第三二話 イグニス

「七緒は私の事務所のバイトでね……君の話を聞いて一度話をしたかったんだ」


「つまり最初からこのつもりだった……ですか?」

 僕の言葉にイグニス……緋色のスーツを着こなし、理知的な瞳の女性ヒーローがにこりと笑って頷く。伊吹さんとは全く系統が違うなあ、と思いつつイグニスの公開されているデータを思い出してみる。

 確か年齢は二〇代後半で、金色の髪にワンポイントで左右に入っている赤い色が本人のこだわりポイントだと話してたっけ……ヒーロースーツは彼女らしく赤を基調にしたもので、才能タレントはその名前の通り炎を操る能力。

 イグニスさんは店員さんを呼んで追加の注文を行った後、改めて僕に椅子に座るように促してきた。

「まあ座ってくれ、ライトニングレディのお弟子さんって聞いたのでね」


「あ、はい……失礼します」

 勧められるまま席へと腰を下ろすが、伊吹さんは僕の隣に腰を下ろし、ニコニコと僕を見て笑っている。

 デートって言ってたけど、実際にはイグニスさんの依頼で僕を連れてきたってことなんだろうな……ちょっとだけ女の子との初デートって思っててドキドキしてた自分が情けない気がする。

 そんな思いで彼女を見ていると伊吹さんが僕の視線に気がついたのか、笑顔で僕に話しかけてきた。

「まあまあ、秋楡っちはそうでも言わないと一緒に来てくれないじゃん」


「……七緒、どういう連れ出し方をしたんだい?」


「んー……デートしようって」


「……まあいいや、すまないね秋楡 千裕君。七緒とは仲良くやれているかい?」

 伊吹さんの答えに少しだけ、呆れたような表情を浮かべたイグニスさんは、改めて僕に軽く頭を下げてそれから懐より名刺を差し出してくる。


『イグニス・ヒーロー事務所 一級ヒーロー イグニス』


 とてもシンプルな名刺だが、そういえばイグニスさんは個人で民間のヒーロー事務所を経営しているんだっけ。

 彼女は一級ヒーローとしては今一番勢いのある存在で、ライトニングレディが引退もしくは降格した場合は超級に推薦されると噂になっていた人物の一人だ。

 炎を操ることと、格闘戦の能力だけでいえばライトニングレディに匹敵するとさえ言われており、女性ヒーローの中ではかなり突出した存在であることは間違いない。

「まさか伊吹さんのアルバイト先がイグニスさんの事務所だとは……」


「勇武に推薦したのも私だからね、その縁だよ」

 ちなみに日本においてヒーロー活動というのは公的に認められた治安維持活動となっているが、活動にはヒーロー免許が必要となっていて、免許を取得するためには専門の教育機関での教育、特別な認可が降りないと取得することが難しい。

 勇武生は準四級のヒーロー免許と同等の権利を持つ学生証を携帯することになっており、有事の際には治安維持活動にも参加することが義務付けられていたりもするわけだが。


「秋楡っちがライトニングレディの弟子なら、私はイグニス先生の弟子ってわけさ」

 伊吹さんがなぜか得意げな顔で僕に顔を近づけているが……なんでこの子はやたら距離感が近いのだろうか。僕はどうしていいのか分からずに少し頬を染めて固まっているが、伊吹さんはニコニコ笑いながら僕の腕に手を絡めてピッタリくっついており、やたらいい匂いをさせていて正直僕は心臓が跳ね上がりそうなくらい緊張している。

 僕が困ったように固まっているのを見て、イグニスさんは軽くため息をついてから伊吹さんに諭すように話しかける。

「七緒、男の子との距離は少し空けたほうが好かれるよ、それは距離感が近すぎるし秋楡君も困っているだろう?」


「えー、でもこういうほうが嬉しいんじゃないの?」


「すまないね秋楡君……まあ、そのままでいいなら話を進めていいかな?」


「は、はい……緊張しますけど……」


「では続けるが……今回君に来てもらったのは七緒と一緒にウチのバイトをしてほしいからだよ」

 イグニスさんはバイトについて事前の説明を始める……元々イグニスさんの事務所は一級ヒーローであるイグニスさんと、二級ヒーロー一名、三級ヒーローが二名、そして勇武生である伊吹さんの五名で構成された事務所だ。

 民間のヒーロー事務所は、一般人の通報により警察による対処が難しいと判断された場合に権限を委譲され活動を行うこととなっている。

 ただ、実際には治安維持活動の一部を警察より継続的に委譲されており、ヒーローによる巡回活動の中で、ヴィランもしくは犯罪者による事件が起きていると判断した場合は、許可を取らずに活動を行うことが許されている。

「確かに千景さ……ライトニングレディが僕を助けてくれた時は普通にチンピラ殴ってました」


「……あの人らしいけど、本来はそれダメだからね、君は真似しちゃダメだよ?」

 イグニスさんが僕の話を聞いてめちゃくちゃ困ったような表情になる……ああいうの本当はダメなんだ……超級ヒーローであるライトニングレディだから許されてるのか、それとも千景さんが特別なツテでもあるのかもしれない。

 一度イグニスさんが咳払いをすると話を続ける……イグニスさんの事務所は割と人気のヒーロー事務所で、仕事はたくさん入っており、事務所の二級、三級ヒーローはイグニスさんが出るほどでもない事件や調査などを担当しており人手不足に陥っている。

「ヒーロー事務所ってそんなに案件入ってくるんですか……」


「君が勇武を卒業後に民間事務所を開くつもりなら勉強になると思うし、そうでなくても私は君に興味がある」


「えー、秋楡っちは伊万里っちがベタ惚れだからダメですよぉ」


「は? え? 伊万里さん? なんで伊万里さんが今話に出るんですか……」


「あの転入生だね、あれは逸材だね……でも私は秋楡君の方が魅力的だよ」

 女性ヒーロー、しかもめちゃくちゃ美人のお姉さんに魅力的、なんて言われたのは生まれて初めてかもしれない……だが、すぐにイグニスさんは笑顔を浮かべて身を乗り出すと、僕の頬にそっと手を添える。

 ほのかに温かく、きめ細やかな細い指、そして滑らかな肌触りを残しつつイグニスさんの手が離れていく……そして彼女は僕の目を見つめてもう一度にニコリと笑う。

「……千景先輩が可愛がっている弟子の仕上がりを見たいってのが本音だよ」


「お知り合いですか?」


「この業界割と狭いのよ」

 イグニスさんは再び椅子に座り直すと、苦笑いのような笑みを浮かべる……ネットの噂になってたが、ライトニングレディとイグニスは似たような立ち位置にいて、同じ格闘戦を得意とするヒーローであることと、美しい女性であることからライバル関係にあって仲が悪いと言われていたが……実際はそうでもないかもしれない。

 伊吹さんが再び僕の腕を抱き抱えるようにして、体を密着させて笑顔を浮かべたことで僕は再びビクッと身を震わせて縮こまる……柔らかすぎるし、なんでこの人こんな距離感が近いんだ……。

「ねえ、ヤろうよ! 絶対秋楡っちの訓練にもなるだろうし、楽しいよ!」




「さて……千景先輩に連絡しておかないとな……」

 勇武生である伊吹と秋楡が喫茶店から出て行った後、一級ヒーローであるイグニス……本名石蓴 由貴あおさ ゆきは、スマートフォンを取り出してライトニングレディの連絡先へと電話をかける。

 ここ最近は連絡をとっていない……とはいえ、それまでは割と頻繁にやり取りをしていた間柄なので大丈夫だろうとは思うが……数回のコールの後に少し不機嫌そうな千景が電話に出た。

「あ? 由貴か……どうした?」


「お久しぶりです先輩、実は秋楡君をうちの事務所でバイトさせたいと思ってまして……」


「あ?! なんだよアンタもショックウェーブと一緒で千裕が欲しいのか……ったく、由貴ならちゃんとシゴけるだろうし、大丈夫だとは思うけどよ……なんだってこんな時期に」


「どうしたんです、何かあったんですか?」


「ああ、実はナイトマスターに襲われたんだ」

 その言葉に思わず息を呑むイグニス……ナイトマスターはヒーローからも要注意ヴィランの一人としてマークされており、ここ数年はほぼ姿を表していないがそれでもそこらへんにいる四級、三級のヒーローが太刀打ちできる相手ではないのだ。

 そんな大物がライトニングレディを狙ってきた、というのはとてつもない異変が起きていると思わざるを得ないのだ……イグニスは少しだけ背中に冷たいものが流れたような気がしたが、それでも先に秋楡のことを断っておくことにした。


「その話はまた別で行いましょうか……それと秋楡君にはアルバイトとして私の事務所で同級生と一緒に仕事を体験させようと思っていますし、もちろん先輩の迷惑にならないようにいたします」

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