第5話
日が暮れて夜となった頃、釈放されたフレアが部屋に戻ると当然ながら室内はきれいに片付けられていた。ランプもいつも通り灯されている。しかし室内にローズの姿はなかった。その代わりというわけではないのだろうが、部屋の真中に移動されたテーブルの上に牛の頭が乗せられていた。 頭は近くの店から取り寄せたものか良いものである。頭を置いたのはローズに間違いはないが、その真意までは測りかねた。彼女がフレアのために食事を用意し外出するなどまずありえない。
「おかえりなさい。聞いたわよ。大活躍だったようね。それは食べてはだめよ。今から使うんですからね」
フレアが牛の頭とにらみ合いをしている最中に部屋の扉が開きローズが入ってきた。彼女はロウソクや本がいっぱいに入った籠を抱えている。
「すみません。いいところは全部帝都の連中に持っていかれました」すでに特化隊からの何らかの苦情は入っているようだ。
「鮮血の剣の出現は確定なんでしょ。あなたの調査は無駄にはなっていないわ。面倒な聞き込みとかは帝都の連中に任せておいて、わたしたちは高みの見物といきましょう」
「本当に手を引く気ですか?」
「まさか、冗談でしょ」
ローズが抱えていた籠をフレアに手渡す。
「旧市街の貴族が絡んできているとなれば、わたし達では直接手が出しにくいですからね。これからはわたし達でできる方法でやっていきましょう」
「はい」とはいったものの、フレアはまだ昨夜の調査結果をローズに話してはいない。昨夜はローズもいろいろと動いていたらしい。
「とりあえず、空の上からの監視から始めましょう」
ローズはフレアが持つ籠からインク壺と絵筆を取り出した。彼女は羽ペンを使い牛の頭を取り囲むように器用に魔法陣を描いていく。次はロウソクを配置し、牛の頭に奇妙な文様を描き始めた。
「何か呼び出すんですか?」
何度か術式を目にしているので予想はつく。
「ええ、使い魔にわたしの目になってもらおうと思ってね」
テーブル上の飾りつけとインクなどを片づけてを終えて、ローズは籠から古びた革表紙の本を取り出した。いわゆる魔導書というものである。本を右手に持ち、左手の指を鳴らす。すべてのロウソクに火が灯り牛の頭を照らす。
ローズが妖魔召喚呪文の詠唱を始めると、ローズが手にしていた魔導書が自ら意思を持っているいるかのように開き、その頁をめくり始めた。魔導書は三分の一程度のところで頁が動きを止めた。そこにはローズが牛の頭に描いたものと同じ文様が記されていた。ローズが淡々と詠唱する呪文に反応して、魔導書の文様が赤く輝き始める。ローズはそれに軽く人差し指で触れ、その後指をそっと牛の頭に添えた。
その瞬間、ロウソクの火ばかりかランプの灯りまでが消え、部屋は闇に落ちた。ローズが牛の頭から指を放すと死んでいるはずの牛の皮膚がビクビクと波打ち始めた。面長だった牛の顔は徐々に丸みを帯び、耳が長く伸び、それはしなやかな皮膜で形作られた翼へと形を変えた。
やがて、牛の頭は黒い目と口ばかりが大きい蝙蝠のような妖魔へ変わった。変容が完了すると蝙蝠はその場から宙に舞い上がった。申し訳程度の小さな足と毛の生えていない長い尻尾がふらふらとしている。体が牛の頭ほどあるため、蝙蝠としてはかなり巨大である。
「不細工な奴ですね」フレアがわずかに牛の面差しを残す蝙蝠を見ていった。
蝙蝠はフレアを睨み付け威嚇の叫びをあげた。
「わたしがこのオジーとともに剣の在りかを探します」蝙蝠が声を上げる。
既に名前は決まっているようだ。それとも蝙蝠がローズにそう名乗ったのか。
「あなたはわたしの指示に従い現場に急行し、剣を乗り物とともに取り押さえなさい」
また、蝙蝠が声を上げる。
「気合入ってますね」
「久しぶりにこっちに来たからでしょう。あなたも用意なさい。今夜も忙しくなるわ」
二人が塔を出る頃に降り出した雨は、まもなく激しく街路を打ちつけるものとなった。砂漠に囲まれた帝都であるが、海から吹きこむ湿った風が街に潤いをもたらす。新市街の服飾協同組合会館はこの辺りでは最も高い五階建ての建物である。大粒の雨に打たれながら、フレアはその半ば物置と化している屋上に佇んでいた。上空にはローズの意識を乗せたオジーが旋回しているはずなのだが、まだ連絡はない。
魔法感知能力を持つ妖魔を乗り物として使役し、その知覚を使用することにより剣の在りかを探し出す。その提案は実に異例なものだった。フレアは塔やローズ本体を、不用意に危険にさらしてまで捜索するローズの入れ込みようには、妙な違和感を感じた。いつもの軽さが感じられない。何かを隠しているのか歯切れの悪さもある。
「こうして、空から見てみると思いのほか反応が多いものね。この新市街でも数える気が萎えるほど多いわ」
「どういうことですか?魔器なんて簡単に持ち込めないはずなのに…」
「動かない反応の大半はコバヤシの通信機に仕込んである魔石でしょうね。動きの怪しいものを当たっていくわ」
この世界の魔導技術、錬金術そして渡来人コバヤシの技術が融合し、品質にばらつきが少ない魔石を大量に生産することが可能となった。そしてその応用例として魔導通信機が開発された。通信機は固定式、イヤリングやネックレスなどの装着式と様々な形式のものが急速に普及している。だがそのことがローズにとってあだになるとは全く予想外のことだった。
「一時の方向、他のものとは反応が違うわ。三番通りの辺りを東に向かってる」
「わかりました」
フレアは協同組合会館の北側から飛び出し、北隣の三階建ての屋上へと飛び降りる。その屋上を走り抜けさらに北へ向かう。屋根伝いならば直線的に動くことができるが、数ブロックの距離はフレアの足であっても短い距離ではない。
新市街上空でオジーの目を使ったローズは最初その反応の多さに戸惑ったが、すぐにそれらを選別するための術を悟った。とても追い切れる数ではない光点は大半は均質でかつ弱いものだった。それを排除すると残った特異なものは一割に満たないほどの数まで減った。
ローズはオジーを急降下させ、まずは北の三番通りで発見された大きな光点へと向かった。歪で大きく白い光点であるローズがそれに近づいていくと光の中に白い羽毛に包まれた生き物がいるのがわかった。
「フクロウ…?」
それは羽毛に包まれた目の大きな鳥に見えたが、光に包まれていることからこの世の生き物ではないのは明白だった。依代の違いにより見た目は違うがオジーと同種の妖魔に間違いない。
ローズはフクロウのすぐ直下にも同種の光点が複数あることを発見した。遠目ではそれらが一つに見えたのだ。眼下の光の中には白いベールで顔を隠している法服の人影。傍には白い鎖帷子の僧兵が二名護衛についている。これでなぜ白服があれほど早く事件現場に駆けつけることができたのか、その謎が解けた。特別部は捜索当初から妖魔を使い監視していたに違いない。
幸いフクロウはこちらに気がついていない様子。ローズを面倒が起らないようオジーを上空へと退避させた。ローズはこの白服と思われる反応を捜索対象から除外した。そして次に異質な鮮やかな赤の反応。ローズはオジーと共にそこから最も近い四時方向で六番通りを移動中の光点へと向かった。
屋根伝いに移動中のフレアの耳にローズの口汚いつぶやきが聞こえてきた。そして北に向かっていたフレアは急遽南へ向かうように指示を受けた。
今の場所からそう離れてはいない。フレアは全力で跳びはね、そちらへと向かう。しかし、足場はかなり危ない。レンガをたっぷり用いたの商店などならまだ安心だが、一般の住宅は屋根が薄く踏み抜いてしまう可能性がある。慎重に建物を支える梁や壁の上を移動する必要がある。足元は滑りやすく、濡れて雨水をたっぷり含んだ衣服は体にまとわりつく。フレアがもう少しで六番通りの指定場所付近にたどり着くという時に、また悪態と共に東へ向かうようローズからの指示がきた。彼女は上空で何を見ているのか酷くイラついているようだ。
光点の正体は特化の男だった。デヴィット・ビンチ、事あるごとに絡んでくるこの男は、今夜もつい今しがた砂漠から帰ってきたような服装をしている。だが彼にはこれが平服である。
ローズが発見した時は彼は煙草を吸い、居酒屋の軒先で雨宿りをしているという雰囲気だった。彼は見たところ一人のようだが、相棒はどこに行ったのだろうか。派手男ニッキー・フィックスの姿が見えない。あまり近づきすぎて彼と契約を結んでいる精霊に関心を持たれてはまずい。ローズはオジーを上昇させ次の光点へと向かった。
フレアは足もとの悪い屋根から街路へと降りた。とりあえず、向かうのは塔のそばのようだ。そこで待機しているように指示がきた。この雨の中だが、白服や特化なども出てきているらしい。この先は慎重に動かないといけない。気配を消すことには慣れている。少し前まではそうして狩りし、そして逃走していた。
ローズがこれまで確認した反応は害のない民生品と帝都治安関係者のものだった。それらの反応の特徴がわかったのは良いが、肝心の剣はまだ現れてはいない。最初は上から眺めれば見つかるだろうと安易に考えていたが、それなら早々と同じ方法を用いている白服がもう秘密裏に解決していただろう。彼らもバカではない。
剣は隠れるための手段を準備しているのだろう。しかし、犯行時は姿をさらすこととなるはずだ。今はただ、時が来るのを待つのみ。朝までには出てくるだろう。
剣を待ち夜半過ぎとなった。妖魔の体を借りてではあるが、外気や風雨にさらされることはローズにとっていい気晴らしとなった。
ふとフレアはどうしているかとフレアとのイヤリングの回線を開いてみると、使い慣れないオジーの聴覚を介して、けたたましいざわめきがなだれ込んできた。何の騒ぎかと聞きいるとそれは酔って騒ぐ人々の声と、注文を復唱する店員の声。
「フレア、あなたはそこで何をしているの!」
「指示通り待機しています」
確かに待機命令は出したが居酒屋でくつろいでもよいといった覚えはない。
「外で待機していたところをおかみさんに見つかりまして、現在店内で待機しています」
闇に隠れ潜んでいる狼人を見つけ出す居酒屋のおかみとはいったいどういう存在なのか。
それからしばらくフレアは周りの人々も巻き込み言い訳を続け、ローズはそれらを聞き流しつつ、再び光点の観察に戻った。
ややあって、それはようやく姿を現した。深紅に黒い靄を纏ったような異質な反応。運河の東側の工房区の中である。それはゆっくりと東へと向かっている。一瞬遅れて街中に赤い反応が多数現れた。それらはどれも二個一組、おそらく隠れていた特化隊士。街中に散開していた光点が一気に深紅の光点へと向かっていく。他新市街の多数の光点がそれに向かって押し寄せていく。ようやく現れたようだ。
「お遊びの時間は終わりよ。そこから十時の方向、工房区の中を東に移動中。急ぎなさい」
「了解です」
「皆さん、今話題の串刺し魔が今夜も姿を現したようです」
フレアは鮮血の剣ではなく新聞報道に出ていた方の呼び名を使った。効き目は抜群で店内はたちまち騒然となった。
「皆さんお静かに」フレアが両手が打ち鳴らし酔客達に呼びかける。
「わたしはこれから出掛けなくてはなりませんが、皆さんはここにいてください。ここなら安全です。騒ぎはローズ様が収めてくださるでしょう」
「バカやってないで急ぎなさい」
特化、特別部などによる合同捜査班は西、北側から剣と思われる反応に向けて急行しているが、東側は圧倒的に人員が薄い。これならばフレアが先着できそうである。
フレアは雨の中を全力で走り始める。普段人通りの多い街路だが雨のためか、それとも串刺し魔報道のためか人通りはほとんどない。フレアにとって今夜はその方が都合がよい。やがて、新市街工房区の東端辺りに到達した。ローズによれば帝都側はこの辺りを西側から取り囲んでいるらしい。合同捜査隊は剣を新市街に封じ込める作戦か……。
「そこから一つ先の角を左折して、剣は今は西に移動中。警備隊もうろうろしているから気を付けて」
左折して入った路地はほぼ物置と化し、出荷待ちのレンガや素材の土などが入った袋が山積みにされている。すぐ傍の建物から明かりが漏れだしてきている。こんな夜中でも働いている者がいるようだ。フレアはレンガの山の間をすり抜け先を急ぐ。簡単に上れるが壊れると問題だ。
「剣が止まったわ。次を右折、急いで」
フレアは近くで人の気配を感じ建物の屋根に素早く上った。気配の主は警備隊員だった。青い鎧の男達は南へ足早に去っていった。
「消えたわ……」
「えっ……」
「剣の反応が消えたの。現れた時と同じく唐突にね」
ローズのため息が聞こえてきた。
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