フェチ
「……シックス?」
「ふー……のぼせて幻覚見えだしたかも……」
「シックスだ……」
「あー……うーん……」
「シックスって、初めて見た……」
「うん。これはのぼせただけだな。とりあえず水持っていくか」
何事もなかったように水を注ぎ終えたコップを片手で持つと、冷蔵庫に水をしまうことなく、紗夜にも目を合わせることもなくリビングを後にしようとするが、
「まって。ほんの少しでいいから触らせてほしい」
「無理だ」
突然の紗夜からの提案にピタッと体が固まる勇。当然そんなことなどできるわけもなく、短い言葉で断るが立ち上がった紗夜がなにかに取り憑かれたかのように勇の腹筋に向って歩き始める。
そんな紗夜から逃げるようにリビングから慌てて身を乗り出した勇は水をこぼさずに走ることはなかったが、足早で洗面所へと向かい出す。
「待って!触らせて!」
「無理だ!てか朝触っただろ!」
「服の上からじゃん!直接!ちょっとでいいから!!」
「やだよ!」
一生懸命に足を動かす勇だが、水が入っているコップを片手に、こぼさずに逃げるというハードミッションをクリアすることはできず、等々走り出した紗夜に後ろから抱きつかれてしまう。
「おい!離れろって!」
「すごい……。本当に割れてる」
どうにかして紗夜を体から引き離そうと紗夜の手を離そうするが、女性とは思えないほどの力で抱きつく紗夜を離すことはできず、背中に当たる紗夜の頬の感触にその場に立ち尽くしてしまう。
「わかったから……触っていいから匠海くんに水を渡させてくれ」
「わかった〜」
返事はするものの、勇から離れようとしない紗夜は両手で腹筋を触りだし、挙句の果てには勇の肩に顎を乗せてバックハグのような形で胸筋までもを触り始める始末。
このままでは埒が明かないと思った勇は、どうせ体から離れないだろうと見込み、抱きついたままの紗夜を引きずるように洗面所の前へと移動を始める。
「動かないでぇ」
「匠海くんが待っているんだから仕方ないだろ。てかお前腹筋フェチすぎだろ」
「ありがと〜」
「別に褒めてない……」
離れようとしない紗夜を連れてやっと洗面所前に着いた勇は扉をノックし「入るぞ」と呼びかけて洗面所に入る。
案の定、勇に引っ付く紗夜を見た匠海は苦笑を浮かべ、やっぱりかと言わんばかりに肩をすくめた。
「こうなるよね……」
「分かってたのか?」
「暇があれば腹筋の話をされますからね……」
「なるほど……。とりあえず、これ水な」
「ありがとうございます」
お礼を言いながら水を受け取ると、一瞬で飲み干してしまう。既に上着は着てあるので大分ましになったとは思われたが、水分が足りていなかったのか残っていないはずのコップをもう一度口つけた。
「足りなかったら水ついできていいぞ。キッチンに置いてるはずだから」
「あっ、ありがとうございます」
「いいよいいよ」
勇の言葉に感謝をしつつ、コップを持った匠海は水を求めてリビングに向かい出す。
匠海を見送った勇は置いてあった服を取り、腕を通し始める。
「え?私、まだ触り足りない」
「さっき少しって言っただろ。もう終わりだ」
「えーー。ケチ」
「ケチですみませんね」
紗夜が体から離れたことを確認した勇は頭を通して服を着て、電気を消してリビングへ戻ろうとする。
「ね、後でもう一回触っていい?」
「……後でって?」
「んー……そ、それはあなたが決めたら?」
なにも考えずに発した言葉だったが、意識すると自然と顔が赤らみ始めた紗夜は勇に答えを委ねる。
当然、勇もバカ正直に答えられるわけもなく、濁しながらあくまでも提案として紗夜に答えを返した。
「千咲と匠海くんがいたら迷惑だろうから、二人きりのときがいいんじゃないか……?」
「……ふーん?寝る前って言いたい感じなんだ……」
「お前がそうしたいなら……どうぞ?」
「あなたがせっかく提案したんだし……それで行ってあげる」
「……別に強制ではないからな?」
「その言い方的には強制って言ってるけど?」
「本当に来たくないなら来なくていいからな」
「行くけど」
「おうそうか。なら来い」
一瞬勇と紗夜の間に気まずさが現れたが、相手に強要をしすぎたのか、若干めんどくさくなり始めた2人は開き直って堂々とした姿勢で、誇張すれば今夜は2人で過ごそうと言い始める。
勇と紗夜はそんな意味を含めて言っていなかったのか、これで話は終わりだと言わんばかりに紗夜が軽い口調で勇に話し掛けた。
「それにしてもすごい腹筋だねー」
「だろ?お前もメロメロになるほどの筋肉だっただろ」
「私のはメロメロとかじゃなくて、ただのフェチ」
離れようとしなかったくせになにがフェチだ、と口には出さなかったが心の中でそう呟いた勇は若干目を細めて含み混じりの言葉を紗夜に向けた。
「ただのフェチね」
「そう。ただのフェチ」
「フェチにしては過激だったな」
「まぁね。フェチだから」
「お前の言い訳はフェチしかないのか……?」
勇がなにを言おうともフェチという言葉だけで乗り切ろうとする紗夜はニコッと目を閉じて勇の顔を見上げる。だが、これ以上引っ張られたら嫌なのか、紗夜は閉じた目を開いて気になることを勇に問いかけた。
「筋トレしてるの?」
「……まぁ、多少は」
勇の問いに対してなにも反応せず、いきなり自分の問を投げてきた紗夜に、若干不服気な表情を浮かべる勇は出そうになる愚痴を堪らえながら質問に答える。
「多少であんなに割れるわけ無いじゃんー」
「多少でも割れるよ。知らんけど」
「ふ〜ん。私が褒めてあげるから頑張ったって言ったら〜?」
謎に笑みを浮かべる紗夜は表ではこうは言っている勇を、裏ではいっぱい頑張ってるんだね〜と察し、先程の恩返しも兼ねて褒めてあげようと言う思考に至ったのだ。
「なんでそうなるんだよ。あとお前の褒められはいらん」
「うっそだー。顔に褒められたいって書いてあるよ?」
「それこそ嘘だろ!ただただ俺を褒めたいだけだろ」
「え〜。可愛い女の子に褒められたら更にやる気が湧くよ?」
「なくても頑張れてるからいらねー」
そこまで言い切った勇は無関心ということをアピールするために肩をすくめた。
(さっきのお前で十分褒められてるからもう満足。これ以上褒められたら逆に悪影響になりそうだ……)
そんなことなど言えるわけもなく、心の奥底に封印シールを貼った勇は今度は自分が話題を変えてやろうとずっと気になっていたことを紗夜に問いかけた。
「てか、その胸どうにかしろ?サラシでも巻いてくれ」
ポカンと呆けた顔をした紗夜は自分の胸に視線を下ろし、かと思えば勇の顔を見上げ、不敵な笑みを浮かべて自分の胸を守るように両腕で覆いだす。
「ふーん?私の胸のせいで目のやり場に困ってるんだ?」
「困ってない。俺が紳士のおかげでお前の胸なんて一回も見てない」
「絶対ウソだ〜」
「嘘じゃないって。それよりも早くサラシでも巻け」
「え〜あれキツイもん」
「緩くすれば良いだろ」
「やーだ」
ふざけてるのか、それとも真面目なのか、やだやだと良いながら勢いよく顔を左右に振り出す紗夜と、濡れた髪が大きく揺れて鞭のようになり、勇の腕に何度もアタックする。
内心痛いと思っていた勇だったが、ピタッと動きを止めた紗夜に疑問を持ち、小首を傾げる。
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