後に働いたのか、伸吾は我知らずに走りだしていた。


 絶望的な恐怖を背中に張りつけたまま走った。背後には、離れることなく犬神の荒い息遣いと足音が聞こえてくる。


 前方に公園の出入口が見えてきた。そこを抜ければ通りに出られる。通りに出て、通行人に助けを頼めば――。



 次の瞬間、首筋にすさまじい痛みが突き刺さり、伸吾は前のめりに倒れこんだ。



 公園の出入口までは、まだ十メートル近くあった。

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