第30話 カタギリ・ファミリー(2)

 オータム区へつながる高速道路に乗り、コテージに最も近い出口直前にあるパーキングへ入った。それなりに規模のある売店やダイナー、休憩所がある。滅多に使わないが、夜でも数人の利用者がいた。

 車を降りて、色のないステンドガラスのように全面ガラス張りになった施設に入る。土産屋を通り過ぎて(碌な物がない)、ベーカリーで半額になっていたものを適当に買うと、帰り支度を始めていた店主がフランクフルトを一本おまけすると言った。アルミホイルで包み、無造作に袋へ入れてくれる。「喉に串を刺さんようにな!」

 自動販売機で買えば同じ量を半額以下で買えるコーヒーを無人サーバーで買い、車へ戻る。

 ドリンクホルダーにカップを差し込み、まだあたたかいベーカリーの袋を助手席に乗せ、少し考える。

 車をもう一度施錠し、売店などが入っている施設とは別に建っている手洗い場へ向かった。こちらは随分と古い建物だった。見れば、女子側の方にパイプの足場が中途半端に組まれている。改装予定の貼り紙がしてあった。

 自動ドアの奥で男女に分かれ、青緑の色彩でまとめられた男子用の道を進む。

 個室は十室あったが、入り口の電子案内盤の表示では全て空いていた。

 四つ並んだ洗面器と蛇口、横に長い鏡の前を歩く。床にせよ天井にせよ、あまり四隅は注意深く見ない方がいい衛生環境だった。

 ——カタン、と軽い音がした。

 ケヴィンが振り返ると、そこには目に痛い蛍光色のジャンパーに同じ色のキャップを被った男が立て看板を床に置くところだった。そのそばにもう一人、同じ格好の男がいる。顔はキャップのつばで隠れてよく見えないが、どちらも非常に健康そうだった。

「清掃か?」ケヴィンは聞いた。「出ようか?」

「いえ、お気遣いなく」

「そうか?」

「ええ。少し騒がしくなるかもしれませんが。すみません」

「気にすることはない、騒がしいのは大好きだ」

 ケヴィンはそこで不思議そうな顔をした。

「ただ——君たちは少しお茶目だな。掃除用具の一つも持ってないなんて」 

「用具入れは奥にあるんですよ」

「これは失礼」

 男の一人がケヴィンの方へ歩き、そして横を通り過ぎた。鏡を見れば、背丈はほとんど同じだった。

 もう一人の男は洗面台の蛇口を一つ一つ捻っては水の出を確認しているようだ。一つ目を丁重に確認し、二つ目をこれもまた丁重に確認し、三つ目に手をかける。

 そして顔をケヴィンに向けた。男にしては長い黒髪をキャップに押し込んでいる。キャップのつばの奥から覗く目は寄り道せずケヴィンを見た。

「どうぞお構いなく」

 反射ではなかった。

 体が動いたのは。ケヴィンが振り返ったのは反射神経によるものではなく、勘に近いものだった。脳で考える前に、脊髄に電撃が走る前にそうしていた。

 振り向きざま、既に振り下ろされていた拳は顔の左側を通り過ぎた。髪の毛先が拳にあたる音を聞いた。

 避けるため右へ重心の下がった体に、背後から四本の腕が巻きつく。そのうち二本は足だ。足だというのに腕のような力で巻き付いた。

 後ろへ引き倒される。そう察して無理やり体を捻る。キャップが一つ床の上に転がる。黒い髪がケヴィンの顔にもかかった。背後から抱きついた男が濡れた布をケヴィンの口と鼻に押し当てる——押し当てるというレベルではない。鼻を押し潰すような力だ。

 同時に首を絞められ、喉にあった空気が締め出される。すると、体は酸素を求めて息を吸う。

 微かに甘いような匂いと共に、砂を飲んだような焼け付く感触が喉に張り付く。

「ッ、ぅ——ぎぃ!」

 その場で横に体を捻り、勢いをつけて背中から洗面台へ飛び込む。下敷きにされた男が埋めいた。蛇口にでも背中を抉られたのだろう、巻き付いていた手足が解ける。

 よろつきながら足を床につける。折れそうになる膝をこらえて前を見る。

 拳。

 咄嗟に顔を庇った。だが軍手を嵌めたその拳はケヴィンの腹に突き刺さった。

 混乱していた。喉に張り付いた熱と砂が煩わしい。

 その苛立ち任せに、抜けようとする腕を掴んで横殴りに拳を突き出す。すぐに生暖かく硬いものにぶつかった。

「あ、あ! ああ!」

 ちょうど口元に当たったのだろう。口元を抑える男が、血走った目を向ける。

「良いアッパーだ。顔を見せろ」

「このビッチが!」

「——は、」

 思いがけない罵声に一瞬呆けるが、それが逆に頭の混乱を一時的に押し流した。

 顔を狙った横殴りの拳を手で弾き、踏み込む。男は大柄な体躯に反して敏捷だった。突き出した腕をバネのように弾き戻し、倍の速さでまた突き出す。今度は掠るのも危うい。顎を逸らす必要があった。

 避けるため体をひねり、その反動で下から拳を突き上げる。男はそれを受け止めた。強く。

 男に強く抱きしめられた自分の拳を支点に、ケヴィンは側転するように足を跳ね上げた。靴底が強かに男の横顔を蹴りつける。

 衝撃で男は大きく揺れ、倒れ——なかった。

「楽になれ!」

 仕方なく男の顔を蹴った足をそのまま首に巻きつける。両足をトラバサミのようにして頸動脈を圧迫する。太ももに男の首を流れる血の震えを感じた。

 足では足りない。ケヴィンは首に巻いていたネクタイを片手で千切るように抜き取り、それを男の首に新たに巻きつける。手加減が難しいが、やらなければいずれこのネクタイを使われるのは自分だ。

 だが男を締め落とす前に、もう一人の男がズボンに巻いたポーチからプラスチックのボトルを取り出し、無造作に中身をケヴィンの顔めがけてかけた。

 それが何か——ともかく香水や健康飲料でないことは確かだ。

 だが怯んだ一瞬の隙に、気絶寸前に顔を真っ赤にした男がケヴィンを床へ押し倒した。

「あ、! っぐ」

 後頭部に鈍痛。湿った匂い。汗ばんだ男の皮膚。肉の感触。体臭。黴。重さ。

 全てが最悪だ。

 顔にかかった液体が口に入り、どうにか吐き出そうとするが、もう一人の男が床に押し倒され、ケヴィンの口元の真上に先ほどの布を広げる——ご丁寧にボトルの残りを滴るほど掛けてから。

 滴る薬品を浴びながら——布がゆっくりと下りてくる。葬式で遺体に被せるそれのように。

 だが、その時布を持った男が弾かれたように動きを止めた。そしてすぐに、ケヴィンの上にのしかかっていた男の肩を叩く。

 靴音が聞こえた。ゴツ、とやけに重い音がする。アサルトブーツだろうか、登山用の。

 どうやら清掃中の看板にも関わらず、膀胱の危機を迎えている男がいるらしい。

 声を上げようにも口を濡れた布で塞がれ、ケヴィンは大柄な男に抱え上げられた。そのまま足早に男三人は一番奥の個室へ入った。

 個室の鍵が閉まった後、誰かがトイレに入ってきた。

 ゴツ、ゴツ、と険しい足音はタイルを踏み——そしてすぐに止まった。

 水の流れる音がした。洗面台のどれかだろう。ケヴィンが最初に薬物男を叩き落とした拍子に蛇口が捻られたのか、水が出しっ放しになっている。

 キュッと小気味よい音がした。

 そして、再び足音が始まった。

 ゴツ、ゴツ、と足音が鳴る。清掃中にも関わらず飛び込んできたにはやけにのんびりとした足取りだ。かといって、間に合うことができなかった失意の男にしては軽快だ。

 ——足音は、丁度三人がいる個室の前で止まった。

 

 コンコン、と軽いノックがあった。

 ケヴィンを抱えている男は、まるで初めて一人で眠る子供がぬいぐるみにするようにケヴィンを抱きしめた。もう一人の男は、ケヴィンの口に布を押し付けていたが、緊張した面持ちはドアに向けられていた。

「……入ってますよ」

 男が言った。どちらが言ったのかは、ケヴィンには判別できなかった。

 だが、もう一度ノックがあった。コンコンコン、と。三度。

「入ってます」

 同じ声がもう一度言った。顔に汗が浮いていた。個室の中はひどい湿度だった。

 すると初めて、ノック以外の音があった。

「弟」

 と、声。

 ドアの向こうから声がした。

 寂れた公衆トイレにそぐわない優雅な声だった。

「弟、そこにいるんだろ?」

 サリ、と音がした。

 ドアの表面を撫でている。指が。

「顔を見せてくれ、弟」

「すみません」男が淡々と言った。だが顎から汗が流れた。「人違いです、他の場所を使ってください……腹の調子が悪いんです」

 ドアの向こうが沈黙した。

 カチャ、とごく小さな音がした。ごく小さな音だというのに、それを聞き逃したものは、意識に靄がかかっていたケヴィンも含めて、いなかった。

「弟、」

「——人違いだって言ってんだろ!」

 その瞬間、叫んだ男が縦に痙攣したかと思うと、その場に倒れた。狭い足場に丸められた雑紙のように折れ曲がり、それからピクリとも——よく見ると小刻みにピクピクと震えている。

 個室のドアが開いた。鍵は開いていた。倒れた男が開けたのだろう。

 倒れた男は、つまり金属の施錠器具に触れたのだ。

 そしてドアの向こうの人物は、ヒュウ、と口笛を吹いた。

 スタンガンを右手に。

「兄と弟の再会に水を差すのがどれだけ罪深いことか分かるか?」

 そう言ったのも男だった。薄い緑の入ったサングラスをかけている。痛みのないブロンドは無造作になでつけられて、いくつか額に下りてきていた。涼しげな眉を覆い隠し、薄い青の瞳はレンズの色と混じり合って遠洋の海の色に化けている。

 全体的に仕立てのいいダークグレーのスーツだが、ジャケットはまさか内勤とは思えない重厚な生地で、極め付けは足元のブーツだ。まるで雪山に登るようなブーツを、しかしちぐはぐには感じさせない光沢のある造りで黙らせている。

「なあ」と、その男は言った。「一体全体、お前は誰の許可を得て、俺の弟を抱きしめているんだ?」

 お前、と呼ばれた方の男はジャンパーの表面をクシャクシャと鳴らした。駄々っ子のようにケヴィンを抱えて離さないが、それは男の本意ではないだろう。大柄な男がテディベアを愛することは罪ではないが、この男は別に寂しさを紛らわせたくてケヴィンを抱いているわけではない。

「兄の俺がいるにも関わらず、兄の俺を差し置いて弟を抱く権利がお前にあるのか?」

「なんでだ? 誰がお前に許可した?」

「裁判所か? 行政か? お前の親か? 違うのか? そこで寝てる不細工か?」

「責めているわけじゃないんだ。怖がらなくていい。教えて欲しいだけなんだ」

「——答えられないなら、とっとと俺の弟を返してくれないか?」

 そして弟は兄の腕の中へ戻された。差し出された弟を、兄は優しく受け止めた。

「どうもありがとう」

 そう言って個室のドアを閉める。

 そして兄は弟を連れ、水が溜まった洗面器にその頭を突っ込んだ。

 前触れもなくケヴィンの首から上にある穴に水が入り込む。生存本能が一斉に目覚め、一秒となく跳ね起きる。

 激しく咽せる。水滴が散った。前髪が濡れて顔に貼り付く。

 鏡に映る男は、ずぶ濡れの男のすぐそばで携帯を操作していた。

「——ズィズィ、俺だ。オータム手前のパーキングエリア、そこの男子トイレで不良が喧嘩をしていると交通警備隊に通報しろ。それが終わったら今日は終業だ。明日以降のスケジュールは正午に連絡する」

 通話を切る。

 ハア、と文字に書き起こすに十分な大きさでため息をついた。つい一瞬前まで部下に指示を出していたその口で。

 古ぼけたトイレの蛍光灯が危うげに一瞬点滅する。

「174通だ」

 唐突に男が言った。「174通。今年になってから十一ヶ月で俺がお前に送り、お前が定型分のひとつも返さなかったメールの数だ」

「……送り過ぎだ。今時のメールボックスは賢くてな、俺が目を通す前に自動でフォルダ分けする」

 それは嘘だった。アドレス帳に登録のある相手からのメールがゴミ箱に放り込まれるわけはない。ケヴィンが定期的に一括選択し、焼却炉に放り込んでいる。

「弟。さっきのは友達か?」

「そう見えたか?」

「一応聞いてみただけだ。友達だったら一言謝らないと」

 一言謝る、それだけでスタンガンで感電させた罪は帳消しだ。その思考回路にケヴィンは素直に呆れた。今も個室の方は沈黙している。その状況を作り出した元凶は、携帯を持つ手とは逆の手にまだスタンガンを持っている。

「ヒース」

 ケヴィンが呼んだ。その男の名前を。

 兄の名前を。

「ヒース、なんで此処にいる?」

「弟がいる場所に兄がいることが不思議か?」

「それは……」

「まあ待て、感動の再会はもう台無しだ。仕切り直そう」ヒースは携帯とスタンガンを仕舞うと、ケヴィンの肩を持った。「お前の別荘に案内してくれ。そこでもう一度、最初からやり直そう。俺がドアを叩いて、お前がドアを開ける」

 ヒースに押されるようにして、そして同時に肩を貸されながらケヴィンも公衆トイレを出た。数人出歩いているものがいたが、ヒースが自然にその視線を遮っている。

「ドアを開けたら抱き締め合う——その前にシャワーを浴びて。運転は出来るか? いや、無理するな、俺がお前の車で行く。俺の車は置いていけばいい、どうせ社用車だ」

「ヒース、」

「ケヴィン」

 にこやかだったヒースの声音が変わった。不意にケヴィンの肩を掴む手が強烈な圧力を発生させた。

 それで十分だった。

 そしてヒースはケヴィンのスーツから車の鍵を抜き取ると、助手席へケヴィンを乗せた。ドアが開くと、自動的に車内のライトが点灯した。暖かなオレンジ色の光が。

 開いた助手席のドアに手をかけ、ヒースは笑顔でケヴィンの胸元へシートベルトを回した。

「逆らうな」ヒースが言った。「俺に任せろ。いいな?」

 ヒースは笑顔だった。精悍な顔つきに晴れやかな笑顔を浮かべ、力の入らないケヴィンの手足をリクライニングのあるべき位置へそっと置く。

「お前はよくやった。だが、俺が許せるのはここまでだ」

 そう言って、ヒースはドアを閉めた。

 ドアが閉まると、車内は暗くなった。フロントガラスの向こうに星空が見える。

 ケヴィンはついに目を閉じた。

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