第五章 謎の新人 ~第一節~




 包帯をはずすと傷口にぴりっとした痛みが走った。

「……あらかた治ってるけど、完治にはもう少しかかりそうだねえ」

「お手数をおかけします」

「若い子が細かいこと気にしなさんな。これがわたしの仕事なんだしさ」

 るいの額の包帯を交換しながら、あさは口もとのしわを増やして微笑み、新しいタバコをくわえた。

「――それにしても、橋本はしもとさんが多芸な人でよかったよ」

 開店準備をしながらマスターが笑う。眼鏡をはずしているからはっきりとは見えないが、おそらく笑っているのだろう。

「これで今後は仲間たちの生存率も少しは上がるかな?」

「といっても、わたしの“スキル”は傷の治りを少しばかり早くするだけだからねえ。気休めにしかならないんじゃないかい?」

「でも、橋本さんの“スキル”はそれだけじゃないんですよねえ?」

「ほかにはまあ……そうだね、カクテルを作るくらいのことはできるさ」

 そう答え、橋本は真っ赤な唇をにんまりと吊り上げた。

 三日前にこちらへ来たばかりだという橋本麻子は、見た目は三〇代後半の、どこか疲れたような独特の色気のある女だった。それこそ場末のバーで雇われママをしていそうな女で、それがファッションやメイクにもはっきり表れている。

 薬箱を片づけると、麻子は口もとのタバコに火をつけた。

「……いまさらなハナシだけどさ、ここがそんなに物騒な“世界”だとは思わなかったよ。もう何十人もやられてるんだって?」

「そうなんですよねえ。少し前も、腕利きが一度に三人もやられちゃって、それで困ってたところなんです」

 他人ごとのようないつものマスターの言葉を聞きながら、泪はまくっていたブラウスの袖をもとに戻した。

高橋たかはしさんも危なかったねえ。危機一髪だ」

「運がよかったんだと思います。……本当に」

 まさに運がよかったという以外に言葉が見つからない。事実、あの時の泪は完全に死を覚悟していた。

 背後の棚から勝手にブランデーの瓶を取ってきた麻子は、

「今回はまあいいとして……今後また同じことがあったら困るわねえ」

「高橋さんは自分の身を守れないしねえ」

「じゃあいっしょに住む?」

「……はい?」

 この初対面の女が急に何をいい出したのかわけが判らず、泪は首をかしげた。

「だからぁ、わたしたちといっしょに住む? っていう提案よぅ」

「わたし……たち?」

 泪がそう聞き返すと、ブランデーをストレートでちびちび飲み始めていた麻子は、自分の顔とマスターとを交互に指ししめした。

「ちょ、ちょっと、麻子さん、何をいい出すの?」

 泪が何か答えるより先に、マスターのほうがうろたえた声をあげる。いつも鷹揚に構えているマスターの慌てた姿が新鮮で、泪はつい笑ってしまった。

「あなたも察しが悪いわねえ……だからぁ、三人で住んだらいいんじゃないの? っていう提案なんだけど」

「三人って、まさか私と麻子さんと高橋さんってことかい?」

「ほかにいないでしょ」

「いや、でもねえ……」

 現在、エローダーたちはリターナーに対して絶対数で負けている上に、この世界では圧倒的にアウェーの存在だった。エローダーたちが一か所に集まって暮らしているところを、万が一にもリターナー側に突き止められでもしたら、数をもって押し包まれて一網打尽にされかねない。だから、たとえ誰かの住まいがリターナー側に発覚してもほかの仲間を巻き込まないため、泪の知るエローダーたちは、基本的に別々の場所でひとり暮らしをしていた。

 しかし、マスターと麻子、それに泪がいっしょに住むというのは、それに反する行動だった。

 ブランデーのグラスを置いてカウンターに肘をかけ、麻子はいった。

「そりゃあね、わたしやマスターは自分で自分の身を守れるだろうから、このままひとりで暮らしていたって特に問題はないかもしれないわよ。でも高橋さん――泪ちゃんはそうはいかないでしょ? あなた、戦えないのよねえ?」

「え、ええ……お恥ずかしながら」

「でも、ほかの仲間が持っていない特技を持ってる。……ねえマスター、こんな稀少な“スキル”を持つ子はわたしたちで守るべきじゃない? リターナーとやらと戦っていく上では、この子の力は今後も絶対に必要になってくるわよ?」

「うーん……」

 麻子からの提案に、マスターは髭を撫でながら逡巡している。当の泪からすれば、自分の身の安全が担保されるという意味ではこの上ない話だが、しかし、それなりのリスクがともなう提案でもあった。先日の夜のように、もしまた泪がリターナーに正体を見破られて追い詰められ、拷問にでもかけられた末に、マスターや麻子の居場所を白状してしまわないともかぎらないからである。

 自分にそこまでの忍耐力がないと判っている泪には、麻子の提案にみずから賛成だと挙手することはできなかった。

「――考えてみると、確かにこれまでは、高橋さんみたいなタイプの仲間はいなかったんだよねえ。みんなで別々の場所に住んで、自分の身は自分で守ってっていうのが当たり前だったんだけど、なるほど、高橋さんには自衛手段がないからねえ」

「でしょ?」

 したり顔でうなずいた麻子は、マスターを上から下まで眺めやり、

「……そうねえ。見た目の年齢的なところでいうと、マスターは泪ちゃんの伯父さんということにしとくと無理がなさそうねえ。で、わたしはマスターのところに転がり込んだ中年女ってことでどう? ついでに夜はここではたらくから」

「ありそうな話だけどね、そういうの。……でもそうか、高橋さんの安全を考えると、そうするのがベストかもしれないなあ」

「……いいんですか?」

「ああ。高橋さんをひとりのままにしておくのはやはり危険だからねえ」

「じゃあ決まりってことでいい?」

「わたしはかまいませんけど……」

 いつものように抑揚を押さえてうなずいたものの、内心、泪はほっとしていた。あの夜のような恐怖と苦痛に怯えるのはもうごめんだった。

 マスターは麻子が使ったグラスを片づけ、店の裏口のほうを指差した。

「それじゃ麻子さん、さっそくはたらいてもらえる? ビールが届いてると思うから、中に運んでおいてね」

「え~? 力仕事は男性の領分じゃないの?」

「あいにく、私はもとの世界では女だったんだよ」

「都合のいい嘘ついて……たとえそれがホントだとしても、今はれっきとした男じゃないの、まったく」

 苦笑交じりのぼやきを残して、麻子は店の裏手に向かった。

「――それで、高橋さんを間一髪で助けてくれたその新人さんは? いつここへ顔を出してくれるのかな?」

「そこはまだ何とも……ただ、かなり野心的で独善的な人です。自分が手柄を立てるためならスタンドプレイも平気でやるみたいな――」

「うーん……まあ、数少ない仲間が枕を並べて討ち死にしたばかりだから、その姿勢を強くとがめるのも難しいけどねえ。でも、何か重要な情報を入手したのなら、さすがにひとり占めせずに共有してほしいなあ」

「敵の首のふたつ三つを手土産に、今後ここへ来る時にいろいろと教えてやるっていってました。だから、その時には――あの、クロコリアスさんもここへ呼んでおけって」

「クロコリアスくんを?」

 泪の言葉に、マスターはふと眉をひそめた。

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