鮮血のクオリア【短編】

さえ

鮮血

 エミリアは、笑いながらナイフを振り上げない。ヒステリックに何度も突き立てるなんてことももちろんない。

 スマートにきれいに仕留めるときと、じわじわと毒が回るようすをうっとりと見ているときと、だいたいその二つだ。そして圧倒的に多いのは後者。骨を溶かす様子や、首から流れる朱に頬を染める様子は見ていて吐き気がする。


 弟の自分が言うのもなんだが、姉のエミリアは性格が悪い。否、歪んでいる、と言うべきだろうか。

 暗殺の依頼を受けると、まず依頼主を罵る。調査の段階でも実行の段階でもいらないことをぺちゃくちゃ、よく回る口だ。そうして実行後もぐちぐちと、間違ってもいない皮肉、屁理屈をこねくり回す。客観的に見ても嫌な女だ。何のつもりだと言えば、話せない俺の代わりだと抜かす。そしてたちを悪くするもっともな原因は、他人の前では猫をかぶっているということだ。他人の前では、天然な少女像を絶対に崩さない。姉は性格と違って聡明で、人心掌握は得意分野だ。孕んだ毒を見せることなく人に取り入る。

 嘲笑。低い笑い。


(……吐き気がする)


 しかし今日も俺は姉と仕事を行う。汚い嘘ばかり吐く唇を押さえることもなく、歪な半円を描く頬を張ることはない。赤毛をかきあげ、呆れて彼女を見るだけだ。

 簡単なことだ。姉が嘘つきになってしまったのは、少しばかり俺が関係しているからである。


 ことは、数年前に遡る。

 二年前。俺と姉は、教会で盗みを働こうとしたのを神父さまに見つかった。しかし父は病気で亡くなり、残された母は身売りをして暮らしを繋いでいると知った神父さまは、俺たち姉弟を全寮制の神学校に入れてくれた。神様の思し召し。神父さまは確かそう言っていた。


 聖書にあるのはこの世の始めと大雑把な終わりだけだ。全てが鮮明に記されていたら、読み終わる頃にはこちらの命が尽きるだろうし、いつかは本を閉じて、罪人である事を受け入れなけれならない。神様はわりと無責任だ。

 その印が、俺のこの髪。俺は母親譲りの燃えるような赤毛だった。主を裏切ったユダと同じ髪色とか、死んだら吸血鬼として蘇るとかで、この国では侮蔑の対象だった。

 それに加えて青白い肌、顔に広がるそばかす、やせぎすの身体、所謂花街生まれという出自。たとえ敬虔な信徒だろうと、周りも俺もまだガキだ。ついた渾名は『ジンジャー』。常に心に爆弾を抱えていた、きがする。火のついた導火線を宥めてくれたのは、いつも姉のエミリアだった。

 エミリアは同じ母から生まれたというのに、俺と似つかないアーモンド形の目、栗色の巻き毛を持つ美少女だった。寮の子供にも慕われていた……弟の俺さえいなければ。


 その日は、早く帰って姉に今日のことなど話そうと考えていた。

 無駄に古いこの赤レンガの寮は、かつてホテルだった館を神父さまが買い取ったものだ。元はエントランスだったホールを駆け抜けて、赤みがかった絨毯の上を走る。

 前からは監督生とその取り巻きが歩いてきていた。すれ違った瞬間、低く罵られた。


「ジンジャー」

「うるさい!」


 振り向きざまにからかわれて、俺はありったけの声で怒鳴り返した。取り巻きのニヤけた口元から矯正器具が覗いている。惨めさが心に湧き上がった。導火線が燃え上がる。


「言ってろ。お前ら、地獄行きだからな」


 去っていく制服姿に吐き捨てる。奥歯をきつく噛んだその時――女性の叫び声が聞こえた。俺は右方を向く。その声に聞き覚えがあったからだ。

 広間と廊下を区切るガラスは長らく磨かれておらず曇っていて、中がよく見えない。苛立ちと焦りから、近くに置いてあった花瓶でガラスを割った。硝子は老朽化してひびだらけだったので、俺の体に傷を付けることなく、あっさりと部屋の内側へ崩れ落ちる。中の様子があらわになって、俺は唖然とした。

 姉のエミリアと、金髪の女生徒がいた。姉の服は裂けて泥だらけになり、俺の鞄を赤ん坊のように抱いている。艶のある巻き毛は濡れてうねっていた。


「あら、いとしい弟君よ」


 大きな赤いリボンを付けた、金髪の女生徒が言い放った。握った拳がぶるぶると震えた。


「この、やろ……ッ! よくも姉さんにそんなことできたな……」

「あんたのせいよ。けがらわしい姦淫の子、ジンジャーの癖に」


 女生徒のその言葉で、俺の中の導火線が弾けた。床を蹴って距離を詰め、女生徒に飛びかかった。憤怒のままに、近くの花瓶を手に取って頭上に掲げる。これから何をされるのか理解した女生徒が叫ぶが、そんなもの手枷にすらならない。


「うっ! うっ! ふぅっ!」


 初めの一突きは、ただ鈍い音がした。何度も振り上げ、花瓶底で殴打していけば、女生徒の顔はひしゃげ、ざくざくと鼻が崩れていく。花瓶に赤い飛沫が散っていく様は、咲き誇るバラにも似ていた。

 姉は叫びながら、俺に縋り付いた。


「やめて!だめ、ジョージ!」


 水をかけられたようだった。

 我に返った俺は、呆然として花瓶を取り落とす。さんざんに『肉』を叩いたそれは、カーペットに触れると共に弾け飛んだ。


「ああっ……あっ……」


 俺の手には、忌まわしい『あの色』の液体がべったりとついていた。手綱を失った馬のように、筋肉の制御がきかない。身が震える。俺は必死で声を絞り出す。


「ちがう……」


 俺は、悪魔じゃない。その一心で首を振った。


「ぜんぶ、全部この髪が悪いんだ!!」

「ちがう。母さんからの赤毛でしょ、あんなものは迷信。ジョージの髪は何も悪くない。――悪いのは、あんたの怒りよ」


 俺は震えながら姉を見上げた。エミリアは眉を詰めてきっぱり言った。――絶望。


「俺はもうこの神学校にいる資格はないよ……」

「ジョージ。悔い改めれば赦されるわ」


 言葉こそ冷たいが、台詞には悲愴感がいっぱいに滲んでいた。姉にこんなことを言わせる自分が情けなかった。もうそれに応える気力はない。俺は教父様から頂いたチョーカーを外して、白い喉を姉に晒した。


「エミリア。ここを、……かっさばいて」


 割れたガラスの破片を姉に差し出した。


「もう、いらないから……いたってしょうがないから……」


 エミリアは悲しそうに、愛しそうにただ笑みを深くするだけだ。おしとやかで上品で慈愛に溢れた、そんな姉らしい笑い。今はそれがたまらなく切なかった。


「ジョージ……」


 エミリアはガラスを手に取り、ひと思いに喉に突き立てた。意識が朦朧としてきた。


「ごめんね、こんなお姉ちゃんで」


 かぶりをふると、姉がうすく微笑んだ。

 純真な姉は、この日、死んだ。



「お目覚めかな」


 目に入ったのは清潔な寝室、白いベッド。この枕の柔らかさ――俺の寝室ではないな。

 傍に立って居たのは、黒いローブを着込んだ寮父だった。禿げ上がった頭に皺だらけの、ちんまりとしたおじいさん。彼は柔らかに微笑む。


 どういうことだ? あっけにとられている俺に、寮父は続ける。


「記憶が混濁しているんだね。いじめっ子にからかわれたエミリアが激昂して、そばにあった花瓶で女生徒の頭を殴った。それを通りかかったジョージに目撃され、発覚を恐れたエミリアは弟の君を殺そうとした――こういうことがあったんだよ。でも、お姉さんの事なら怖がらなくていい。彼女はもう別の神学校へ移ったからね」


 俺の貧弱さとエミリアの手加減のせいで、結局女生徒も俺も死ななかった。そういうことを、寮長は述べた。


 ――なぜだ。疑問符しか浮かんでこない。反論しようとして口を開くが、出てきたのはかすれた声だけだった。


「え――あぅあ、ぉえ……」

「ジョージ、喋ってはいけないよ!」


 寮父が取りすがる。そこで俺は、首にぐるぐる巻かれた包帯に気づいた。

 エミリアに喉を切られて一命は取り留めたが、どうやら今は声が出せないらしい。寮父から紙とペンを与えられてやっと、俺はその事実を受け入れることができた。


『違う。俺のせいなんです!エミリアは俺をかばって、嘘をついている。女生徒に聞いてみて下さい』


 崩れた筆記体を突きつけるも、寮長は神妙な口調で応える。


「エディリーティアは花瓶で頭を打たれて失神していたんだ。前後の記憶は抜け落ちている」

『違う! 彼女を殴ったのは俺だ。喉の怪我も俺が頼んだんです。姉は俺をかばったんです!』


 寮長は静かにかぶりを振った。エミリアは完全に悪者扱いされている。言いすがっても効果はないようだった。絶望してうつむいていると、寮長がドアを開け、外から誰かを呼んだ。

 入ってきたのは、あの女生徒だった。顔面がぼろぼろになってしまったようで、包帯をぐるぐる巻きにしていた。嫁の引き取り手はないだろう。後悔と同時に、ざまあみろという快感が滲んでくる畜生な自分自身を認識した。

 女生徒は俺の前でおもむろに膝を折った。


「あなたのお姉さんに酷いことをしてごめんなさい。あなたにも――」

「ジョージ、許してやってくれないか。この包帯を見ろ。彼女はもう充分すぎる代償を支払った……」


 ああ、彼女と和解させるために俺は寮父室に寝かされていたのか。冷めた気持ちが沸き上がってきた。違う。違うよエミリア。俺はこんな結末、望んじゃいない。


「ごめんなさい。悪いことをしたわ。やっと気づいたの」

 顔を滅茶苦茶にされたからな。

「こんな顔になって辛いわ。でも顔については天罰なのでしょうね」

 その辛さを、エミリアと俺はずっと耐えてきたけどな。

「私も許したから、あなたも私を許して欲しいの」

 なんて傲慢な――。


 神様、どうして赤毛であるだけでここまで酷い目に合わなければいけないのでしょう。あなたは仰ったじゃないか。求めれば与えられると。あれは冗談だったのですか。俺にはいくばくかの御心も、分けてはくださらないのでしょうか。生まれない方が、俺のために良かったのですか。自問自答は終わらない。思考を断ち切り、俺は、ぶっきらぼうに手を差し伸べた。


 エミリアも俺も皆に迎え入れられ、監督生も女生徒もみんなでニコニコ大団円。それが人の世の最善だ。しかし、現実はそうはいかなかった。ここにエミリアは居ないし、俺は奴らを許せない。つまるところ、殴ったり怒鳴ったりしても幸福にはなれないのだ。でもそれなら、あの時――女生徒がエミリアを暴行した時、監督生達にからかわれた時――俺はどうすればよかったんだ?

 『お願いですから赤毛でからかうのはやめて下さい』と土下座すれば良かったのだろうか。でもそんな事をしても、あいつらの汚れきった心は変わらないだろう。泥まみれの靴で、土下座した俺の髪を踏みつけるだけだ。


 自らを殺すことは、罪らしい。神父さまに教わった。

 けれどそれなら、きたない髪色の俺も、きたない志のあいつらも、存在そのものが罪だろう。

 生めよ増やせよ地に満ちよ。けれどそれは俺には当てはまらない。


 主よ。

 どうか望みがかなうなら、俺を殺してください。

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