思い出

 チェイムは『ゆるしの宗教』を信じていた。

 父の書斎で、父の研究している宗教を調べて、素晴らしいと思ったのがきっかけだった。


『親のように、子のように、恋人のように、己の人生に目をかけるのと同じほどに、他者をも愛し許しなさい。』


 チェイムには、怒りが分からない。生まれた時からずっとそうだ。

 父が研究に没頭する間『留守番』するのも苦ではなかった。研究が父親にとって血液だと知っていたから、寂しさや悲しさを覚えても母や姉のようには怒れなかった。

 腕のいい医者だった母がチェイムの風邪よりも骨折よりも、今、臓器不全で死にかけている患者を優先することも苦ではなかった。母の仕事に救われて、笑顔と日差しの祝福の中に立つ元患者を見る時、チェイムも幸福を感じたから。寂しさや息苦しさを覚えても、父や姉のようには怒れなかった。

 『出来のいい姉の弟』として、穏和で成績優秀で運動神経もさぞいいだろうと望まれても、期待に応えられなくてがっかりされても、チェイムは「ちょっとくらい、ぼくのことも見てほしいな」とは思っても、怒れなかった。


 誰に何を言われても怒れない。誰に何をされても怒らない。

 チェイムは、故星こきょうでは忌むべき異端者だった。最大宗教『あだの宗教』が復讐を最上の美徳と掲げていたから、余計に。


『己への攻撃には攻撃を。骨を折られたのなら同じように。親を殺されたのなら同じように。盗まれたものは同じように。奪い、仇討ち、表明せよ。沈黙は不平等の温床である』


 『留守番』をしたら、同じ時間口をきかないことが義務だった。病気や怪我の時、放り置かれたら、相手が最も辛い時同じようにしなくてはならなかった。比べられたのなら同じように比べ返さなければならなかった。

 チェイムには、その時間こそが何より辛かった。他のヒトビトが言うように『すっきり』しなかった。『復讐』は、ただただ気持ちを重くした。感情が塗りつぶされる心地だった。


 父が別な研究者に、研究と命を奪われた時も、悲しいとは思っても怒る事ができなかった。母が、余所見運転の事故の巻き添えになった時も、怒る事はできなかった。

 ただ「父を返してくれ」と「母を返してくれ」と嘆くしかできなかった。


 ヒトビトは『異端者』に、父の仇の父親をあやめるよう求めた。

 石造りで囲まれた処刑場に、仇の父親は目隠しをされて後ろ手に縛られていた。痩せた老人は、全部諦めたように座っていた。チェイムの手には棘がたくさんついた鋭い剣が握らされていて「何回も叩かないと、多分死にきれない」と直感させた。

 姉はやり遂げた。見届けることなんてできなくて、目を瞑ってしまった卑怯なチェイムとは違って、やり遂げた。大歓声を、割れるような喝采を覚えている。悲しそうな、試すか諭すかの黒い目を覚えている。

 チェイムは、剣を振る事を拒んだ。

 恨むべきは父の命を奪った研究者その人だ。研究者の父親ではない。

 まして、ただ痛みを増やすだけの道具で何度も打ち据えるなんて、したくなかった。『話にならない』とチェイムは下がらされて、後ろ指をさされるようになった。


「ぼくには、怒るが分かりません」

「お前は、自分の手を汚したくないだけだろう」

「『復讐』をしても、嫌な気持ちにしかなれないんです」

「卑怯者」


 チェイムを引っ立てる役人は、嫌悪も露にチェイムの腕を掴んで吐き捨てた。長い絶叫が、長い長い廊下の光の方から反響していた。知っていた。チェイムが拒絶したところで、あの老人は助からなかった。

 知っていても、何故だか嫌だった。


―――信仰に外れるって、言えていたらよかったのかな。

―――彼の宗教の救いを、奪ったのだろうか。

―――父さんの名誉に傷、つかなかったかな。

―――母さんの名前に傷、つかなかったかな。

―――響いたら嫌だな。

―――泥被せちゃったら、嫌だな。

―――姉さんの生活に響いたら、恐いな。


 遠星調査の打ち上げ場所には、うじゃうじゃと人が集まっていた。

 好奇と嫌悪とシャッターとが、チェイムを映していた。彼らは『異端者』しか見ていなくて、けれどその異端者はQumeキューマ=cocoココcxeim チェイムで間違いなくて、でも「彼らが見ているのは一体誰なのか」と呟く考えもあった。

 チェイムは、笑った。


「ぼくの考えを、あなたたちは理解してくれなかった。だから、ぼくもあなたたちを理解するのを止めようと思います。ぼくは、ぼくの考えを知ろうとするヒトを探しに遠くへ行きます」


 そう説明した時、集まったヒトビトは湧いた。

 異端者が、やっと同胞になったのだと祝い、笑い、歓声をもって送り出した。


―――ほんとうは。

―――本当は、ぼくを見た時、嫌そうな顔をするヒトたち、きっと苦しいだろうなって、思ったの。


 チェイムぼくができる最後のやさしさが、この場からいなくなることみたいだなって思ったから、いなくなることにしただけなの。だから、そんな嬉しそうな声しないで、嬉しそうにしないでよ。ぼくは、嘘をついたのだから。

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