第16話
白い壁紙が目に入る。あれ? ここはどこだっけ。僕は身体を起こす。そうだ、慶介の家だ。ベッドの中に彼はいない。どこへ行ってしまったのだろう。探しにいこうにも、真っ裸だ。
僕は着るものを探して部屋の中を見渡す。美那郷で慶介が使っていた部屋を見た時も思ったが、彼の部屋には物が少ない。クローゼットに服が並んでいる以外には本棚と小さなボックス、テーブルがあるくらいだ。テレビもない。だが、本棚には「六法全書」をはじめとしたマーケティングやら、心理学など難しそうな本、コンパクトな文庫本、マンガなどがぎっしり並んでいる。僕はカーペットの上に脱ぎ捨てられている自分の服を見つけた。とりあえずあれを着よう。僕がベッドを出ようとした時、部屋のドアが開く。
「シュウ、おはよう」
慶介だ。下着姿ということは、彼も起きたばかりなのだろう。慶介はそのままベッドに腰掛ける。
「おはよう」
僕は慶介の口に軽くキスをする。そして、そのまま舌を絡めた。空調が効いた部屋にねっとりとした水音がする。
「ちょっ、シュウ」
慶介は僕から逃れようとする。
「ダメ?」
「ダメじゃないけど」
「じゃあ、いいじゃん」
僕はそのまま続きをしようと、慶介を押し倒そうとする。が、彼は自分が倒れないように抵抗した。
「こらこら、今日はこれから模擬テストでしょ」
「別にいいよ」
「良くないから。そろそろ準備しないと間に合わないよ」
「えー」僕は抗議の声を上げる。
「『えー』じゃないでしょ」
「だって、あと七日経ったら、慶介とは当分できないんだよ。朝から晩までずっとしてたいくらいなんだけど」
「アホか。そんなのダメです」
「ふぅん。身体は違うみたいだけど」
僕は慶介の下腹部に目を向ける。
「うるさい、うるさい。そんなことのためだけにオレは慶介を預かった訳じゃないの。お父さんに申し訳が立たないだろ。さあ、さっさと着替えて」
「ちぇ」
僕が諦めたのを確認すると、慶介は自分の服を着て部屋を出て行った。僕もベッドを抜け出し、自分のカバンから着替えを取り出す。
僕が服を着て、ドアを開ける。慶介はキッチンで朝食の用意をしていた。
「何か手伝いましょうか」僕は慶介に聞く。
「ん、ありがとう。でも、もう終わるから、大丈夫。洗面所で顔でも洗ってきなよ」
僕は昨夜教えてもらった通りに玄関の方へ向かって、洗面所で身だしなみを簡単に整える。部屋へ戻ったら、朝食は既にテーブルの上で準備万端だ。僕たちは向かい合って座って「いただきます」を合図に食事をはじめる。
今日の献立はご飯とわかめのみそ汁、焼き魚は鮭だ。鮭か。僕、苦手なんだよな。どうしよう? とりあえず、ご飯とみそ汁から食べよう。
「試験会場の行き方、わかる?」慶介が僕に確認する。
「ええっと。ここから地下鉄で一本みたいなんだけど」
「何駅だっけ?」
僕は慶介に行き先を教えた。
「ああ、そうだね。駅までの道はわかる? ついて行こうか?」
「大丈夫。僕、道を覚えるのは得意だから」
「そっか。オレ、最初に行くところってひとりだと迷っちゃうんだよね」
「へぇ。じゃあ、出掛ける時は僕が自分で調べた方がいいかな」
「流石に僕が連れて行きたいなと思ってるところは、全部行ったことあるところだから大丈夫。観光地とか行きたい?」
「いや、いい。修学旅行の時に大体行ったから。それよりは慶介と一緒にいたい」
「相変わらずかわいいこと言ってくれるね。でも、せっかくだからいろいろ見て欲しいかな。オレも仕事があるから、そんなに連れて行ける訳じゃないけど」
「行ったことがないところは、行けないもんね」
僕がしれっと言うと、慶介は「手厳しいね」と苦笑した。
「そういえばシュウ。鮭、ほとんど食べていないけど、何か変だった?」
慶介、めざといな。さっきからごはんとみそ汁に紛れ込ませながら少しずつ減らしてはいる。だが、量のバランスが明らかに崩れてしまった。
「いや、そんなことないよ」
「本当に? もしかして痛んでる?」
「そうじゃない。実は僕、焼き魚の鮭って苦手で。他の調理方法だったら、食べられるんだけど」
「そうだったんだ、ゴメン。オレもちゃんと食べ物の好き嫌いを聞いておけば良かったな。卵は大丈夫だよね。ちょっと作るから、待ってて」
慶介はさっと席を外して、キッチンの方へ向かっていった。僕は焦って立ち上がる。
「そこまでしなくてもいいよ。苦手なだけで食べられない訳じゃないから」
僕は慶介を追いかける。
「せっかく二人での朝ごはんだから、笑顔で食べてもらいたいじゃん。それに、それほど手間がかかるものを作る訳じゃないから」
「でも」
「オレの自己満足に付き合ってよ。ね」
「わかった」
「サンキュ。ちなみに、チーズとほうれん草は好き?」
「うん」
「オッケー」
慶介は冷蔵庫を開けて材料を取り出して、手際よく準備した。彼はフライパンに目線を落としながら、僕に話し掛ける。
「シュウって相手に迷惑をかけないように我慢しちゃうところがあるよね」
「そう?」
「ああ。でもさ、何が迷惑かは相手によるんだ。オレは正直な気持ちを教えてくれて、頼られた方がうれしいな」
言われてみれば、今まで僕は周りが求める役割を演じていた気がする。父さんや母さんにも、あまり頼らなずに自分のことは自分で解決してきた。詩織とは全てではないが、本音で話せている部分はある。とはいえ、それも彼女が先に僕の気持ちをくみ取ってくれているからなのかもしれない。改めて考えてみたら、僕は自分の意思で他人に頼ったことはないのかもしれない。
「うーん、がんばってみる」
「じゃあ、とりあえずオレを練習台にしてみてよ」
「オッケー」
「さて、できた。そっちに持っていくね」
慶介はスクランブルエッグを皿に盛って、テーブルへ戻ってきた。
「あざやかな黄色だね」
「ヨーグルトを混ぜたから」
「へぇ、どんな味なんだろう。じゃあ、いただきます」
箸で摘まんで一口食べる。チーズのまろやかさ、ふわっふわのたまごに、ほうれん草のしゃきしゃきっとした食感の組み合わせがいい。
「美味しい」
「それは良かった。じゃあ、鮭は僕がもらっておくね」
慶介は僕の皿から鮭を取って、パクパクっと食べてしまった。
「それにしても、シュウにも苦手なものがあるってわかって安心した」
「どういうこと?」
「いつもしっかりしていて、弱点がなさそうに見えるから」
「この歳になって、食べ物に好き嫌いがあるっていうのは恥ずかしいけど」
「そうかな。オレは『かわいい』って思うよ」
相変わらず慶介は、何の臆面もなく人をよろこばせるようなことを言う。本当にずるい。
食事が終わって、二人で「ごちそうさま」を言う。慶介は僕の分と食器をまとめようとした。
「僕も手伝う」
「いいよ。そろそろ出た方がいい時間だから、シュウは出掛ける準備をしてきなよ」
時計を見るとそれなりの時間にはなっていた。だが、ちょっと手伝うくらいの余裕はある。
「でも」
「初めての場所だから、余裕を持っておいた方がいい。それにこれも人を頼る練習」
「わかりました」
僕はしぶしぶ部屋へ戻り、移動用に持ってきたカバンへ荷物を詰め込む。準備が終わって、僕は慶介のところへ戻った。ドアが開く音で気が付いたのだろう。洗い物をしていた慶介は顔を上げた。
「準備万端かい」
「はい」
「じゃあ、駅まで送るよ」
「大丈夫だって。あんまり子ども扱いしないで」
「うーん、そっか。そうだね。じゃあ、せめて玄関まで」
慶介は手元のタオルでさっと手を拭いて、キッチンから出てきた。僕たちは一緒に玄関まで行く。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん。いってらっしゃい」
慶介は軽く手を振る。だが、何か物足りない。そうだ、アレだ。
「いってらっしゃいのキスは?」
「えっ?」
急な僕の発言に慶介は目を見開く。
「慶介にキスしてもらえたら、やる気が出ると思うんだ。これ、正直に気持ちを伝えて、頼る練習」
「そう来たか。わかったよ」
慶介は僕を抱き締めて、キスをした。
「これでやる気が出た?」
「もうちょっと」
「調子にのらない。じゃあ、がんばってくるんだよ」
「はーい。いってきます」
僕はドアを開けて、家を出た。
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