エピソード 1ー1
皆が寝静まる夜更け。
パジャマ姿のアリアドネは、魔導具の灯りに照らされた廊下をひたひたと歩いていた。
「本人が死にたいって言ってるんだから、死なせてあげればいいじゃない」
母のアリアが亡くなれば、アリアドネは自由に動くことが出来る。母の命令で皇女宮に縛られているアリアドネにとって、母の死は望むべきことだった。
「――なのに、どうして、私はお母様の部屋に向かってるの?」
どれだけ望んでも、愛を与えてくれない酷い母親。アリアドネが優秀な成績を修めたときですら、微笑み一つ浮かべてくれなかった。
そんな冷酷な母親を救うことに価値なんてない。
「というか、お母様が私の言葉を聞いてくれるはずないじゃない」
母が死ぬつもりなら、アリアドネが止めても邪魔をするなと言われるのが関の山だ。下手をしたら、後から駆けつけた使用人に、母親の殺害容疑を掛けられるかもしれない。
「引き返しなさい。私は紅の薔薇。権謀術数にまみれた社交界を巧みに生き抜いて、一度はその頂点に立った女なのよ。それなのに、どうしてこんな当たり前の判断も出来ないの?」
どうするのが正解かは分かっている。
なのに、身体が言うことを聞いてくれない。まるで子供の頃の自分が――まだ母を信じていた頃のこの身体が、母を見捨てることを拒絶しているかのように。
「……あぁもう、分かったわよ」
溜め息を吐いて、自らの意志で歩みを進める。
(私に家庭教師を付けるくらいだもの。私に対する愛はなくとも、私に期待しているなにかはあるんでしょ? それを引き合いにすれば、交渉くらいは出来るはずよ)
紅の薔薇はこの程度の想定外に慌てふためいたりはしない。そう自分に言い聞かせたアリアドネは、母の寝室の前で足を止めた。
「……着いちゃった」
回帰を経たアリアドネにとっては何年かぶりの再会だ。だがそれを除いたとしても、自分から母の寝室を訪ねるのは初めての試みだ。
アリアドネは扉に手を掛けて、コクンと喉を鳴らした。
(あぁもう、しっかりしなさい! 私は紅の薔薇。いまはこんなナリだけど、一度は社交界の頂点に上り詰めた女なのよ。この程度で怯むはずないでしょ!)
パジャマの裾をぎゅっと握り締め、勢いよく扉を開け放った。
「お母様。もしかしたら死にたくなるような悩みを抱えていたりしませんか?」
紅の薔薇はそんな下手な話の振り方をしない――と、自分で自分にツッコミを入れながら部屋へ踏み込んだ。そうして目の当たりにした光景を前に、アリアドネは息を呑んだ。
月明かりに照らされたベッドの上、薄手のネグリジェを纏うアリアが、全身黒尽くめの男に組み敷かれていたからだ。
開けっぱなしの窓から吹き込んだ風が、呆けたアリアドネの頬を撫でる。
「あ~その、既に相談相手がいらしたんですね。その、お邪魔しました」
母の情事を目の当たりにしたと思ったアリアドネは一歩後ずさる。次の瞬間、アリアの上に覆い被さっていた男がベッドから降り立った。
「逃げなさい、アリアドネ!」
アリアが男にしがみつく。だが、男はアリアを払いのけ、次の瞬間にはアリアドネに飛び掛かってきた。状況を理解したアリアドネの目がすぅっと細められる
「――母娘を一緒にいただこうなんて下品な男ね」
迫り来る暗殺者の手には月明かりを受けて鈍く光る短剣。アリアドネは重心を落とし、絨毯の上を滑るように側面へと回避。その場に残した片足で暗殺者の足を引っ掛けた――が、相手の勢いを受け止めきれずに自分もふらついてしまう。
とっさに体勢を立て直す。その視界に鈍い光が映り込んだ。経験から、煤で反射を抑えた短剣だと判断して身体を捻る。逃げ遅れた髪の隙間を放たれた短剣が突き抜けた。
再び体勢を崩すアリアドネ。
迫り来る暗殺者は勝利を確信して覆面の下で嗤う。
「――舐めないでっ!」
アリアドネがパチンと指を鳴らした。次の瞬間、彼女の足元からアイスブルーの蔦が伸びる。暗殺者は跳び下がって避けようとするが、それより早く氷の蔦が彼の身体を捕らえた。
彼は立ったまま氷の蔦に縫い付けられ、身動き一つ出来なくなった。
(ふうっ、身体能力は落ちているけど、魔術は問題なく使え――っ。いえ、魔力面にも不安があるようね。ちょっと目眩がするわ)
回帰前に身に付けた技術は失っていない。けれど、体力や魔力は15歳の頃の水準に戻ってしまっている。以前ならなんの問題もなかった魔術の行使に、大きな脱力感が伴った。
でも、いまはそれよりも――と、アリアのもとへと駆け寄った。
「お母様、ご無事ですか!?」
「……はぁ、はあ。アリアドネ、どうして、ここに?」
さっきまで叫ぶほど元気だったのに、いまは意識が朦朧としている。すぐに周囲を見回したアリアドネは、近くに落ちている小瓶を見つけて匂いを確認する。
(この匂いは――フェルモアの毒!)
甘い香りの即効性がある神経毒だ。あまり苦しまずに死ぬことが出来るため、自害にも毒殺にもよく使われる。かくいうアリアドネも、第一王子を毒殺するときに使用している。
だが、ポピュラーであるがゆえに、その解毒薬も存在している。
「緊急事態よ! 誰か、誰かいないの!」
アリアドネの金切り声に、屋敷がにわかに騒がしくなる。
「どうされました――ひっ!? なんですか、この男は!?」
最初に駆け込んできたのは、アリアドネお付きの侍女、シビラだった。彼女は魔術で立ったまま床に縫い止められている暗殺者を目にして悲鳴を上げ、こちらの状況には気付かない。
「シビラ。お母様が暗殺者に毒を飲まされたわ! お医者様を呼んできて!」
「え? 皇女殿下? って、え、アリア皇女殿下!?」
「いいから、お医者様よ! それと、毒の名前はフェルモアよ。一刻も早く、お医者様に解毒剤を持ってこさせなさい!」
「か、かしこまりました!」
アリアドネに一喝されたシビラは全力で駈けていった。それを見送ることなく、ベッドサイドに置かれた水差しを摑んで母に水を飲ませる。
微かに意識を残しているアリアは、多少は咽せながらもその水を飲み干していく。そうして毒を希釈させたアリアドネは、母の喉に指を突っ込んで嘔吐かせる。
相手は一度も愛情を注いでくれなかった母親だ。
さっきまでのアリアドネは、母が死んでくれた方がいいとすら思ってた。だけど、実際に死にそうな母をまえにして、必死の救命措置をおこなっている。
(――だって、仕方ないじゃない!)
アリアは逃げろと言った。暗殺者に組み敷かれ、毒を飲まされた直後なのに、現れた娘に対して助けを求めるのではなく、逃げるように促したのだ。
普段のアリアからは予想できない言動。
いまだって、聞き間違いであることを疑うほどだ。だけど、アリアはたしかに逃げるように言った。それどころか、アリアドネを逃がす時間を稼ごうと暗殺者にしがみついた。
まるで、娘を愛していたかのように。
「しっかりして、お母様! このまま死ぬなんて、許さないんだから!」
必死に呼びかけて母の意識を繋ぎ止め、再び水を飲ませて吐き出させる。その途中で、初老の執事、ハイノが侍女や皇女宮を護る騎士を連れて部屋に駆け込んできた。
「皇女殿下、これは一体なにごとですか!?」
「ハイノ、その男は暗殺者よ。騎士に拘束させなさい。それと、お母様はフェルモアの毒を飲まされたわ。シビラが医者を呼びに行っているから、お湯と暖を取る準備を!」
普段なら、アリアドネの変わりように突っ込まれたかもしれない。だが、非常時であることが味方し、ハイノはすぐにその命令に従った。
それからほどなく、シビラの連れた医者が飛び込んできた。
「アリア様がフェルモアの毒を飲まされたというのは本当ですか!?」
「そこにある小瓶よ」
「この匂い、たしかに。――アリア皇女殿下、解毒剤です」
医者がアリアの治療を始める。その邪魔にならないように、アリアドネはベッドから降り立った。だが、足に力が入らず、絨毯の上にくずおれてしまう。
シビラがとっさにその身体を抱き留めてくれた。
「皇女殿下、どうなさったのですか!?」
「私は大丈夫、魔力が枯渇しただけだから。それよりも、いまはお母様の治療を……優先、なさい。……ハイノ、私の命令を……っ。聞けるわね?」
この頃のアリアドネが執事に指示を出すなんてことはあり得ない。だが、ハイノはすぐさま進み出て、アリアドネのまえでかしこまって見せた。
「なんなりとお申し付けください」
「……まずは、その暗殺者の顔を見せて」
「かしこまりました。そこの貴方、その男の覆面を取ってアリアドネ皇女殿下のまえに」
ハイノが騎士の一人に命じて覆面を取らせる。そうして露わになった顔に、アリアドネは見覚えがあった。回帰前、ジークベルトに紹介された暗殺者の一人だ。
(……そう。そういうこと。あの男、お母様を殺した暗殺者を私に……)
自分の母を殺した男を重用していたことになる。
それは、このうえない屈辱だった。
アリアドネは血が滲むほど唇を噛み、ジークベルトへの復讐を誓った。
「お母様の警備態勢を強化、して……皇女宮を封鎖、なさい。不届き者が、さっきの一人、だとは……はぁ、限らないわよ」
「かしこまりました。すぐに対処いたします」
「ええ。私は、少し、休むわ。後は……任せた、わ……」
アリアドネは振り絞るような声で告げ、シビラの腕の中で意識を失った。
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