第弐幕 漂着

 どこからか音が聞こえてきた。それは優しく、透き通るような澄んだ音色。苦痛も悲しみも全て洗い流してくれる、そのような感覚を与えてくれる音色だ。その心地良さに心奪われ、彼女は全身から力が抜けていくのを感じながらも全てを委ねた。母の胎内でたゆたう赤子のように。


 だが、そのゆりかごもほどなくして終わりを迎えた。それと同時に何かが自分に触れた。ペタペタと身体に触れ、その感覚は次第に上を目指し――。


 誰……?


 海堂飛鳥かいどうあすかは目を開けた。


「わぁ……生きてたぁ」


 ぼやける視界に見えるのは、自分を覗き込む誰かの顔と、乳白色の優しい照明だ。


「そりゃあ生きてるよ。死ぬ前に加奈が見つけてあげたんだから」


 頬に触れていた手が離れ、飛鳥は自分が置かれている状況に驚いて上半身を飛び起こした――が、それと同時に激痛が頭部を突き刺したため、彼女はうめき声をあげながらベッドに倒れた。


「わぁ……お魚みたい」


「いきなり動くとぶっ倒れる……って、もう倒れてるか」


 やれやれと聞こえてくる女性の声。それに反応するには、状況すら理解出来ていない今の飛鳥には無理だった。彼女は頭を押さえながら、自分の身に何が起きたのか理解しようとする。


 痛みに思考を邪魔されながらも、飛鳥はやおら自身の記憶の糸を辿る。今が何日なのかはわからないが、宵霧山に入り込んだ理由はおぼえている。自身が通う大学グループのちょっとしたノリのようなことだった。


 飛鳥は今年で十九歳になる大学一年生だ。気が弱いことを告げる眉と華奢な体躯が主張するように、彼女は体力的にも筋力的にも優秀とは言えない。


 そんな彼女が宵霧山を訪れた理由は、高校時代から親しくしている二歳年上の友人小室水羽こむろみずはにある。体育に強く、一部を除いて常に堂々とした態度を崩さない女傑で、飛鳥とは性格も好みも違うというのに、不思議と二人は気が合った。それは大学生になっても変わらず、飛鳥は彼女と行動をともにしていた。そんな時、水羽の友人らからの誘いで一泊二日の小旅行へ行くことになった。


 その小旅行に雪山への挑戦など含まれていなかったのだが、グループの一人が宵霧山の異名を聞き、真相を確かめてやろう、そう言い出したのだ。旅行先が雪の季節だったため、一応の防雪装備は持って来ていたのだ。


 その結果、軽い気持ちで雪山に入ったことを後悔し始めた時には何もかも遅かった。前も後ろも雪に支配され、進むことも退くことも出来なくなってしまい、無計画かつ無謀な進軍が続いた後に飛鳥はグループから逸れた。


 刃物のような雪と風に追い立てられた飛鳥は皆と逸れ、雪で見えなくなっていた崖に足を踏み入れてしまい、そのまま斜面を転がり落ちた。寒さと痛みで目を覚まし、そのまま山中を彷徨い続け、確か外灯のようなものを見つけ、そのまま歩いて――。


「私……生きてるの……?」


 飛鳥は力なく呟いた。


「生きてるって。自分で身体を起こしたくせに耄けてんの?」


 隣から聞こえてきた女性の声に気付いた飛鳥は、顔だけを声の主に向けた。


「その様子だと元気そうじゃない。おはよう、眠り姫」


 茶色のソファーに腰掛けた女性は、煙草をくわえたまま飛鳥に会釈した。


「とにかく目が覚めて良かったよ。珈琲と加奈の子守唄が効果的だったのかな?」


 続いて飛鳥が目をやった男性は、屈強な体躯を縦に伸ばしている男性だ。クマのような体躯ながらも、浮かぶ笑みには人の良さが垣間見えた。


「あんたを助けたのはこの娘、まともにしゃべれるようになったら、ちゃんと御礼しておきな」


 煙草の女性は「ほら、挨拶してあげな」と一人の少女を飛鳥の真横へつまみ出すと、モデルのような体躯を連れて部屋から出て行った。


「えっと……その……」


 笑顔のまま顔を凝視してくる少女に対し、飛鳥はわたわたと視線を散らす。


 散らされた視線が捉えたのは、着せられた肌襦袢や珈琲の香りと微かな薬品臭だ。


「は〜い、珈琲どうぞ〜」


 ベッドの真横に両肘をついた少女――加奈は、湯気立つ湯呑みを飛鳥に伸ばした。ニコニコの笑みと満面顔を付け加え、加奈は飛鳥に迫った。その屈託のない笑みと圧力に押された飛鳥は、ビクビクと警戒しながらその湯呑みを受け取った。


「あ……ありがとう……ございます」


 受け取った湯呑みからは珈琲の香りが浮かび、芯から冷えきった飛鳥の心身を癒す。


「あっ……美味しい」


 一口目の感想。口に含んだと同時に、飛鳥は目を丸くした。どんな淹れ方をしたんですか、どんな珈琲豆を使っているんですか、と尋ねる前に湯呑みの珈琲は姿を消した。その光景を加奈は笑んだまま見つめていた。


「美味しかった〜? ぜんざい、ぜんざい〜」


 ぜんざい? ああ、仏教の善哉か……。


「えっと……ごちそうさまです」


 湯呑みの処遇を求めて視線を彷徨わせる飛鳥だが、加奈は頭をメトロノームにしたまま笑んでいるだけだ。


「受け取るよ。起きていて平気かい?」


 飛鳥から湯呑みを受け取った翔太は、彼女の横に座り込んだ。


「混乱も少しは落ち着いたかな?」


「はい、少しですけど……」


「はは、まぁそれは仕方ないね。目が覚めたら誰かの家の中なんて俺も驚くさ」


 翔太は体温計を飛鳥に手渡すと、テーブルに彼女のリュックを置いた。


「あっ……それは……」


「中身は確認したけど、それはさっきまでここにいた天音夕子にしてもらったから、野郎連中は俺も含めて触れていないし、見てもいないから安心してくれ」


「安心してくれ〜」


 翔太の声音を真似する加奈を一瞥し、飛鳥はやおら頷いた。


「でも驚いたよ。君が大学生だったとはね」


 中学生だと思った。そう言われたような気がして、飛鳥は少しだけ心を尖らせた。華奢な体躯が手伝って、ほとんどの人が十九歳だと把握してくれないのだ。飛鳥はそれを微かなコンプレックスにしている。


「一回生だったね。この屋敷に来ている一回生は君だけだ」


「私は二回生なの〜」


 加奈のその発言に飛鳥は目と耳を疑った。


 相沢加奈。彼女の容姿は飛鳥にも劣らないほど華奢だ。可憐だが、童顔剥き出しの顔立ちも手伝い、横にいる翔太とは下手をすれば親子と思われても不思議ではないほどだ。自分よりも幼く見える年上がいるものなのかと飛鳥は左目を丸くした。


「ともかく、怪我や凍傷の兆しがなくて良かったよ。えっと、海堂さんはどうしてこんな山奥に?」


 微熱を示す体温計を受け取った翔太は、よいせ、とソファーに腰を下ろした。


「聞いたところによると、この宵霧山は穢れが残る忌み山だそうだ。そんな山に山登りをするようには……見えないけど」


「えっと……友人たちに巻き込まれて……無計画な山登りをしたんです」


 先ほど思い出した自らの最悪な一日を翔太に説明する飛鳥。


「そうか……大学生の悪いノリだな。最近の若い奴原は山を甘く見てる」


 いい加減な知識とノリで山に入り込んでは、ゴミを捨てる、環境を壊す迷惑行為を繰り返す、そんな奴原をよく見て来た翔太にとって、飛鳥の友人らのノリは非常に質が悪いものだ。顰めた眉を隠すことなく、翔太は続ける。


「他の友人らには悪いけど、彼らがどうなったのかはわからない。加奈が見つけたのは君だけだ」


「そう……ですか」


 飛鳥は俯いたものの、本当に身を心配しているのは水羽のことだけだ。他の連中の人となりも知らなければ、飛鳥はフルネームも知らない。


「とにかく、君はここにいるしかないってことだ。ここは宵霧山の頂に位置する水鏡邸こと叢雲邸。俺たち六人のメンバーが一週間滞在する予定だから、まぁ……その、女性もいるから安心してくれ」


「えっ? 出られないんですか?」


「出られないよ。仕入れた天気予報によれば、綺麗に一週間吹雪が続くみたいだ」


「そんな……」


「一週間よろしくね〜?」


 無邪気に笑う加奈とは裏腹に、飛鳥は自らが放り込まれた過酷な状況にかぶりをふった。


 神と人間の距離が近かった時代の伝承や儀式などは侮れないことを飛鳥は十分に知っている。そんな穢れが残る山に建てられた屋敷で、見知らぬ人たちと一週間――吹雪が止んで下山出来るようにまでどれほどの時間がかかるのだろうか。


「とりあえず、君に凍傷や怪我の様子はない。今みたいに温かくして栄養を取ればすぐに元気になるだろう」


 栄養補給用のお菓子を飛鳥に手渡しながら、彼女を襦袢に着替えさせたのは夕子だとも説明し、夕飯時には皆に紹介すると言った。


「後で迎えに来るよ。それまではここで休んでいるといい。加奈はどうするんだ?」


「ん〜私も部屋に帰る〜」


 医務室から出て行った翔太の背中に従い、パジャマ姿の加奈はパタパタと出て行った。


 鼻歌を披露していた加奈の退室で、簡素な医務室は沈黙に戻った。


 飛鳥はテーブルに置かれた自分のリュックを引き寄せ、中身がどれだけ無事なのかを確認してみた。文明に別れを告げて山へ持ち込んで来た中に食べ物や携帯電話は無い。携帯電話に至っては、家に忘れてくるという失態を犯してしまった。着替えは一日分しかないため、洗濯機があるのなら借りてどうにかしていくしかない。


「エチケット用品は女の人頼りか……」


 持って来たものがいくつか無くなっているが、リュックの口が開いていたことを信じるなら仕方ない状況だ。とはいえ、飛鳥にとって大事なものの一つが無事であったため、それには神と仏へ感謝した。


「予備の眼帯は全て無事。目の方も異常はなし。微熱の所為で関節の痛みと怠さはありますが、言われた通り生きているようです」


 ベッド脇に置かれたチェスト上にある小さな鏡を見ながら、飛鳥は一人呟いた。ミディアムショートの髪から覗く白い眼帯と顔色を除いて危険な兆しはなさそうだ。


「水羽……どうしてるかな」


 鏡の自分へ問いかける。返って来ることのない返事を待って、飛鳥は鏡の遥か彼方を見据えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る