麻疹の痕
藤間 保典
第1話
真っ暗闇の中、白い紐のようなものが放り出されている。よく見るとそれは蛇だった。身体を丸め、ぴくりとも動かない。
どれくらい時間が経っただろうか。どこからともなく、一匹の赤い蛇が現れた。白い蛇よりも一回り大きな身体を引きずり、その前を通り過ぎていく。
その時、何かがキラリと光る。次の瞬間、赤い蛇の頭があった場所には、白い蛇の頭があった。赤い身体は激しく暴れる。だが、次第にその動きは緩慢になっていき、遂には小刻みに震えるだけになった。
そして赤い蛇は白い身体の中へ、徐々に呑み込まれていく。赤い姿が跡形もなくなり、白い注連縄のようになった蛇が再びその場にうずくまる。
身体は規則的に上下運動を続け、膨れ上がった姿も次第に縮んでいった。元のサイズに戻った頃だろうか。動きが突然止まった。かと思ったら、左右に身体を激しく振り乱す。
だが、それもほんの短い間のことだった。やがて、白い蛇は動かなくなる。
目を開けると見慣れた木目模様のある天井だ。どうやら僕は夢をみていたらしい。身体は汗でびっしょりだ。木製の窓の外からは、蝉の鳴き声がする。今日もうるさい。ただでさえ暑いのに勘弁してくれないだろうか。
僕はベッドから外を見上げた。青い空には大きな入道雲がかかっている。この暑さなら、もう昼か。そろそろ起きた方が良いだろう。伸びをして眠気を追い出していると、階下から声がした。
「修一」
母さんだ。
「早く起きなさい。今日は『お客様が来る』って言ったでしょう」
「わかってるよ。今、準備する」
ベッドから畳に降りて、僕はハーフパンツを探す。お客さんといっても、これから一緒に暮らす相手だ。そこまでかしこまる必要もないだろう。その辺りに放ってあった白いTシャツを着て、襖を開けると廊下にある洗面台へ向かった。
漆喰の壁に貼られただけの小さな一面鏡に写ったのは、純和風で中性的な顔だ。不満を言っても仕方ないが、もう少し男っぽくならないものだろうか。日焼けをしても、真っ赤になるだけの白い肌では無理な相談かもしれないが。
さて、寝癖は大丈夫そうだ。ヒゲも整えるほどではない。古びた蛇口をひねると、白い陶器製の洗面ボウルに水が跳ねる。よく冷えた地下水で軽く顔を洗うと眠気はすっかり吹き飛んだ。あとはタオルで顔を拭けば、準備は万端。
階段を降りると、母さんが「待ちくたびれた」と言いたげな顔で僕を見る。
「修一。夏休みだからって、少しのんびりし過ぎじゃない?」
「ごめん、ごめん」
「母屋の方にいらっしゃっているから。急いで」
僕は大人しく母さんの後についていく。
「なんて人だっけ」
「立花慶介さん。災害応援で、別の自治体から来てくださったの。年は二十五歳」
「こんな田舎まで、ご苦労だなぁ」
「もう、そんな言い方しないの。顔立ちがはっきりしていて、なかなかの美男子よ。町の女の子たちは放っておかないんじゃないかしら」
「へぇ。いい娯楽の種が来たって訳だ」
母さんは眉間にシワを寄せて僕を見つめる。
「わかっているとは思うけど、あんまり失礼なことを言わないようにね」
「はぁい」
僕は母さんに調子を合わせて答える。
客座敷の前に着くと、中から笑い声が漏れ出していた。父さんだ。漏れ聞こえてくる内容から察するに、板の間に飾ってある掛軸の話をしているようだ。先祖代々伝わるものと言われているが、どこまで本当なのかはわからない。母さんが両膝をつき、襖の前で声を掛ける。
「あなた、修一を連れて来ました」
「ああ、入ってくれ」
襖を開けると父さんと若い男が座っていた。父さんがこちらを向く。
「修一。今日は、またゆっくりだな」
父さんはスーツ姿で、髪をしっかりセットしている。暑くないんだろうか。僕は頭を下げた。
「すみません、父さん」
「はは、やるべきことをやっているならいいさ。立花くん、これが長男の修一だ。今年、十七になる」
立花と呼ばれた男性はジャケットこそ着ていないが、休みの日だというのにワイシャツにスラックス姿だ。母さんの言う通り、男っぽい整った顔立ちをしている。確かにこれだったら、この辺りの女性は放っておかないだろう。
「修一くん、こんにちは」
立花は握手をしようと手を出してきた。僕はそれを受ける。
「よろしくお願いします」
立花は笑顔を浮かべると、父さんの方を向いた。
「弟の遵次くんとは、また雰囲気が違いますね」
「そうだな。遵二は野球部の四番。修一は高校で成績トップだ」
「すごいなぁ」
僕は謙遜の言葉を口にする。
「田舎の高校ですから」
「けど、一番でしょう。なかなかできることじゃない」
父さんは僕たちのやり取りを見て、笑顔でうなずくと立花に言った。
「立花くんの部屋は、修一が使っている離れに用意させてもらった。こちらの母屋では、何かと気詰まりするだろうからね」
「お心遣い、助かります」
「本当ならホテルでもあれば良いのだが。ここ美那郷は田舎でね。外から来た人を泊めるところがない。まあ、滞在中は自分の家みたいに思ってくれ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、修一。立花くんを部屋へ案内してあげなさい」
「はい、わかりました。じゃあ、行きましょうか」
「うん」
立花は父さんにお辞儀をすると、手にボストンバッグを持って、僕についてくる。
「荷物、少ないんですね」
「あんまり物は持ち歩かない主義なんだ。足りなかったら、買えばいい」
「『買えばいい』っておっしゃいますけど、日用品を買えるようなところは、ここから近くても車で三十分くらいかかりますよ」
「えっ、本当に?」
立花は目を見開いた。これだから都会のヤツは。何でもすぐ手に入ると思っている。
「はい」
「マジか。困ったな」
「緊急で必要なものがあれば、お貸ししますよ」
「サンキュ、助かる。多分大丈夫だと思うけど。何かあったら、お願いする」
「わかりました。あっ、着きましたよ。一階が立花さんの部屋です。僕は二階にいるんで、何かあれば声をかけてください。風呂は共用のが一階にあります」
「ありがとう。今日からよろしく」
「こちらこそ」
これでひとまず役目は終わりだ。僕は階段を上がり、さっさと自分の部屋へ戻った。
勉強が一段落ついて窓の外を眺める。空と山の境目に、ほんのりオレンジ色が残っている。僕は窓から身を乗り出して、日が沈むのを見送った。窓に飾ってある風鈴が、ちりんと音を立てる。
「修一」
下を見ると母さんがいた。
「なあに?」
「そろそろごはんだから、立花さんに声をかけてちょうだい」
「わかった」
僕は机の上を片付けると、電気を点けて階段を降りた。一階は真っ暗だ。
「立花さん」
声をかけてみたが、返事はない。
「入りますよ」
鍵はかかっていなかったので、僕はドアを開けて、部屋に入った。カーテンを閉めているので薄暗い。だが、六畳程度の広さだ。目が慣れてくると、ベッドの上に横たわっている人影がぼんやりと見える。
「立花さん」
呼び掛けながら、肩を揺する。「んー」と反応があった。どうやら生きてはいるようだ。
「晩ごはんなんで、起きてもらってもいいですか」
少し強めに揺すったが、起きる気配はない。
「修一、どうしたの?」
外から母さんの呼ぶ声がする。離れの玄関まで戻って戸を開けると、母さんが目の前に立っていた。僕は母さんに状況を説明する。
「立花さん、寝ちゃってる。起きそうにないんだけど、どうする?」
「あら、そう。今日の移動で疲れていたのかもしれないわね。けど、お客さまに晩ごはんを出さない訳にはいかないわ。もう一度、起こしてもらえる?」
面倒くさいが、もう一度行かないと母さんは納得しそうにない。僕は立花の部屋に戻って、電気を点けると、再び声を掛けた。
「立花さん、ごはんですよ」
立花は「うーん」と声をあげると、寝返りをうって反対側を向く。仕方ない人だな。
「立花さん、起きてください」
僕はベッドに上がり、今度は耳元まで身体を寄せて呼び掛ける。すると立花はむにゃむにゃ言いながら答えた。
「✕✕✕✕? 起きて欲しかったら、チューして」
はあ?
「立花さん、寝ぼけてるんですか」
立花は目を擦りながら寝ぼけ眼で、こちらを見た。窓の外では虫が合唱をし始めている。彼はまた目をつぶったかと思うと、勢いよくベッドから起き上がって僕の顔を見つめた。
「ゴメン、寝ぼけてた。オレ、何か変なこと言わなかった?」
ええ、言ってましたよ。心の中では思ったが「大丈夫ですよ」と答えた。立花は深く息を吐く。
「そっか。良かった」
「寝起きで申し訳ないのですが、夕飯ができたので呼びに来ました」
「すみません。すぐ準備します」
やれやれ。僕はベッドから下りて、部屋の椅子に座った。だが、立花はこちらを伺うように見て、口を開いた。
「えっと。ちょっと着替えたいから、部屋を出てもらっていいかな」
男同士だというのに、何を恥ずかしがることがあるんだろうか。面倒くさい人だ。とはいえ、言い争いすることでもない。
「わかりました。玄関で待ってます」
「ありがとう。すぐ準備するから」
僕は返事を待たずに部屋を出て、玄関まで戻った。
「立花さん、起きたよ。着替えが終わったら来るって」
「良かった」
「立花さん、もう大人なんだから別にそこまで気にしなくてもいいんじゃない?」
「ダメよ。高野家のお客様ですもの。きちんとおもてなしをしなくちゃ。それに後で起きた時、食べるものがなかったら申し訳ないじゃない」
申し訳ないかどうかはさておき、変な時間に起きられて「食事をしたい」と騒がれても困るか。
そんなことを考えていたら、後ろで玄関がガラガラ音を立てた。振り返ると、新しい服に着替えた立花がいた。
「すいません、お待たせしました」
立花は頭を下げようとしたが、母さんはそれを制止する。
「いえいえ。今日は長い時間の移動でお疲れたっだでしょ。本当は寝かせてあげたかったのだけど、この辺りは遅くまでやっているお店もなくて」
「そうなんですね。ちなみに、お店は何時くらいまでやっているんですか」
「大体、夜の八時には閉まってしまいます」
「そうなんですか。早いですね」
「この辺りは夜に出掛ける人がほとんどいないので。お酒が飲めるお店だったら開いているかもしれないけど、車で一時間くらいかかってしまうから」
「なるほど。ちなみに、お昼ごはんはどうしたらいいんでしょうか」
「おっしゃって頂ければ、お妙さんに用意させます。でも、役場の辺りだったら、流石に食事するところくらいはあると思うわ」
「良かったです。ところで、お妙さんってどなたですか」
「家の食事を作ってくれている女性なの。立花さんがいらっしゃるって聞いて、今日の晩ごはんも張り切っていたわ」
「それは寝過ごしたら悪いですね」
「そうよ。お妙さんのごはん、美味しいんだから」
「楽しみです」立花は笑顔で返す。
母屋に着き、茶の間へ入る。父さんと遵二は既に座っていた。
「立花くん、やっと来てくれたか」
父さんは手で畳を叩いて、隣に座るように促した。全員が席に座ると、お妙さんが配膳をしていく。準備が整ったのを見届けて、父さんが口火を切った。
「では、いただこうか」
「いただきます」
それを合図に各々、食事をはじめた。父さんが立花に尋ねる。
「立花くん、口には合うかね」
「はい。特にこの汁物がいいですね」
「これは美那郷の郷土料理なんだよ。よろこんでもらえたならば、何よりだ」
「地元の文化に接することで、地元の方の気持ちもわかりますから、こちらこそありがたいです」
「そうやって関心を持ってくれるのは、うれしいね。幸いにして明日は日曜日だ。修一。立花さんにこの辺りを案内してあげなさい」
「そんな。私は災害派遣の身ですから、お気遣いなく」
「災害派遣といっても、美那郷はインフラこそ随分とやられてしまったが、幸いにして人的被害はない。一ヶ月半しかいらっしゃらないのだから、是非ともいろいろ見て頂きたい」
「恐縮です」
「でも、父さん。立花さんの車がまだ用意できていません」僕は口をはさむ。
「そうか。では、私が運転するか」
父さんは山菜の天ぷらをつまみながらつぶやいた。
「そんなご迷惑をお掛けする訳にはいきません。歩きます」
「ですが、流石に歩ける距離ではないですよ」
立花はしばらく唸ったかと思うと、目を見開いた。
「じゃあ、自転車をお借りできますか」
それを聞いて、今度は父さんが腕を組んで唸る。
「徒歩よりは楽でしょうが、この時期は日射しが強い。熱中症にでもなったら」
「大丈夫です。それに自転車くらいの速度と小回りの方が五感を使えて、より理解できるように思います」
「ふむ。そこまでおっしゃるならば、手配させておきましょう。修一、よろしく頼む」
「はい」
「修一くん、よろしくね」
立花は緩んだ顔でこちらに微笑んだ。
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