カバレロドラドの胡蝶の夢 ―Golden Great Voyage―
明智紫苑
1.汨羅に消えたあの人は
屈平、
あの舌先三寸の
屈原は、何も言わずに手綱を握っている。俺の背中にくくりつけられた鞍には、先ほど立ち寄った村の住人からもらった差し入れを入れた袋がぶら下がっている。
川だ。
「ドラドよ」
「何だい、原」
「お前の志は何だ?」
俺は答えに困る。
「うーん、うまい草食って、かわいい
屈原は眉をひそめつつ、さらに質問する。
「ならば、仮に今のお前が人間ならば、どのように生きる? お前の〈人間〉としての志は何だ?」
俺は迷う。もし俺が人間だったら、どう生きるか?
「…そうだな。まずは、俺はあんたのような忠臣にはなれないし、なりたくもない。あんたを陥れた奴らみたいな卑怯者にもなりたくない。普通の庶民として気楽に生きられるなら、それで良い。俺は大義名分から自由でありたいんだ」
「そうか…。お前もさっき会った漁夫と似たような事を言うのだな」
俺はあんたのような君子なんかじゃない。もし俺が人間だったら、君子の不幸よりも小人の幸せを選ぶよ。その方が、よっぽど生き物としての大義名分だよ。
屈原は俺の背中の鞍にぶら下げた袋から何かを取り出す。竹皮を剥き、中身を俺の口に入れる。
「カバレロドラド、千里の駒よ。黄金の血を引く馬よ」
「原…?」
「だいぶ歩き疲れただろう? ゆっくり休め」
屈原は俺の頭を撫でる。俺はだんだんと眠くなる。確かに、しばらく寝ていない。俺の意識が白いモヤに覆われる。
俺は夢の中で母馬の乳を飲んでいた。俺と同じ大きな芦毛のおふくろは、俺を優しく見守っていた。
やがて俺は、乳離れのためにおふくろから引き離され、他の子馬たちと過ごすようになった。
人間社会における保育士に相当するリードホース〈先生〉は、元G1レース3勝の名牝だった。俺たち
場面はさらに変わり、デビュー戦。芝1800メートル、俺は後方から徐々に位置を上げて行き、最後の直線で先に抜け出していた馬をゴール直前のギリギリで追い抜き、レコード勝ち。
レースが終わっても、俺はさらに走る。競馬場を抜け、街を抜け、海を渡り、空を飛ぶ。巨大な魚が化けた
「さらばだ、ドラド」
行くな!
俺は目を覚まし、絶叫した。水面の波紋。しまった!
「原! 早まるな!」
俺は屈原を追って、川に飛び込んだ。水中に潜り、あの人を探した。史実通り、歴史家たちが書いた通り、あの人は
「何で死ぬんだ! 生き物は生きていればこそ生き物じゃねえか? あんたも俺と同じ〈生き物〉じゃないか!」
俺は泣きわめきながら、水の中でもがき苦しむ。
「誰があんたの意志を継ぐ? 他に誰がいるんだよ?」
俺は川の流れに押され、下流へと進む。だんだんと眠くなる。これが「死」なのか? 気が遠くなる。意識がぼやけ、俺は再び夢の中に沈む。
夢の中で、俺は空を飛ぶ。馬ではなく、龍になったようだ。全身が赤々と燃えて輝く龍だ。河を越え、山々を越え、どこかの村で急降下。
「あら? お兄さん、どうしたの? 何か悲しい事があったの?」
村人らしき中年の女がいた。人が良さそうな笑顔。俺は思わず女に抱きついて泣きわめいた。俺はいつの間にか、人間の男になっていた。
「助けたかった人を助けられなかった! 俺は無力だ! 大バカ野郎だ!」
オイオイ泣き喚く俺を、女は抱きしめた。まるで、自らの幼い息子を抱きしめるかのように。俺たちは大木の根元で寝転がり、蛇のように絡み合った。古くからの恋人同士のように求め合った。ビジネスライクな種付けではなく。女は、色々な意味で温かかった。
「ドラドさん、昨夜はさんざん泣いていたようだけど、何か悪い夢を見たの?」
若手厩務員の須藤ちゃんが訊く。まだ20代半ばの好青年。俺はその須藤ちゃんに全身をブラッシングされている。
「うん、ある人の夢。俺はその人を助けようとしたけど、史実通りに死んじゃった」
「史実通りって、信長? それとも三国志の孔明?」
「いや、もっと昔の人。自分自身の志のために死んじゃった」
「『キングダム』に出てくる?」
「あ、ちょっと惜しい。意味合いも含めてニアミスだね」
俺は自分の馬房に戻り、敷きたての寝藁の上に座る。廐舎内ではラジオが流されるが、この曲はラッツ&スターの『夢で逢えたら』だ。吉田美奈子も、大瀧詠一も良いが、こちらも良い。
「夢の中でまた、会えるなら」
そう。夢の中でなら、死んだ人にだって、馬にだって会える。大瀧詠一にも会えるかもしれないし、俺の親父やおふくろにも会えるかもしれないし、また屈原に会えるかもしれない。ならば、あの人にどう忠告しようか?
いや、あの人は馬でも分かる頑固者。良くも悪くも、何を言っても無駄な人。そう、何を言っても無駄な人だからこそ、あの人は尊い。己の保身と利益のためならいくらでも己を曲げられるような変節漢なんかじゃないんだ。だからこそ、後世の人間たちに尊敬された。
もしかするとあの人は、すでにこの世のどこかで別の誰かに生まれ変わっているのかもしれない。だけど、俺たちは多分、互いにどこかですれ違っても気づかないだろう。
俺はこれからも、夢の中で黄金色の大航海を続ける。
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