🐢 浦島太郎(5)乙姫 vs 太郎

 太郎はお亀に案内されて、本丸御殿の入り口まで来た。

「ここでお別れでございます」

 お亀は、太郎に深々とお辞儀をした。

「ああ、オメエも達者でな」

 本丸御殿の入り口は、刀や槍で武装した下級の侍が守りを固めていた。ドングリまなこと先の尖った乱杭歯が、ひどく人間離れした印象だ。

 しばらく待っていると、一人の腰元こしもとらしき女が現れた。なかなかの美女だが背は低く、やはりどこか人間離れした容貌だ。しかし、竜宮城暮らしが長くなったためか、太郎にはまるで気にならない。

「乙姫様付き年寄としより*、ねこと申す。乙姫様の御前ごぜんまで案内いたすゆえ、ついて参れ」

  *「年寄」は役職の名前であり、老女の意ではない。

 年寄・猫が先に立ち、太郎の後ろを二人の侍が固める。


 廊下は長く、幾度も折れ曲がって進む。

 時々、御浜曲輪と思しき建物や城下町が、眼下に現れた。

「この部屋にお入り。何も身に帯びていないか改めるゆえ、着ているものをすべて脱ぎなさい」

「へぇ。あの、ふんどしもですかぃ?」

「いいや、褌は取らんでよろしい。取らせるのが決まりだが、見るのも汚らわしいからな」

 太郎は安堵した。褌の中に煙玉が隠してあるからだ。

 猫が目くばせすると、二人の侍は下がっていった。男が立ち入りできるのは、ここまでらしい。

 侍の代わりに、奥女中が5、6人入ってきた。一人が、薄い単衣ひとえの着物を持っていて、それを太郎に着せた。

 年寄や奥女中に囲まれながら、さらに御殿の奥に進んだ。

「ここで、そなたの体に香油を塗るゆえ、着ているものを脱げ」

 猫が、板敷の一室を指し示した。

 褌一つになって立っている太郎の全身に、奥女中たちが壺に入った油を、手で丹念に塗り込んでいく。まるで臨月を迎えた女のように膨らんだ腹が、香油を塗られてテカテカと光っている。

 若い女の手で肌に触れられるのは悪い気持ちはしないが、その香油と称するものは、とてもきつい異臭を放っている。

「猫様、この香油は何からできておりますんで?」

「ん? そなたに教えるいわれは更々ないのじゃが、特別に教えてやろう。これはな、抹香鯨まっこうくじらから採った脳油のうゆじゃ。時間をかけて熟成させた逸品じゃぞ。乙姫様は、ことのほかこの油がお好みなのじゃ」

<なに、脳油だと? さては、俺を食らうための味付けか>

 これから大鮫に食われると思えば、足が震えてきても不思議はないが、今日の太郎は、妙に肝が据わっていた。

 そこへ、一人の年嵩としかさの女が入ってきた。

「準備はどうですかな、猫殿。乙姫様のお出ましの刻限が近付いておりますぞ」

「おお、奴智どち様。こちらは整いました」

「そなたが太郎か。わらわは乙姫様付き年寄筆頭・奴智じゃ。これから、乙姫様より拝謁の栄誉を賜るから、神妙にいたすのだぞ。ご下問にお答えするとき、下賤な者の話しぶりにならぬようにな」

 奴智は、鋭い視線で太郎の全身をめ回した。

「ほぅ。よく肥えておるのぅ。重畳ちょうじょうである」

 奴智は満足そうな笑みを浮かべた。

<こいつめ、俺の太り具合を確かめたな。今となっては、毎日たらふく食っていたご馳走が、恨めしいぜ>


 年寄の奴智や猫に先導されて太郎が入ったのは、千畳はあろうかという大広間だった。

 すでに、様々な顔かたちをして、色とりどりの着物に身を包んだ女たちが、コの字になって居並んでいる。太郎が入室すると、女たちの視線はいっせいに太郎に集まった。辺りが一瞬静まり返ったが、すぐにおしゃべりが始まった。

 彼女らの外側を、女中らしき女たちが取り巻いている。その中には、女ながら屈強そうで、薙刀なぎなたを携えた者たちもいる。

「そこに控えておれ」

 奴智が指し示した場所に、太郎は正座した。異臭を放つ油でテカテカした布袋ほていのような肥満体が、褌一つで畏まっているという、なんとも珍妙な姿である。

 前を見ると、正面は二、三段高くなっている。そこが乙姫の座る場所なのだろう。


「乙姫様の、おなーりー!」

 女中の声が大広間に響き渡った。

 大広間にいる者たちが平伏する気配が感じられた。太郎も両手をついて、頭を下げた。

 ふすまが滑る音がして、すそを引きずる音がそれに続いた。

「皆の者、おもてを上げよ」

 優し気な美声だった。

 しかし、太郎は両手をついて、顔を下に向けたままだった。

<うっかり乙姫の顔を見たら、尻子玉を抜かれちまうからな>

「浦島とやら。苦しゅうない。面を上げよ」

「はは!」

 太郎は顔を上げたが、視線は乙姫の帯の辺りから上には向けないようにした。乙姫は、着ているものを見る限り、絵巻物から抜け出してきたようなお姫様だ。

 太郎は、乙姫の鋭い眼差まなざしが自分に注がれている気配を感じた。

「お前が、浦島太郎か?」

「そうでございます……でござりまする」

「面を上げよと申しておるのに、お前はわらわを見ておらんな。しかと、妾の目を見よ」

「はは!」

 太郎は、乙姫の首まで視線を上げた。白い肌をしているが、どうも鮫肌のようだ。

「どうした、太郎。首ではないぞ。妾の目を見よと申しておるのじゃ」

「はは!」

 太郎は、乙姫の顎まで視線を上げた。その顎は、美人画のように優美な形をしている。

 すると突然、乙姫が背を丸めるようにして、顔の位置を下げた。だから、太郎と乙姫は、互いに目と目を見かわす具合になった。乙姫は、ほれぼれとするような美形だ。しかし、太郎は思った。

<これが乙姫か。確かに絶世の美女だが、俺にゃぁ、馴染んだお亀の方がずっと別嬪べっぴんに見えらぁ>

 太郎は、しっかりと乙姫の目を見て微笑んだ。しかし、尻子玉を抜かれて腑抜けになるようなことは、起こらなかった。

「ん? お前、正気のままじゃな」

「はは!」

「この世で一番美しいのは誰じゃ? 答えてみよ」

「もちろん、乙姫様でございまするでござりまする」

「そうは言うが、本心ではなかろう。その証拠に、お前、正気のままじゃな。だが、まあよい。それにしても、随分肥えておるな」

「はは! こちらに参りまして、来る日も来る日もご馳走をいただきましたので、すっかり太りましてござりまする。いたずらに飯ばかり食いまして、申し訳ないこってござりまする」

「何かんじゃ?」

「二十五貫(約90kg)でございまするでござりまする」

「うむ。まだ、ちと足りぬが、よしとしよう。妾はな、肥えたおのこを好むぞよ。瘦せこけた男は、筋張っていてダメじゃな。お前のその太鼓腹、なかなかによろしい」

「はは! 有難き幸せにございましてござりまする」

<そりゃぁ、そうだろうて。肥えた奴の方が、食いでがあるからな。乙姫め>

「竜宮城で、何が一番面白かったか申してみよ」

「ただ珍しく面白く、月日の経つのも夢のうち、でございましてござりました」

「そうじゃろうな。その中で、一つだけ挙げるとすれば、何じゃ?」

「はは! 毎日の御馳走でございましてござりまする」

「御馳走じゃと? そうではなかろう。お亀とは、どうじゃった? 苦しゅうない。ありのままを申してみよ」

 大広間には、一つ聞こえない。一同が太郎の答えを待っているようだった。

「お亀とは毎日、面白おかしく過ごしましてござりまする」

「そんなありきたりの返答では、詰まらぬのぅ。ならばハッキリ尋ねよう。一夜のうちに、何回くらい目合まぐわったのじゃ?」

「そ、それは……」

「隠さんでもよい。何しろお亀は、竜宮城でも一二を争う床上手とこじょうずと知れておるからのぅ。なればこそ、お前を連れてくる役を命じたのじゃ」

<ちくしょう、乙姫め。俺をいたぶってやがるな。どうせこれから俺を食うというのに>

「わ、分かりましてござりまする。一夜の目合いは、たいがい十回くらいでございましてござりまする」

<へへ。どうせなら、大袈裟に言ってやれ>

 大広間に、どよめきが広がった。

「ほほう。あっぱれじゃな。妾は、強い男を好むぞよ。それでじゃ。目合いの様を、子細に述べてみよ。初手しょてはどこから攻めるのじゃ? それとも、お亀に攻められっぱなしか?」

<好色な乙姫め。どこまで、しつこいんだ>

 その時、年寄筆頭・奴智が割り込んできた。

「乙姫様、お楽しみ中、誠に恐れ入り奉りまするが、そろそろお裁きをお下し頂く刻限でございます」

「そうなのか? もう少しだけ、こ奴をいたぶってやりたいがのぅ」

「あまり時が経ちますと、せっかく塗り込みました鯨油が、乾いてしまいます」

「あい分かった、奴智。こ奴の罪状を申せ」

「はは! 丹後たんごの国、滝ノ江浜の住人、漁師・浦島太郎は、先年浜を通りかかったおり、わっぱどもに迫害されておった子亀・鍋太郎を見かけると、童どもから鍋太郎を奪い取りました」

<違う。助けたんだ>

「鍋太郎は、竜宮城御浜曲輪にて女中働きをしておりますお亀の一子でございます。鍋太郎を自宅に連れ帰った太郎は、あろうことか、出刃包丁を用いて鍋太郎の首を切り落とし、これを殺害したのでございます」

 そのとたん、大広間は悲鳴で満たされた。

<殺めたことは間違っていないな>

「皆の者、静まれ! さらに太郎は、鍋太郎のむくろを切り刻み、臓物を掴んで引き出しました。肉をブツ切りにすると、煮立った鍋の湯に投入、醤油で味付けしたうえ、京菜きょうなとともに、これを食らったのでございます」

 奴智の声が響き渡ると、先ほどにもまして大きな悲鳴が、あちこちから上がった。

<醤油なんて上等なものがあるかい。味付けは粗塩あらじおだぃ。京菜じゃなくて、半分枯れたねぎだぜ>

「鍋太郎を平らげた太郎は、残った甲羅、臓物、四肢の先端等を、無残にも海に遺棄したのでございます」

「極悪非道、夜叉やしゃしゃちの如き所業であるな。して、こ奴が鍋太郎を食らった証拠はあるのか?」

「はっ。咎人とがにん探索の相互協力に係る約定を結んでおります陸生蛇に、太郎宅——と申しましても、ちっぽけな茅屋ぼうおくでございますが——の糞壺を探索させましたところ、糞壺はすでにからでございました。探索の直前に、糞を全部売り払った模様でございます。残留していた微物を、科捜研にて分析いたしましたが、検出されましたのは虫卵のみでございました。なお、虫卵の種類といたしましては、すべてが回虫であり、真田虫さなだむしなど他の虫卵は検出されませんでした。糞壺の探索結果は以上でございますが、太郎が鍋太郎を殺害し、これを食ったことは十中八九間違いないと、この奴智は思料しりょういたします。乙姫様の厳正なるお裁きを、乞い奉る次第でございまする」

「なに。糞壺が空じゃったと? ちと手際がよすぎるな。これは臭うのぅ。まあ、糞壺じゃから、当たり前じゃがな」

 乙姫は目を細めた。

「やはり、臭いまするか?」

「プンプンするぞ。これ、太郎。お前は何人家族じゃ? 家には誰が残っておる?」

「へえ。女房と二人暮らしでございました」

「女房とな? なんという名で、どのような女子おなごじゃ?」

「トラと申しまして、女だてらに腕っぷしの強い、でございましてござりまする。世に並ぶものなき乙姫様と比べますれば、月とすっぽん、鯨と目高めだかでございますよ。はははは」

「これ、太郎! 図に乗るでないぞ。恐れ多くも乙姫様をば、鯨ごとき下賤のものに例えるとは。不埒千万ふらちせんばんである!」

 奴智が細い目を吊り上げた。

「まあよい。お前の女房は、泳ぎは達者か?」

「それはもう、女だてらに俺なんかよりずっと上手でございましてござりまする。海に入りますれば、まるで水を得た魚のようでございまして、泳ぐ速さも、潜る深さも、俺はトラの足元にも及びませんのでござりまする」

「そうか。お前には分からなかったかもしぬが、女房のトラとやらは、恐らく人ではあるまい。おおかた鯨族、名前から考えると、鯱一族の一員であろうな。先手を打って、陸生蛇の探索を妨げたのであろう」

「何ですって! トラが鯱? それじゃぁ、俺は女房に食われてたかもしれねぇんですかぃ?」

「いいや。鯱は人を食わぬ。鮫とは違ってな。鮫の中には、人間を好物とするものもおるぞ」

<いよいよ、本性を現わしてきやがったな>

 太郎は、乙姫との対決の時が近付いてきたのを感じた。

「乙姫様。太郎に対するお裁きをお下しください!」

 奴智が吠えた。

「浦島太郎! 何の落ち度もない鍋太郎を殺害し、その骸を切り刻んだばかりか、これを調理して食らい、残滓を遺棄した。お前の罪は限りなく重く、情状酌量の余地は皆無である。よって、死罪を申し付ける」

 玉を転がすような乙姫の美声が、静まり返った大広間に響き渡った。

「言い残しておきたいことはあるか? 太郎」

「へぇ。俺は嫌疑不十分で不起訴になったんです。何て名前だったか、伊勢だか海老だかいう与力から聞きました。どうか、お確かめ下さい」

「戯けめ!」

 叫んだのは奴智だ。

「海の世界では、乙姫様のお裁きがすべてなのじゃ。それに比べれば、伊勢管理官の言など、スカ屁のようなものじゃ」 

「乙姫様! ただちに大罪人を食らって下さいまし!」

「頭から、ひと呑みに!」

「いえ。腹を裂いて、臓物を引き出して下さいまし!」

「おこぼれの御下賜をお願いいたしまする! 耳朶みみたぶ一つでも結構でございますから!」

 大広間に詰めている者たちから、いっせいに声が上がった。

「太郎、覚悟せい! 今ここで妾がお前を食ってやるから、邪魔な褌を外せぃ!」

 同時に、薙刀を構えた女中数人が、太郎を取り囲んだ。

<いよいよ、その時が来たか>

 太郎は、褌に手を突っ込んだ。褌の中に赤い煙玉が忍ばせてあるのだ。

 ところが、煙玉がない!

<あれ? 煙玉はどこへ行った?>

 太郎は焦った。褌の前に手を入れてまさぐっているのだが、手に触れるのは、ちぢこまった一物と殖栗ふぐりばかりだった。

<おいおい、勘弁してくれよ。どこかで煙玉を落としたのか?>

「何をしておる、太郎! この期に及んでなお己の一物を弄ぶとは、血迷うたか? もうよい。褌ごと、お前を食らってやる!」

 言い終わるのも待たずに、乙姫は巨大な鮫に変身し始めた。


《続く》


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