扉を閉めて、鍵をかけて。
ヲトブソラ
扉を閉めて、鍵をかけて。[一折]
死神には残りの生命がロウソクに灯る火として見えていると、多くの物語に記されている。しかし、物語のように火を消す権利などはないのだ。ただ、生命の側に行き、火が消えるまで寄り添って、話を聞く。それがわたしのお仕事。
その人は登山家だった。人間にとって険しい山で滑落したらしい。彼の生命がゆらゆらと揺れているから向かいなさいと、終業時間二分前に言われた。
剣のように尖る、その山の森林限界は三分の二辺りだろうか。山は白く、雪や氷が蓄積していて人間がよく通る道は極彩色になっていた。その極彩色は登山服の色だ。つまり、亡骸が回収出来ずに凍っている。
「こんにちは」
凍って硬い雪の上に仰向けになっていた彼に挨拶をしてから全身を見た。どうやら片腕と両脚、その他、様々な骨を折り動けずに衰弱したようだ。
「…………さ、最近……………の、死神……は」
「挨拶をします。皆、そう言って驚かれます」
彼の口元が緩む。もう視界も効かず、見えもしない青空を凝視しながら「お…れは……死ぬんだ……な」という言葉が疑問系でなかった。こんな山を登ってきたのだ、覚悟の上だったろう。ここは生命力の高い植物が存在出来ない場所、本来、人間のような弱い生命が来る場所ではない。
さて、最期に向けて“お話”をしようか。
「……死ぬ間際は痛みが消えて、清々しいと聞くが、本当なんだな」
「あなたには死者の友人でもいるのですか?」
「死神のお嬢さんはジョークも言うんだな」
痛みが消えたのは肉体の損傷が治ったわけではなく、痛みから魂を解放しただけだから快方に向かう事は無い。彼の最期までの生命が、彼の今の生命の隣に座り、穏やかな表情で見ていた。
「貴方のように穏やかに自分を見る方には久しぶりに会いました」
「そうなのか。まあ……病人や戦場にでもいない限り、死を覚悟している奴なんか少ないだろうしなあ」
「あなたは覚悟していたのですね」
ああ、と、ゆっくりと小さく頷き、あぐらをかく。彼は滑落しながら遠のく登山ルートに戻れない、助かる見込みが無いと分かった瞬間、身体のあちこちを打ち、骨を折っていく瞬間瞬間から、死に向けて“気持ち”を整えていったらしい。
「こんな事をしているのだから、最期に足掻き喚くなんて格好がつかない」
「生きようとはしなかったのですか?」
「足掻いても無駄だ。こんな身体じゃ、1メートルも動けやしないよ」
「あなたの帰りを待つひとのために、少しでも足掻かなかったのですか?」
目を大きく開かれ、わたしの目を見ると笑われた。「あんた、面白い死神だな!」と、お腹を抱えられる。人間とはおかしな生き物だ。ひとりで生きている訳ではないのに、ひとりで生きてきたと勘違いする。そのくせに“繋がり”を大切にしたり、それを過度に求め間違える時もあるくせに。
「そうだな……下のキャンプにいる仲間には悪いことをしたと思う」
「ご家族には?」
顎ひげを、ぼりぼりと掻いて「とっくに愛想を尽かして出て行ったよ」とまた笑う。恐らく、出て行った家族が彼の死を知るのは、友人の手紙か報道なのだろう。それでも家族でいた人間だ。少しも傷付かないわけがない。
「あなたはどうして登山を?」
「病、なんだろうなあ」
賞賛や名誉、金銭が欲しいわけでもなく、ただ、高くて行った事のない山に登りたくて仕方がない。人間が普通に暮らせる場所にいると気が狂いそうになる。
「限界に挑戦したいだとか、それらしい言い訳は言い飽きたよ。ただ、登らずにはいられない。欲して、欲して、仕方がないんだ」
「あなたが、この“人生”を選んだ瞬間を教えて下さい」
そうだなあ、と、また顎ひげを触り、子ども頃に見た空だと言った。あの青に塗られた空に一番近い所はどこだろう、と、父親に聞くと“高い山だ”と言われ、それを信じて山に登り始めた。それが彼の人生の始まりだ。だけど、彼は人間としての生命と付き合うバランスを間違え、危険に身を置く事に依存していく。
「賞賛や名誉、金、それらが若くして手に入ったから、どうしようもなくなった」
自分の欲を満たして手に入る人間世界の欲に、彼は麻痺をしていき、生命は二の次に欲を満たす人生を選んだ。
「なあ?死神のお嬢さん。これは罰か」
「いいえ、あなたが選んだ人生です」
「そうか。それなら良かった」
そう言って、灯が消えた。
登山家の本に記した彼の人生。最後にわたしのサインを入れて本を閉じ、人生のひとつひとつを収蔵した本棚に収めた。
「あなたは人生をよく生きたと思います」
これは、わたしがいつも魂から離れた生命に贈る言葉。収蔵室から出て、扉を閉めて、鍵をかけた。
おわり。
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