「おいこれから曲がって、いよいよ登るんだろう」と圭さんが振り返る。

 「ここを曲がるかね」

 「なんでも突き当りに寺の石段が見えるから、門をはいらずに左へ回れと教えたぜ」

 「どんじいさんがか」と碌さんはしきりに胸をで回す。

 「そうさ」

 「あの爺さんが、なにを言うか分ったもんじゃない」

 「なぜ」

 「なぜって、世の中に商売もあろうに、饂飩屋になるなんて、第一それからがりようけんだ」

 「饂飩屋だって正業だ。金を積んで、貧乏人を圧迫するのを道楽にするような人間よりはるかにたつといさ」

 「尊といかもしれないが、どうも饂飩屋は性に合わない。──しかし、とうとう饂飩を食わせられた今となってみると、いくら饂飩屋のていしゆを恨んでも後の祭りだから、まあ、我慢して、ここから曲がってやろう」

 「石段は見えるが、あれが寺かなあ、本堂もなにもないぜ」

 「阿蘇の火で焼けちまったんだろう。だからいわないことじゃない。──おい、天気が少々けんのんになってきたぜ」

 「なに、大丈夫だ。てんゆうがあるんだから」

 「どこに」

 「どこにでもあるさ。意思のあるところには天祐がごろごろしているものだ」

 「どうも君は自信家だ。剛健党になるかと思うと、天祐派になる。この次ぎにはてんちゆうぐみにでもなってつくさんこもるつもりだろう」

 「なに豆腐屋時代から天誅組さ。──貧乏人をいじめるような──豆腐屋だって人間だ──いじめるって、なんらの利害もないんだぜ、ただ道楽なんだから驚ろく」

 「いつそんな目にったんだい」

 「いつでもいいさ。けつちゆうといえば古来から悪人として通り者だが、二十世紀はこの桀紂で充満しているんだぜ。しかも文明の皮を厚くかぶってるからにくらしい」

 「皮ばかりで中味のないほうがいいくらいなものかな。やっぱり、金がありすぎて、退屈だと、そんながしたくなるんだね。馬鹿に金を持たせるとたいがい桀紂になりたがるんだろう。僕のようなとくの君子は貧乏だし、彼等のような愚劣な輩は、人を苦しめるために金銭を使っているし、困った世の中だなあ。いっそ、どうだい、そういう、ももんがあをじつとからげにして、阿蘇の噴火口からまつさかさまに地獄の下へ落しちまったら」

 「いまに落としてやる」と圭さんは薄黒くうずけむりを仰いで、草鞋わらじあしをうんとふんった。

 「たいへんな権幕だね。君、大丈夫かい。十把一とからげをほうり込まないうちに、君が飛び込んじゃいけないぜ」

 「あの音は壮烈だな」

 「足の下が、もう揺れているようだ。──おいちょっと、地面へ耳をつけて聞いてみたまえ」

 「どんなだい」

 「非常な音だ。たしかに足の下がうなってる」

 「その割に烟りがこないな」

 「風のせいだ。北風だから、右へ吹きつけるんだ」

 「が多いから、方角が分らない。もう少し登ったら見当がつくだろう」

 しばらくは雑木林の間を行く。道幅は三尺に足らぬ。いくら仲がくても並んでくわけにはいかぬ。圭さんは大きな足をゆうゆうと振って先へく。碌さんは小さな体軀からだをすぼめて、またに後からいて行く。尾いて行きながら、圭さんのあしあとの大きいのに感心している。感心しながら歩行いて行くと、だんだんおくれてしまう。

 みちは左右に曲折してつまさきあがりだから、三十分と立たぬうちに、圭さんの影を見失った。樹と樹の間をすかして見てもなんにも見えぬ。山を下りる人は一人もない。あがるものにもまったく出合わない。ただところどころに馬の足跡がある。たまに草鞋の切れがいばらにかかっている。そのほかに人のしきはさらにない、饂飩腹の碌さんは少々心細くなった。

 きのうの澄み切った空にえて、今朝宿を立つ時からの霧模様には少しねんもあったが、晴れさえすればと、好い加減なことを頼みにして、とうとう阿蘇の社まではけた。白木の宮にの鳴らすかしわが、森閑と立つ杉のこずえに響いた時、見上げる空から、ぽつりとなにやら額に落ちた。饂飩を煮る湯気が障子の破れから、吹いて、白く右へなびいたころから、ひるぎは雨かなとも思われた。

 雑木林をはんみちほど来たら、怪しい空がとうとう持ち切れなくなったとみえて、梢にしたたる雨の音が、さあと北の方へ走る。あとから、すぐ新しい音が耳をかすめて、ひるがえる木の葉とともにまた北の方へ走る。碌さんは首を縮めて、えっとしたちをした。

 一時間ほどで林は尽きる。尽きるといわんよりは、一度に消えるというほうが適当であろう。ふり返る、うしろは知らず、貫いて来たひとすじみちのほかは、東も西もぼうぼうたる青草が波を打って幾段となく連なるあとから、むくむくと黒い烟りが持ち上がってくる。噴火口こそ見えないが、烟りの出るのは、つい鼻の先である。

 林が尽きて、青い原を半丁と行かぬ所に、大入道の圭さんが空を仰いで立っている。蝙蝠傘こうもりは畳んだまま、帽子さえ、かぶらずにいがぐりあたまをぬっくと草から上へ突き出して地形を見回している様子だ。

 「おうい。少し待ってくれ」

 「おうい。荒れてきたぞ。荒れてきたぞうう。しっかりしろう」

 「しっかりするから、少し待ってくれえ」と碌さんは一生懸命に草のなかをい上がる。ようやく追いつく碌さんを待ち受けて、

 「おいなにをしているんだ」と圭さんがっつける。

 「だから饂飩じゃ駄目だと言ったんだ。ああ苦しい。──おい君の顔はどうしたんだ。真黒だ」

 「そうか、君のも真黒だ」

 圭さんは、ぞうに白地の浴衣ゆかたかたそでで、頭から顔を撫で回す。碌さんは腰から、ハンケチを出す。

 「なるほど、くと、着物がどす黒くなる」

 「僕のハンケチも、こんなだ」

 「ひどいものだな」と圭さんは雨のなかに坊主頭をさらしながら、空模様を見回す。

 「だ。が雨に溶けて降ってくるんだ。そら、そのすすきの上を見たまえ」と碌さんが指をさす。長い薄の葉は一面に灰を浴びてれながら、なびく。

 「なるほど」

 「困ったな、こりゃ」

 「なあに大丈夫だ。ついそこだもの。あの烟りの出る所をあてにして行けばわけはない」

 「わけはなさそうだが、これじゃ路が分らないぜ」

 「だから、さっきから、待っていたのさ。ここを左へ行くか、右へ行くかという、ちょうどまたの所なんだ」

 「なるほど、両方とも路になってるね。──しかし烟りの見当からいうと、左へ曲がるほうがよさそうだ」

 「君はそう思うか。僕は右へ行くつもりだ」

 「どうして」

 「どうしてって、右の方には馬の足跡があるが、左の方には少しもない」

 「そうかい」と碌さんは、身軀からだを前に曲げながら、おおいかかる草を押し分けて、五、六歩、左の方へ進んだが、すぐに取って返して、

 「駄目のようだ。足跡は一つも見当らない」と言った。

 「ないだろう」

 「そっちにはあるかい」

 「うん。たった二つある」

 「二つぎりかい」

 「そうさ。たった二つだ。そら、こことここに」と圭さんはしゆばり蝙蝠傘こうもりの先で、かぶさる薄の下に、かすかに残る馬の足跡を見せる。

 「これだけかい、心細いな」

 「なに大丈夫だ」

 「天祐じゃないか、君の天祐はあてにならないことおびただしいよ」

 「なにこれが天祐さ」と圭さんが言いおわらぬうちに、雨をいてさつとおろす一陣の風が、碌さんのむぎわらぼうを遠慮なく、吹き込めて、五、六間先まで飛ばして行く。目に余る青草は、風を受けて一度に向うへ靡いて、見るうちに色が変ると思うと、また靡き返してもとさまもどる。

 「痛快だ。風の飛んで行く足跡が草の上に見える。あれを見たまえ」と圭さんが幾重となく起伏する青い草の海を指す。

 「痛快でもないぜ。帽子が飛んじまった」

 「帽子が飛んだ? いいじゃないか帽子が飛んだって。取ってくるさ。取って来てやろうか」

 圭さんは、いきなり、自分の帽子の上へ蝙蝠傘を重しに置いて、颯と、薄の中に飛び込んだ。

 「おいこの見当か」

 「もう少し左だ」

 圭さんの身軀はしだいに青いものの中に、深くはまって行く。しまいには首だけになった。あとに残った碌さんはまた心配になる。

 「おうい。大丈夫か」

 「なんだあ」と向うの首から声が出る。

 「大丈夫かよう」

 やがて圭さんの首が見えなくなった。

 「おうい」

 鼻の先から出るくろけむりはねずみいろまるばしらの各部がたえなくぜんどうを起しつつあるごとく、むくむくと捲き上がって、半空から大気のうちに溶け込んで碌さんの頭の上へ容赦なく雨とともに落ちてくる。碌さんはしようぜんとして、首の消えた方角を見詰めている。

 しばらくすると、まるで見当の違った半丁ほど先きに、圭さんの首がこつぜんと現われた。

 「帽子はないぞう」

 「帽子は入らないよう。はやく帰ってこうい」

 圭さんは坊主頭を振り立てながら、薄の中を泳いでくる。

 「おい、どこへ飛ばしたんだい」

 「どこだか、相談がまとまらないうちに飛ばしちまったんだ。帽子はいいが、ある行くのはいやになったよ」

 「もういやになったのか。まだあるかないじゃないか」

 「あの烟と、この雨を見ると、なんだかものすごくって、あるく元気がなくなるね」

 「今からねちゃ仕方がない。──壮快じゃないか。あのむくむく烟の出てくるところは」

 「そのむくむくが気味が悪るいんだ」

 「じようだん言っちゃ、いけない。あの烟のそばへ行くんだよ。そうして、あの中をのぞき込むんだよ」

 「考えるとまったくよけいなことだね。そうして覗き込んだうえに飛び込めば世話はない」

 「ともかくもあるこう」

 「ハハハハともかくもか。君がともかくもと言いだすと、ついり込まれるよ。さっきもともかくもで、とうとう饂飩を食っちまった。これで赤痢にでもかればまったくともかくものおかげだ」

 「いいさ、僕が責任を持つから」

 「僕の病気の責任を持ったって、しようがないじゃないか。僕の代理に病気になれもしまい」

 「まあ、いいさ。僕が看病をして、僕が伝染して、本人の君は助けるようにしてやるよ」

 「そうか、それじゃ安心だ。まあ、少々あるくかな」

 「そら、天気もだいぶよくなってきたよ。やっぱり天祐があるんだよ」

 「ありがたい仕合せだ。あるくことはあるくが、今夜は御馳走を食わせなくっちゃ、いやだぜ」

 「また御馳走か。あるきさえすればきっと食わせるよ」

 「それから……」

 「まだなにか注文があるのかい」

 「うん」

 「なんだい」

 「君の経歴を聞かせるか」

 「僕の経歴って、君が知ってるとおりさ」

 「僕が知ってるまえのさ。君が豆腐屋の小僧であった時分から……」

 「小僧じゃないぜ、これでも豆腐屋のせがれなんだ」

 「その伜の時、かんけいかねの音を聞いて、急に金持がにくらしくなった、因縁話をさ」

 「ハハハハそんなに聞きたければ話すよ。その代り剛健党にならなくちゃいけないぜ。君なんざあ、金持の悪党を相手にしたことがないから、そんなに吞気なんだ。君はディッケンズの両都物語りという本を読んだことがあるか」

 「ないよ。伊賀の水月は読んだが、ディッケンズは読まない」

 「それだからなお貧民に同情が薄いんだ。──あの本のねまいの方に、お医者さんの獄中でかいた日記があるがね。悲惨なものだよ」

 「へえ、どんなものだい」

 「そりゃ君、ふつこくの革命の起るまえに、貴族が暴威を振って細民を苦しめたことがかいてあるんだが。──それも今夜僕が寐ながら話してやろう」

 「うん」

 「なあに仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりゃ、ああなるのは自然の理屈だからね。ほら、あのごうごう鳴って吹き出すのと同じことさ」と圭さんは立ち留まって、黒い烟の方を見る。

 もうもうと天地をとざしゆうを突き抜いて、百里の底から沸きのぼる濃いものがうずを捲き、渦を捲いて、幾百トンの量とも知れず立ち上がる。その幾百噸の烟りの一分子がことごとく震動して爆発するかと思わるるほどの音が、遠い遠い奥の方から、濃いものとともに頭の上へおどり上がって来る。

 雨と風のなかに、毛虫のようなまゆあつめて、余念もなく眺めていた、圭さんが、非常な落ち付いた調子で、

 「雄大だろう、君」と言った。

 「まったく雄大だ」と碌さんもで答えた。

 「恐ろしいくらいだ」しばらく時をきって、碌さんが付け加えた言葉はこれである。

 「僕の精神はあれだよ」と圭さんが言う。

 「革命か」

 「うん。文明の革命さ」

 「文明の革命とは」

 「血を流さないのさ」

 「刀を使わなければ、なにを使うのだい」

 圭さんは、なんにも言わずに、平手で、自分の坊主頭をぴしゃぴしゃと二返たたいた。

 「頭か」

 「うん。相手も頭でくるから、こっちも頭でいくんだ」

 「相手は誰だい」

 「金力や威力で、たよりのないどうほうを苦しめるやつさ」

 「うん」

 「社会の悪徳を公然商売にしている奴等さ」

 「うん」

 「商売なら、衣食のためという言い訳も立つ」

 「うん」

 「社会の悪徳を公然道楽にしている奴等は、どうしても叩きつけなければならん」

 「うん」

 「君もやれ」

 「うん、やる」

 圭さんは、のっそりとくびすをめぐらした。碌さんはもくねんとしていて行く。空にあるものは、烟りと、雨と、風と雲である。地にあるものは青いすすきと、女郎花おみなえしと、ところどころにわびしく交るきようのみである。二人はけいけいとしてにんきようを行く。

 薄の高さは、腰を没するほどに延びて、左右から、幅、尺足らずの路をおおうている。身を横にしても、草に触れずに、進むわけにはいかぬ。触れれば雨に濡れた灰がつく。圭さんも碌さんも、白地の浴衣に、白のももひきに、きやはんだけをこんにして、濡れた薄をがさつかさせて行く。腰から下はどぶねずみのように染まった。腰から上といえども、降る雨に誘われて着く、を、一面に浴びたから、ほとんど下水へ落ち込んだと同様の始末である。

 たださえ、うねり、くねっている路だから、草がなくっても、どこへどう続いているかきわめのつくものではない。草をかぶればなおさらである。地に残る馬の足跡さえ、ようやく見付けたくらいだから、あとの始末はむろん天に任せて、あるいているといわねばならぬ。

 最初のうちこそ、立ち登る烟りを正面に見て進んだ路は、いつのまにやら、折れ曲って、しだいに横からを受くるようになった。横に眺める噴火口が今度はねんに後ろの方に見えだした時、圭さんはぴたりと足を留めた。

 「どうも路が違うようだね」

 「うん」と碌さんは恨めしい顔をして、同じく立ち留った。

 「なんだか、情ない顔をしているね。苦しいかい」

 「実際情けないんだ」

 「どこか痛むかい」

 「豆が一面にできて、たまらない」

 「困ったな。よっぽど痛いかい。僕の肩へつらまったら、どうだね。少しは歩行き好いかもしれない」

 「うん」と碌さんは気のない返事をしたまま動かない。

 「宿へついたら、僕が面白い話をするよ」

 「ぜんたいいつ宿へつくんだい」

 「五時にはもとへ着く予定なんだが、どうも、あの烟りは妙だよ。右へ行っても、左へ行っても、鼻の先にあるばかりで、遠くもならなければ、近くもならない」

 「上りたてから鼻の先にあるぜ」

 「そうさな。もう少しこの路を行ってみようじゃないか」

 「うん」

 「それとも、少し休むか」

 「うん」

 「どうも、急に元気がなくなったね」

 「まったく饂飩のお蔭だよ」

 「ハハハハ。その代り宿へ着くと僕が話の御馳走をするよ」

 「話も聞きたくなくなった」

 「それじゃまたビールでない寿でも飲むさ」

 「ふふん。この様子じゃ、とても宿へ着けそうもないぜ」

 「なに、大丈夫だよ」

 「だって、もう暗くなってきたぜ」

 「どれ」と圭さんは懐中時計を出す。「四時五分まえだ。暗いのは天気のせいだ。しかしこう方角が変ってくると少し困るな。山へ登ってから、もう二、三里はあるいたね」

 「豆の様子じゃ、十里ぐらいあるいてるよ」

 「ハハハハ。あの烟りが前に見えたんだが、もうずっと、後ろになってしまった。すると吾々は熊本の方へ二、三里近付いたわけかね」

 「つまり山からそれだけ遠ざかったわけさ」

 「そういえばそうさ。──君、あの烟りの横の方からまた新しい烟が見えだしたぜ。あれがたぶん、新しい噴火口なんだろう。あのむくむく出るところを見ると、つい、そこにあるようだがな。どうして行かれないだろう。なんでもこの山のつい裏に違いないんだが、路がないから困る」

 「路があったって駄目だよ」

 「どうも雲だか、烟りだか非常に濃く、頭の上へやってくる。さかんなものだ。ねえ、君」

 「うん」

 「どうだい、こんなすごい景色はとても、こういう時でなけりゃ見られないぜ。うん、非常に黒いものが降ってくる。君あたまがたいへんだ。僕の帽子を貸してやろう。──こうかぶってね。それから手拭があるだろう。飛ぶといけないから、上からわい付けるんだ。──僕がしばってやろう。──かさは、畳むがいい。どうせ風に逆らうぎりだ。そうしてつえにつくさ。杖ができると、少しは歩行けるだろう」

 「少しは歩行きよくなった。──雨も風もだんだん強くなるようだね」

 「そうさ、さっきは少し晴れそうだったがな。雨や風は大丈夫だが、足は痛むかね」

 「痛いさ。登るときは豆が三つばかりだったが、一面になったんだもの」

 「晩にね、僕が、烟草たばこすいがらを飯粒で練って、こうやくつくってやろう」

 「宿へつけば、どうでもなるんだが……」

 「あるいてるうちが難義か」

 「うん」

 「困ったな。──どこか高い所へ登ると、人の通る路が見えるんだがな。──うん、あすこに高い草山が見えるだろう」

 「あの右の方かい」

 「ああ。あの上へ登ったら、ふんこうと目に見えるにちがいない。そうしたら、路が分るよ」

 「分るって、あすこへ行くまでに日が暮れてしまうよ」

 「待ちたまえ、ちょっと時計を見るから、四時八分だ。まだ暮れやしない。君ここに待っていたまえ。僕がちょっと物見をしてくるから」

 「待ってるが、帰りに路が分らなくなると、それこそたいへんだぜ。二人離れ離れになっちまうよ」

 「大丈夫だ。どうしたって死ぬづかいはないんだ。どうかしたら大きな声を出して呼ぶよ」

 「うん。呼んでくれたまえ」

 圭さんは雲と烟の這い回るなかへ、猛然として進んで行く。碌さんは心細くもただ一人薄のなかに立って、頼みにする友のうしろ姿すがたを見送っている。しばらくするうちに圭さんの影は草のなかに消えた。

 大きな山は五分に一度ぐらいずつ時をって、だんよりはげしくごうとなる。その折は雨も烟りも一度に揺れて、余勢が横なぐりに、しようぜんと立つ碌さんの身軀からだへ突き当るように思われる。草は目を走らすかぎりを尽くしてことごとく烟りのなかに靡く上を、さあさあと雨が走って行く。草と雨のあいだを大きな雲が遠慮もなく這い回わる。碌さんは向うの草山を見詰めながら、ふるえている。のしずくは、碌さんのしたはらまでとおる。

 毒々しい黒烟りが長い渦をななまきまいて、むくりと空を突くとたんに、碌さんの踏む足の底が、地震のようにうごいたと思った。あとは、山鳴りが比較的静まった。すると地面の下の方で、

 「おおおい」と呼ぶ声がする。

 碌さんは両手を、耳の後ろにてた。

 「おおおい」

 たしかに呼んでいる。不思議なことにその声が妙に足の下から湧いて出る。

 「おおおい」

 碌さんは思わず、声をしるべに、飛び出した。

 「おおおい」とかんの高い声を、肺の縮むほど絞り出すと、太い声が、草の下から、

 「おおおい」とこたえる。圭さんにちがいない。

 碌さんは胸まで来る薄をむやみに押し分けて、ずんずん声のする方に進んで行く。

 「おおおい」

 「おおおい。どこだ」

 「おおおい。ここだ」

 「どこだああ」

 「ここだああ。むやみにくるとあぶないぞう。落ちるぞう」

 「どこへ落ちたんだああ」

 「ここへ落ちたんだああ。気を付けろう」

 「気は付けるが、どこへ落ちたんだああ」

 「落ちると、足の豆が痛いぞうう」

 「大丈夫だああ。どこへ落ちたんだああ」

 「ここだあ、もうそれから先へ出るんじゃないよう。おれがそっちへ行くから、そこで待っているんだよう」

 圭さんのどうごえは地面のなかを通って、だんだん近づいて来る。

 「おい、落ちたよ」

 「どこへ落ちたんだい」

 「見えないか」

 「見えない」

 「それじゃ、もう少し前へ出た」

 「おや、なんだい、こりゃ」

 「草のなかに、こんなものがあるからけんのんだ」

 「どうして、こんな谷があるんだろう」

 「ようせきの流れたあとだよ。見たまえ、なかは茶色で草が一本も生えていない」

 「なるほど、やつかいなものがあるんだね。君、上がれるかい」

 「上がれるものか。高さが二間ばかりあるよ」

 「弱ったな。どうしよう」

 「僕の頭が見えるかい」

 「いがぐりの片割れが少し見える」

 「君ね」

 「ええ」

 「薄の上へはらばいになって、顔だけ谷の上へ乗り出してみたまえ」

 「よし、今顔を出すから待っていたまえよ」

 「うん、待ってる、ここだよ」と圭さんは蝙蝠傘で、がけの腹をとんとん叩く。碌さんは見当を見計って、ぐしゃりと濡れ薄の上へ腹をつけておそるおそる首だけをみぞの上へ出して、

 「おい」

 「おい。どうだ。豆は痛むかね」

 「豆なんざどうでもいいから、はやく上がってくれたまえ」

 「ハハハハ大丈夫だよ。下の方が風があたらなくって、かえって楽だぜ」

 「楽だって、もう日が暮れるよ、はやく上がらないと」

 「君」

 「ええ」

 「ハンケチはないか」

 「ある。なんにするんだい」

 「落ちる時につまずいてなまづめがした」

 「生爪を? 痛むかい」

 「少し痛む」

 「あるけるかい」

 「あるけるとも。ハンケチがあるならげてくれたまえ」

 「裂いてやろうか」

 「なに、僕が裂くから丸めて抛げてくれたまえ。風で飛ぶと、いけないから、堅く丸めて落すんだよ」

 「じくじく濡れてるから、大丈夫だ。飛ぶづかいはない。いいか、抛げるぜ、そら」

 「だいぶ暗くなってきたね。烟は相変らず出ているかい」

 「うん。そらじゆう一面の烟だ」

 「いやに鳴るじゃないか」

 「さっきより、烈しくなったようだ。──ハンケチは裂けるかい」

 「うん、裂けたよ。包帯はもうでき上がった」

 「大丈夫かい。血が出やしないか」

 「足袋の上へ雨といっしょにんでる」

 「痛そうだね」

 「なあに、痛いたって。痛いのは生きてる証拠だ」

 「僕は腹が痛くなった」

 「濡れた草の上に腹をつけているからだ。もういいから、立ちたまえ」

 「立つと君の顔が見えなくなる」

 「困るな。君いっそのことに、ここへ飛び込まないか」

 「飛び込んで、どうするんだい」

 「飛び込めないかい」

 「飛び込めないこともないが──飛び込んで、どうするんだい」

 「いっしょにあるくのさ」

 「そうしてどこへくつもりだい」

 「どうせ、噴火口から山のふもとまで流れた岩のあとなんだから、この穴の中をあるいていたら、どこかへ出るだろう」

 「だって」

 「だっていやか。厭じゃ仕方がない」

 「厭じゃないが──それより君が上がれると好いんだがな。君どうかして上がってみないか」

 「それじゃ、君はこの穴の縁を伝って歩行くさ。僕は穴の下をあるくから。そうしたら、うえしたで話ができるからいいだろう」

 「縁にゃ路はありゃしない」

 「草ばかりかい」

 「うん。草がね……」

 「うん」

 「胸ぐらいまで生えている」

 「ともかくも僕は上がれないよ」

 「上がれないって、それじゃ仕方がないな──おい。──おい。──おいっていうのにおい。なぜ黙ってるんだ」

 「ええ」

 「大丈夫かい」

 「なにが」

 「口はけるかい」

 「利けるさ」

 「それじゃ、なぜ黙ってるんだ」

 「ちょっと考えていた」

 「なにを」

 「穴から出る工夫をさ」

 「ぜんたいなんだって、そんな所へ落ちたんだい」

 「はやく君に安心させようと思って、草山ばかり見詰めていたもんだから、つい足元がお留守になって、落ちてしまった」

 「それじゃ、僕のために落ちたようなものだ。気の毒だな、どうかして上がってもらえないかな、君」

 「そうさな。──なに僕はかまわないよ。それよりか。君、はやく立ちたまえ。そう草で腹を冷やしちゃ毒だ」

 「腹なんかどうでもいいさ」

 「痛むんだろう」

 「痛むことは痛むさ」

 「だから、ともかくも立ちたまえ。そのうち僕がここで出る工夫を考えておくから」

 「考えたら、呼ぶんだぜ。僕も考えるから」

 「よし」

 会話はしばらく途切れる。草の中に立って碌さんがおぼつかなく四方を見渡すと、向うの草山へぶつかった黒雲が、峰の半腹で、どっとくずれて海のように濁ったものが頭を去る五、六尺の所まで押し寄せてくる。時計はもう五時に近い。山のなかばはたださえ薄暗くなる時分だ。ひゅうひゅうとたえなく吹きろす風は、吹くたびに、黒い夜を遠い国から持ってくる。刻々とせまる暮色のなかに、あらしまんじに吹きすさむ。ふんこうから吹き出すいくまんごくの烟りは卍のなかにまんべんなく捲き込まれて、嵐の世界を尽くして、どす黒くみなぎり渡る。

 「おい。いるか」

 「いる。なにか考え付いたかい」

 「いいや。山の模様はどうだい」

 「だんだん荒れるばかりだよ」

 「今日は何日いくかだっけかね」

 「今日は九月ふつさ」

 「ことによると二百十日かもしれないね」

 会話はまた切れる。二百十日の風と雨と烟りは満目の草を埋め尽くして、一丁先は靡く姿さえ、と見えぬようになった。

 「もう日が暮れるよ。おい。いるかい」

 谷の中の人は二百十日の風に吹きさらわれたものか、うんとも、すんとも返事がない。阿蘇のお山は割れるばかりにごうごうと鳴る。

 碌さんは青くなって、また草の上へ棒のようにはらばいになった。

 「おおおい。おらんのか」

 「おおおい。こっちだ」

 薄暗い谷底を半町ばかり登った所に、ぼんやりと白い者が動いている。手招きをしているらしい。

 「なぜ、そんな所へ行ったんだああ」

 「ここから上がるんだああ」

 「上がれるのかああ」

 「上がれるから、はやく来おおい」

 碌さんは腹の痛いのも、足の豆も忘れて、だついきおいで飛び出した。

 「おい。ここいらか」

 「そこだ。そこへ、ちょっと、首を出して見てくれ」

 「こうか。──なるほど、こりゃたいへん浅い。これなら、僕が蝙蝠傘こうもりを上から出したら、それへ、らまって上がれるだろう」

 「かさだけじゃ駄目だ。君、気の毒だがね」

 「うん。ちっとも気の毒じゃない。どうするんだ」

 「おびを解いて、その先を傘の柄へ結びつけて──君の傘のは曲ってるだろう」

 「曲ってるとも。大いに曲ってる」

 「その曲ってる方へ結びつけてくれないか」

 「結びつけるとも。すぐ結び付けてやる」

 「結び付けたら、その帯の端を上からぶら下げてくれたまえ」

 「ぶら下げるとも。わけはない。大丈夫だから待っていたまえ。──そうら、長いのがてんじくから、ぶら下がったろう」

 「君、しっかり傘を握っていなくっちゃいけないぜ。僕の身体からだは十七貫六百目あるんだから」

 「何貫目あったって大丈夫だ、安心して上がりたまえ」

 「いいかい」

 「いいとも」

 「そら上がるぜ。──いや、いけない。そう、ずり下がって来ては……」

 「今度は大丈夫だ。今のはためしてみただけだ。さあ上がった。大丈夫だよ」

 「君がべると、二人とも落ちてしまうぜ」

 「だから大丈夫だよ。今のは傘の持ちようがわるかったんだ」

 「君、薄の根へ足をかけて持ちこたえていたまえ。──あんまり前の方でると、崖が崩れて、足が滑べるよ」

 「よし、大丈夫。さあ上がった」

 「足を踏ん張ったかい。どうも今度もあぶないようだな」

 「おい」

 「なんだい」

 「君は僕が力がないと思って、大いに心配するがね」

 「うん」

 「僕だって一人前の人間だよ」

 「むろんさ」

 「むろんなら安心して、僕に信頼したらよかろう。からだは小さいが、ほうゆうを一人谷底から救い出すぐらいのことはできるつもりだ」

 「じゃ上がるよ。そらっ……」

 「そらっ……もう少しだ」

 豆で一面にれ上がった両足を、うんと薄の根に踏ん張った碌さんは、はだを二百十日の雨にさらしたまま、のように腰を曲げて、一生懸命、傘の柄にかじり付いている。むぎわらぼうを手拭で縛りつけた頭の下から、真赤にいきんだ顔が、八分どおり阿蘇ろしに吹きつけられて、い締めたの上にはが容赦なく降ってくる。

 じゆはちけんの蝙蝠の柄には、さいわい太いこぶだらけのがんじようねんぼくが、付けてあるから、折れる気遣はまずあるまい。その自然木の湾曲した一端に、なるしぼりの兵子帯が、さつごうきゆうに新しく張ったゆみづるのごとくぴんと薄を押し分けて、先は谷の中にかくれている。その隠れているあたりから、しばらくすると大きな毬栗頭がぬっと現われた。

 やっというかけごえとともに両手が崖の縁にかかるがはやいか、大入道の腰から上は斜めに尻にした蝙蝠傘こうもりとともに谷から上へ出た。同時に碌さんは、どさんとあおきになって、薄の底に倒れた。

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