水鏡邸殺人事件

かごめ

第零幕 残滓

 静寂の道。白銀に彩られた深い木々。モーゼのごとく雪海を裂く文明の轍。


 木漏れ日のように降り始めた白の踊り子たちを見上げた彼は、懐から取り出した煙草に火をつけると、美味そうに煙をくゆらせた。


 その煙の遥かには、クレバスに侵蝕されながらも自らの子を産み落とすモノクロの海が広がっており、太陽の姿はおろか紺碧すら見上げることが出来ない。そんな視界の片隅では、白の踊り子たちが猛り唄い踊ることを告げる黒雲が見える。


「雪がふる――降ってはつもる……。


 しめやかな悲しみのリズムの……。


 しんみりと夜ふけの心にふりしきる……」


 静寂の中で彼が呟いたのは、北原白秋の一節だ。


 その一節が示すだけなら、悲しみを纏った心境を彼は唄っているのだろう。だが、今の彼にその一節は相応しくない。何故なら、


 今日から毎日が、彼にとって記念すべき日となるからだ。


 そんな記念すべき日に祝福を告げる太陽も月も見えない事実に対し、残念だという気持ちはあっても、心のどこかで祝福に相応しくないと思っている自分もいるのだ。そう、紺碧を仰ぐ権利など自分にはないという思いが……。


 彼は停車させたトヨダ・AA型というクラシックカーに背中を預け、モノクロの海を見上げたまま新しい煙草に火を点けた。行く場所もなくたゆたう煙は、瞬く間に身を散らして雲散霧消となる。


 彼が車を停車させたのは、押し寄せる木々を押しのけて作られた広場だ。車が鉢合わせした時の退避スペースであり、かつては建築素材を一時的に積んで置くためのスペースでもあったが、今では行き交う車の姿などなく、勢力を取り戻し始めた木々が広場を呑み込み始めている。


 人間が切り拓いた広場など、時間という罰の前では何も残らない。人間に寿命が約束されているように、建造物もまた賽の河原だ。時間という鬼が来たりて石を崩す。それは彼の目的地も同じ。


 目的地で起きた事の次第は明らかにならない。一時の話題にはなっても、世間はすぐに忘れる。元々流行に流されやすい瑞穂の国民だ。もう事件のことなんておぼえていないだろう。


 もてはやされた件の事件を思い、彼は短くなった煙草を携帯灰皿へ押しつけた。荒々しい潰し方だが、それが苛立ちではないことだけは自覚している。自分の罪を誰にも打ち明けられないことへの欲求か、それとも神使が現れなかったことへの安堵なのか、彼自身も渦巻く心境を正確に把握はしていないのだ。


 枝から落ちて来た雪を一瞥し、彼は車内に戻った。AA型の外見は過去と同じでも、車内は現代の技術を惜しみなく導入されているため、今の乗用車と同じ感覚で運転出来る。そんな車内に同乗者は無く、後部座席には衣装ケースと小さなバッグしか乗せられていない。


 彼はシートベルトを着用し、熟れた動作で運転を再開した。


 自らが運転する車以外に動くものはない白銀の世界。その中を走る車だけが静寂という衣を拒み、時間の流れに従って歩みを続けている。


 整備されているうえに通い慣れている道だが、白銀による支配は通常の運転とは違い、慎重さが求められる。雪用タイヤでなければ運転すら困難となる険しさだが、彼はハンドルを強く握り締め、曲がりくねった道を巧みに進む。


 そうして一台の対向車とも擦れ違わないまま、車は激しいアップダウンを繰り返して進む。進むごとに周囲の白森は深くなっていき、車の頭上には木々から振り下ろされた雪たちが積もり続けている。


 もう少し行けば、道の両脇に設置された小さな道標たちの灯火が見えてくる。雪の中から突き出すその灯火は、夜になると人世から別の世界へ通じるトンネルのように見えるため、彼の思い出になった大切な人は光のゲイトだと称していた。


 この光景も見納めか……ここに来るたびに……君のことを思い出す――。


 彼はやおら車を止めた。


 どうして……どうして彼女が……どうして……。


 ハンドルを握り締めた己の手を解き――。


 彼は大声で車体を揺らした。


 それはあまりにも急な慟哭。やり場のない、もう投げやることすら出来ない捌け口を探して両の手は車体とぶつかり合う。そのたびに彼の手は悲鳴をあげ、傷付いた心から吐き出された血反吐だけが彼の頬と膝を濡らす。


 どうして……彼女があんな目に遭わなくちゃいけなかったんだ……何で……何で……!


 この慟哭は何度も吐き出した。吐き出して満足するのなら、何度でも吐き出すが、この慟哭は満足を容易く齎しはしない。だが、それでも急激な冷静さは齎してくれた。


 行かないと……みんなを待たせてるんだから。


 ぶつけられた手が痛みを訴えることも、血反吐で顔が腫れたことも気にならないまま、彼は抜け殻のような無機質さでハンドルを握り締めた。僅かの時間で足跡を残した雪をワイパーで振り払い、車は再び白銀の森を進む。


 舞う雪たちを囃し立てる道標たちの光景が過去になるように、彼の不安定な心も冷静さが過去になり、新たに訪れたのは溜め息だ。


 もう誰も座ることのない助手席を一瞥し、彼は小さく息を吐いた。それが何度目の溜め息なのか、その一瞥が何度目なのか、もう彼にはわからないし、気にもしていない。わかっているのは、傷を負った溜め息だけが車内をたゆたうことだけだ。


 溜め息は不幸を招くとして忌避される行為だが、彼に不幸を齎した元兇は望み通りに全てが等しく土へと姿を変えた。それに加え記念日が訪れたのだ。彼が溜め息をつくことなどありえない。それにも関わらず溜め息が吐き出される理由は、渦巻く満たされない願いがあるからだ。


 欲望は人間の全てを形作り、人間を滅ぼしかねないものだ。種の繁栄を求める欲望も自らの命を満たすことへの欲望も全てが必要なものだ。だが、人間が抱く欲望が全て満たされる日など永遠に訪れないだろう。一つ叶えばまた一つ……欲望の連鎖は止まることを知らないが、その欲望を止められる唯一の手段はある。それは叶わぬ願いを抱くことだ。叶わぬ願いを抱いていれば、それ以上の欲望は抱かない。そう、叶わぬ願いは人を押し止めてくれるのだ。


 そして、下手に叶った願いは人を幸福へと導くとは限らない。


 願いを果たしても無駄か……失ったものは帰って来ないなんて……わかりきっていることなのに……。


 虫食いだらけの表紙に加え、台詞までもが滲んで読めない。そんな彼の心とは裏腹に、道標たちは緩やかに車を導き、その車窓に約束の場所――時計塔の威風堂々とした尖塔が現れた。


 ドレスを纏った針葉樹たちの間から突き出ている物言わぬそれは、彼にとって全ての終わりを告げる場所であり、終焉を約束する鐘の担い手でもあり、祝福を告げる福音でもある。


 視線を戻し、そっと時計を確認する。


 時刻は十六時十分前。


 空には黒雲が近い。


 雪と冬の真只中にいる宵霧山よいむやまが闇に包まれるのは早い。十七時にはもうライト無しで山内を動くことは出来なくなる。目的地である時計塔には、待たせている人たちも式の準備もあるため、闇に呑まれる前に辿り着かなければならない。


 人なんていないだろうが、野生動物――特に鹿なんかには注意して……。


 鹿。不意に口にしてしまったその言葉に彼はかぶりをふった。


 かの須佐之男命のように、彼は神との誓約うけいをした。自らの運命を神という曖昧な存在に託したのは、己のした罪が崇高なものか、ありふれた犯罪劇なのかどうかを提示してほしかったからだ。その結果、彼は神に勝利した。自らの罪が崇高なるものと提示されたのだ。それにも関わらず、神使シカなど寄越すはずがない。


 そう、寄越すはずがない。彼はかぶりをふって神使の影を振り払い――。


「っ!!」


 慌ててハンドルを離し――慌ててそのハンドルを握り締めた。突っ伏すようなことはしなくとも彼は車を停車させ、固まった背中を預けた。


 神使のことを考えたのが悪かった。崇高なれども罪は罪。ハンドルを握る自らの両手が黒血で染まり――崇高とは程遠い狼狽を見せてしまった。こればかりは、何度同じ光景を見ても慣れるようなことではない。


 自らの憤りを正当化することは出来ても、心という曖昧そのものを正当化することは出来ない。血の光景は自らの意識が生み出した戒めであり、罪の意識なのだろう。


 彼は幽霊のように白い両手を数分見つめ、やおらアクセルを踏み締めた。


 罪人たちが流した黒い血を浴びたという事実は、いくら弁明しようと変わらない。どのみち、その罪人たちを神に代わって裁いた自分は犯罪者だ。穢れた手を見ればあまりにも明白なこと。


 罪人たちを裁くために用意された舞台。カードが指し示した未来を辿り、罪人たちは己の罪を懺悔し、一人残らず死に絶えた。予想通りの反応をした者もいれば、予想外の動きで翻弄してくれた者もいたが、彼が定めた結末からは誰も逃れられなかったし、逃さなかった。


 その光景は愉快だったし、不愉快でもあった。自らが裁かれることの恐怖で戦慄し、懺悔する光景を幾度となく嘲笑った。だが、その嘲笑を誰とも共感出来ず、なおかつ自らも彼らと同等の存在へ堕ちたという事実が重くのしかかり、心を蝕んだ。


 蝕まれた理由、それは神でもないちっぽけな人間である自分が正義の名の下に罪人を裁いたから、なのだろう。法で裁けぬなら、自分自身が罪人となって彼らを裁いた崇高な行い。だが、自らが生きる社会によって犯罪と釘打たれたその行為は、例え復讐であっても赦されない。それは十分にわかっている。


 それでも、その事実に後悔はない。憐憫はあっても、後悔するのなら最初から復讐など思わない。全てを失ったまま、何も意味をなさない生を貪るなど滑稽だ。正義と復讐を気取った犯罪者に相応しい末路も用意してある。


 その末路の導き手は、助手席に乗せている一枚のカードだ。彼は前方を見据えたまま、そのカードを取った。


 それはウェイト版タロットカードの0――愚者だ。白い薔薇と小袋を持った若者は、目前に迫る崖にも犬の警告にも気付かないまま歩んでいる。


 それは自分と同じ――。


 一心に愚者を見つめていた時――前方の木々の間から、何かが飛び出して来た。


 一瞬、それが神使だと本気で思った彼は、慌ててブレーキを踏みつけ――パニックを起こした車のコントロールを取り戻そうともがき――タイヤが悲鳴をあげつつも車体を維持し、雪を振り払いながら最後は針葉樹の根元に乗り上げ、やがて沈黙した。


 口から飛び出そうと暴れる心臓を押さえながら、彼は飛び出して来た相手を見極めようと窓を開け――。


「あのっ……すいません!」


 溌剌とした声を連れて木々の隙間から姿を現したのは、くせ毛のショートヘアーを揺らし、雪だらけのピーコートを身に纏った女性だ。年の頃なら二十から二十三ほどだろう。彼女はこちらに手を振ると、止まった車の横に駆け足でやって来た。


「すいません、突然飛び出してしまったことは謝り……ます」


 女性の溌剌としていた声は次第に小さくなり、最後には口を閉じてしまった。彼女は何やら落ち着かず、ばつが悪そうにしている。気まずくされる理由はなく、むしろこちらが怒りたい。


 しかし、彼は怒りを顔に出さないまま女性を見る。


「こんな時間の山奥で何を? 女性が一人で歩くような散歩コースではないでしょう?」


 彼がそう言うと、女性はパッと明るくなり、顔を近付けて来た。


「良かった。そう、散歩ではないんです。実は大変なことになっていて……」


 大変なこと……? 


 雪山での大変なことは一つだ。


「遭難されていたんですか? それなら病院に――」


「友達が……友達がこの山で遭難したんです!」


「友達が遭難? そうか、パトカーが麓に来ていたのはそれが理由か。それで? あなたは友人を捜して山の中を?」


 頷く女性。それなら雪に抱きつかれているのも納得出来る。よく見ると、彼女の顔には疲労と焦りのような影が浮かんでいる。おそらく、友人を捜して彷徨っていたのだろう。


「冷静になりましょう。雪山に精通しているようには見えませんし、装備も不十分だ。あなたも遭難しそうになったのでしょう?」


「いえ、あたしは遭難していません! あなたの車が通りかかったので、乗せてもらえないかと思いまして」


「麓まで乗せてほしいと?」


 女性はかぶりをふる。


「いえ、この先の洋館まで乗せてほしいなと」


「洋館?」


「はい。地元の人から聞いたんですけど……水鏡邸すいきょうていって洋館があるって」


 彼は眉を顰めた。偶然にも、目的地が同じだ。鹿ではなかったが、神使が彼女だという可能性はある。


「そこに友人が避難しているかもしれない……ということですか?」


「はい。気弱で雛鳥みたいですけど……ガッツはあるんです。きっと吹雪も乗り越えているはず……だから」


「……この黒雲を見て言ってますか?」


 頭上にまで迫っている黒雲に加え、猛吹雪の支度を始めた風と雪のことを告げる。


「もうすぐ吹雪が始まる。雪山の素人さんには想像出来ないほどの威力ですよ? 捜索は諦めて大人しく帰りなさい。捜索隊の人たちはどこに?」


 女性は再びかぶりをふった。その拒絶に彼は一抹の不安を感じ、


「あの、まさかとは思いますが……個人で捜索してます?」


「はい。警察にも連絡したんですが……吹雪を嫌って山深くまで捜索してくれないんです」


「……それは当然でしょう? 雪山の捜索はあなたが思っている以上に危険だ。いや、そもそもこんな山奥までどうやって?」


「地元の人にお金を出して運んでもらいました。片道切符ですけどね……」


 テヘヘ、と照れるかのように女性は頭を掻いた。


「呆れて言葉が出ませんよ。とにかく、麓まで送ります」


「登って来たってことは……何か用事があったんじゃ?」


 彼はかぶりをふり、


「予定はありますが、多少の変更は仕方ない。あなたに死なれたら些か気分も悪くなるでしょうしね」


 ぶっきらぼうな声音で告げた彼は、巧みなハンドル捌きで車を反転させるとドアを開けた。


「水鏡邸まで……」


「何度も言わせないでくださいよ。それに……運良くお友達を見つけたところで、あなたには何も出来ませんよ」


 雪山を知らない人に踏破も救助も生存も出来ない。その現実を告げた彼は、乗りな、と指で合図した。それに対して女性はあからさまな失望を示したが、雪の上を軽い身のこなしで移動し、助手席に入り込んだ。そのしなやかな動作を見て、見知らぬ人物の車に乗れるだけの自信と剛毅があるのだと彼にはわかった。


「少々……いや、かなり飛ばしますよ」


「はい……御願いします」


 うなだれる彼女を一瞥した彼は、行きずりの女性を乗せて車を発進させた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る