第3話 聖女の憂鬱
菜穂の選んだ映画は、たしかにとても良かった。『最強のふたり』は、車椅子生活のフランスの大富豪と、その介護人の黒人男性の交流を描いた物語だった。
見ている俺と菜穂と、映画の登場人物たちには大きな距離がある。土地も国も年齢も民族も全く違う。
それでも感動できるのはどうしてだろう? 菜穂と一緒に映画を見るたびに、俺はいつも不思議だった。
他人とは決して完全にわかりあえない。だとしても、人間同士には、深い奥底の部分に共通点がある。
だから、物語を見て心を動かし、涙を流すことができる。
というようなことを、俺は塩原さんに話した。放課後の教室、つまり映画研究部の部室で二人きりだ。
塩原さんは感心したように、肩をすくめる。銀色の髪がふわりと揺れた。
「冬見くんって難しいことを考えるんだね」
「そう?」
「そうそう。変わってるよ。すごい」
塩原さんも、本心からすごいと思っているわけではないだろう。
俺も二人で暇だったから、時間をつぶしていただけだ。
「菜穂も似たようなことを言っていたけどね」
「冬見くんって、二言目には神宮寺さんのことを話すよね」
「俺は菜穂のことが好きだからね」
淡々と俺が言うと、塩原さんはジト目で俺を睨んだ。菜穂の仮説では、塩原さんは俺のことを好きということになる。
昨日顔を赤くして、俺と一緒にいたいと言ったのは、たしかにそんなような仕草にも見えた。
けれど、本当のところはどうだろう?
「塩原さんさ、ピアノの練習はいいの?」
「ああ、あれはね。やめたの」
さらっと塩原さんは言った。プロになれるかもしれないぐらい、塩原さんはピアノに情熱を注いでいたはずだ。
だからこそ、彼氏も親友もいなくて、聖女様みたいに扱われていた。その塩原さんがピアノを辞めたのなら、何か理由があるはずだ。
そう思っていると、塩原さんは美しい顔に困ったような笑みを浮かべた。
「才能に限界を感じちゃって。同じ先生のもとにね、年下のすごい子がいるの。私はずっと同じところで足踏みしているのに、その子はあっという間にコンクールで賞をたくさん取って……。十年もピアノに時間を使ったのに、私の手元には何も残らなかった」
俺は耳を傾けて、うなずいた。挫折はよくあることだと思う。誰もがなにかの一番になれるわけじゃない。
この学校では完全無欠の聖女様でも、学校の外に出れば違う。音楽という才能の世界では、聖女様も普通の人に過ぎなかった。
それが残酷な現実なのだろう。
「なるほどね」
俺は短くそう言った。塩原さんは不思議そうに俺を見つめた。
「冬見くんは同情しないの?」
「してほしいの?」
「そういうわけじゃないけど、他の人に言ったら、みんな私を慰めようとしたから」
「同情が許されるほど、俺は塩原さんのことを知らないからね」
「友達なのに」
「友達だからこそ、さ。本当は、塩原さんも同情も慰めも欲しくないんじゃない? 俺も似たような経験をしたからわかるんだけど、友人から受ける同情ほどつらいものはなかったよ」
怪我で野球を辞めたとき、もう野球ができないとわかったとき、周りはみんな俺に同情した。
あれほど期待されていたエースが、すべて台無しになった。可哀想だ可哀想だ、と。
でも、俺はそのとき、同情も慰めも必要としていなかった。俺の苦しみは俺だけのものだ。
俺は同情する友人たちを嫌い、孤立していった。
「そんなときでもさ、菜穂だけは俺に同情めいた言葉をかけることも、慰めることもなかった。ただ、一言、『公一が必要なら、わたしはそばにいるよ』と言ってくれたんだよ」
その言葉にどれほど俺は救われただろう。
塩原さんはじっくりと俺の言葉を考えているようだった。
そして、塩原さんは微笑んだ。
「羨ましいな、冬見くんのことが」
「俺が? 俺には何もないよ」
「またまた。ハイスペックなイケメンくんのくせに」
「それを言ったら、塩原さんだって成績優秀・品行方正な聖女様だ」
「そうだね。でも、そんなの何の意味もない。私が欲しかったのは、もっと別のもの」
塩原さんは手を天井へと向かって伸ばした。その仕草はとても美しくて、たしかに聖女のように見えた。
「少なくとも、俺は塩原さんの望むものを持っていないよ」
「……私はね。仲の良い幼馴染って憧れだったの」
独り言のように、塩原さんはつぶやいた。
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