130.ざわめき
【リューリ・トワネル】
「リューリさん。
あなたは今、俺の……その、侍従さん? なんですよね」
それは、ベルスファリカ様とクロニア様が護衛も付けず、正真正銘お2人きりでお出掛けになり、無事にお帰りになった日の就寝前、というタイミングでの出来事でございました。
ゆるゆるとした寝間着を纏い、ふわふわとシャンプーの清い香りを漂わせながら、ご美貌を真剣一色にお染めになり、お尋ねになられたものですから……このリューリ、心臓が「トクン」と跳ねなかった、と申し上げれば嘘になります。
常日頃、妹分のアマリアより「姉さんは美人さんなんですから、もうちょっと笑った方がいいですよお〜」と言われる鉄仮面ではございますが、わたくしだって女性……
そう。一人の乙女であることを諦めかけていたところに、特別なときめきを齎してくださった殿方がお相手なのですから、尚更でございます。
はあ。どうやらわたくし、自己分析していた以上に、若き紅炎様に執心している模様。
この日など。メイドとしての仕事を完璧にこなしながら、ではございますが……クロニア様はご無事かしらと、どうか「肉食獣」達に襲われることなくお屋敷に戻られますようにと、内心そわそわヒヤヒヤとしておりました。
丁度良い花瓶はないだろうか、と明らかにベルスファリカ様が贈り主ではない花束をお見せいただいたときなど!
お花の美しさを最も引き立てるサイズ・お色・形の花瓶をお探ししながらではございますが……床掃除をした後の廃棄を待つだけの雑巾がその場にあれば、この両手で引き裂いてしまいたい、というお下品な欲求に駆られたものでございます。
そんな愚かなわたくしでございますが、完璧に平静を装いながら、申し上げました。
「はい。わたくしは、貴方様がお屋敷にご滞在なさっている限り、貴方様の忠実なる侍従でございます。どうぞ、何なりとご命令くださいませ」
勿論と申しますか、当然と申しますか、何より無礼と申しますか……わたくしの勘違いでございましたけれど。
弁えておりますもの、勘違いではなかったとしても、強靭な精神力でもって誘惑に耐え、お諌めするつもりではございましたが。
クロニア様は仰いました。
アストリテ様、そして橙地様と、もう一度ご面会なさりたい。ベルスファリカ様には決して知られぬよう、悟られぬように、と。
どうやらクロニア様は、わたくしが本来はベルスファリカ様の侍従である、ということにご懸念を抱かれていたようでございます。
「難しいお願いだと分かっています。断っていただいても構いません。
……いかが、ですか」
ベルスファリカ様のご友人として、罪悪感を感じていらっしゃったのでしょう。クロニア様は俯き加減に、下から見上げるようにして、わたくしをご覧になりました。
はあぁぁああん! そのお仕草の、お可愛らしいことと申しましたら……天よりのお使いでいらっしゃるのだと打ち明けられましても、このリューリ、決して疑いなど致しませんとも!
……こほん。
ただ。仮に、その儚げな美貌と奥ゆかしいお人柄に魅了されていなかったとしても。此方のご命令に対するわたくしの回答は、ただひとつでございます。
胸に手を当て、深く一礼を。
「拝命致しました。
このリューリ、必ずや仰せの通りに」
【メメリカ・アーレンリーフ】
あ、お月さまが出てる。
殆ど真ん丸、とても綺麗。わたしはお日さまよりもお月さまが好き。輝き方が優しいし、光の色もわたしの「白」に近いような気がするから。
……でも、夜よりも昼の方が、ずっと好き。
わたしは、夜の長さを知っている。ずっと、明日を待ち続けてきたから。
それは、待つことのなくなった今でも忘れられないことで……どうやら、オウゼの街でも王都でも、変わらないみたい。
お父さまとお母さまと一緒に王都を訪れて、ママ先生のお屋敷に招待されて、ママ先生の手芸作品に満ちた、温もりあるお部屋をお借りして。毎日ではないけれど、王国軍の訓練施設にお邪魔して、治癒魔法の練習をさせてもらっている。
王国軍の皆さまの訓練は、とても厳しくて激しいの。訓練用の木製の武器がぶつかりあう音、気合を入れるためや気合を入れさせるための大声が飛び交っているし、魔法だって色の違うものが、あちこちで花火みたいに弾けていて……
初めてお邪魔したときは、たった5分間その場に立っているだけで、涙がぼろぼろ。
最初は、わたしがどうして泣いているのか、わたしには分からなかった。こんなに泣き虫だったら、将来ティアちゃんを護ってあげられない、クロさまに追いつけない、って腹が立つばかり。
だけど、薄暗くて静かな場所で椅子に腰掛けて、ママ先生にゆったり背中をさすってもらっているうちに、いろんな感情が混ざり合った涙なんだって気づくことができたの。
わたしは、大きな音や声にびっくりした。
わたしは、まばたきをする一瞬一瞬のうちに、誰かが傷つくかも知れないことが怖かった。
わたしは、悲しかった。こうやって、来る日も来る日も厳しく激しく訓練して、明日にも戦場へ向かうことになるかも知れない人達がいる。
その現実が、とても悲しかった。
『そう、メメちゃんは悲しいのねえ。若い頃のおばあちゃんとおんなじ、だわ』
ママ先生はわたしの手をきゅっと握って、慈愛に満ちた瞳をすうっと細めて、いつも通りの穏やかなお声で、わたしにお話してくれた。
『おばあちゃんは昔、ね。戦場で傷つくみんなを癒やしてあげたくて、たくさんたくさん、治癒魔法のお勉強をしたの。だけど……治癒魔法を使うたびに、なんて悲しい魔法なんだろう、と思っていたのよ』
『治癒魔法が、悲しい魔法? ママ先生、どうして?』
ママ先生が刺繍を入れてくれたハンカチに、わたしが作った氷を包んで、眼を冷やしながらわたしは尋ねる。
『それはねえ……身体についた傷は癒やせても、心についた傷を癒やすことはできない、って考えていたからなの。
痛みや苦しみを経験し、記憶してしまった若い命を、繰り返し繰り返し、戦場へ送り出す。まるで、命の価値を冒涜する呪いのようだって……そう考えていたことも、あったわ』
のろい。
その言葉に、わたしはびっくりして、怖くなって、悲しくもなった。
それでも、また涙を溢れさせずに済んだのは、それまでママ先生の聞かせてくれた沢山のお話の中に、悲しい結末を迎えるお話は、ひとつとして無かったから。
『でもねえ、メメちゃん。ある日、おばあちゃんは気づいたの。「ありがとう」って残して戦場へ戻っていくみんなは、
傷ついたみんなを癒やすことは、みんなの運命を縛りつけることじゃあなくって。暗くなってしまった世界を明るく照らすことなんだわ、って。目の前にあるたくさんの道から、もう一度、進みたい道を選んでもらうために……ね?』
……そっか。
戦うことは、悲しいことだ。
だけど、みんなが選んだことなんだ。
わたし、まだまだ知らないことがある。選ぶことも出来ずに、運命に流されてしまう人もきっといる。でも今は……癒やせる傷があるなら、癒やす。わたしはまだ、それで良いんだ。
わたしは自分で選択して、訓練場へと戻った。
それから今日まで、たくさんの成功体験を積み重ねて、たくさんの「ありがとう」を貰うことができた。少しだけ、軍の皆さんとお話しできるようにもなった。
治癒魔法の使い手としては、一人前とまではいかなくても……0.8人前? くらいにはなれたんじゃないかと思う。
「白氷」の称号をいただくためには、治癒魔法だけでは足りないけど。うん、かなりの前進。
暗くなってしまった世界を照らすもの。
……治癒魔法って、なんだかお月さまみたい。
「メメちゃん?」
あ、お母さま。
振り返るとやっぱり、ほっとした表情で胸を撫で下ろすお母さまの姿があった。葡萄酒色のナイトガウンを着ている。わたしは今、お母さまと2人で1部屋を使わせていただいている。大きな1つのベッドに2人で寝ているのだ。
「ああ、良かったわ……目が覚めたらベッドからいなくなっているのだもの、びっくりしたのよ」
「ごめんなさい、ちょっぴり目が冴えて。
でも見て、お母さま。お月さま、綺麗だよ」
「お月さま?
あらまあ、本当に綺麗! ふふふ、こうして眺めてみると、お月さまの光って、何だかメメちゃんの魔法みたいね?」
「わたしも、同じこと考えてた。ふふふ」
お母さまがわたしに寄り添ってくれる。
少しの間、ベランダで2人、夜空を仰いだ。
「…………幸福だわ。こんな穏やかな日が訪れるなんて。メメちゃんが元気になってから大分経つのに、時々まだ、夢の中にいるようだと思うの」
お母さま、少し泣きそうな声。
大丈夫だよ、現実だよって言うかわりに、右手でお母さまの手を握る。
落ちるのが怖いから、左手は手摺りを掴んだままで。触れたときは突き放すようにひんやりとしていた手摺りが、わたしの体温を吸ってぬくくなっていた。
「さあ、そろそろ戻りましょう? 明後日は大切な予定があるのだもの、風邪を引いたら大変」
お母さまがわたしを優しく促す。
明後日。わたしはママ先生と一緒に、ラーヴェルさまのお屋敷に伺うことになっている。詳しいお話はまだだけれど、とても大切なお仕事を任される、らしい。
わたしは健康になったし、寒さに強くなった。風邪を引くことは、ないと思うけれど……ラーヴェルさまは、わたしの恩人。
万が一があったらいけない、よね。
……お仕事。絶対に、頑張らなきゃ。
お母さまに頷いて、暖かいお部屋へ戻る。
その直前に、冷たい風が一陣吹いて……眉毛が隠れるくらいの長さに切り揃えたわたしの前髪を、そっと撫でていった。
【ベルスファリカ・リグ・ラーヴェル】
何もする気にならない。
まあ、これが私という存在の真実なのだが。
先程までベッドに寝転がっていたが、眠る気にさえならず、ただ天幕を見つめていた。
今は机の前に腰掛け、傍らのランプだけを灯して、自分の立てたプランに穴がないかを漫然と確かめている。
明日の……橙地様の結界に入ってからのプランではない。その後、クロニアがカルカに戻ってからの、謂わば「学習計画書」だ。
あのひとは報酬なんて要らないと言ったが、ラーヴェルは口止め料も含め、相応の額を支払う用意をしている。私も……せめて誠意を見せたい。
完璧な幼馴染が微笑むカウンターの向こう側、事務職員の椅子まで導くと約束した。この内容なら筆記試験だけでなく、あのひとが世界一不得手としている、面接試験の対策も出来る筈だ。
教師が、傍らにいなくとも。
机に伏しておくのはあまりにもそれっぽい。2つに折り畳み、最上段の引き出しを開く。
「…………」
長らく開いていない、未完成な「絵本」の上。
古い写真の中の自分と、目が合った。
この写真、捨てたんじゃなかったか。
不要品を「思い出の一品」と銘打って手元に残しておく悪癖など、私にはない。兄上が嫌がらせで仕込んでおいたものに今更気づいた、というやつだろうか。
溜息を落とし、拾いあげて、眺めてみる。
左上に父上、右上に母上。
その下、左から順にアストリテ、ユエリオ、ベルスファリカ。
『お前の振舞いを見ていると、まるで精巧な人形だな』
瞳に映る全てを
「ああ。アンタの言葉は……正しい」
両手の指をかけ、硬質な紙を引き裂いていく。この家に必要な人物と、不必要な人物を分別する。
肩書きに相応しい威厳を貼り付けた父上。
この世の不幸など何ひとつご存知なさそうに、無垢な笑顔を浮かべた母上。
美しいだけで、思惑の不透明な長兄。
配置が不自然というだけで、初めからこの3人しかいなかったように見える。
残りは握りつぶし、今度こそ
早ければ明日、宿願が叶う。
……叶うのか。
散々その為に動いてきたというのに、いざ目の前に来ると実感の湧かないものだな。とにかく、策に忠実に。用意したカードは極めてシンプル。それだけに、タイミングを逃してはならない。
写真を伏せて戻し、学習計画書をその上に置こうとして。
ふと、白紙である計画書の裏側に、一言だけ残そうかという気になった。
一昨日あのひとが無抵抗に受け取った、カードのことを思い出したからなのかも知れない。結局、懐に収めたままで、返事は渡していないが。
あのときは細い電流で。今回はインクで。
どちらにしろ、修正は効かない。
どうするか。
「人生、……神生、」
いいや。人の世に生まれ、尊き本性を隠しながら生きるあのひとには、人生でも神生でもなく、「未来」という言葉が相応しい。
『アンタが拓く未来に、祝福あれ』
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