一件 2
鏡子はパチリと目を開けた。だが、目の前の光景は一瞬にして変わってしまっていた。先程までいた裁判所ではない。死ぬ前にいた世界――現代だ。
鏡子はどこかの家の台所にいた。そして目の前に見知った人物を見かける。
石井芳子――。司命に腕を引かれ、閻魔大王の前に連れてこられた人物。ただ、その時よりも少し若い。
芳子は鍋の蓋をおもむろに開けて眉をひそめる。
「ちょっと、またなの?」
急に声を張り上げる。と、「は、はい!」という大きな返事とドタドタと足音が聞こえてきた。やがて二十代くらいの女性が芳子の後ろに立つ。
芳子はわざとガタンと大きな音を立てて蓋を床に落とした。その音に驚いて女性は肩をすくめる。
「またカレーじゃない。あんた、私にずっとカレーを食べさせるつもりなの」
「いえ、そういうわけでは……」
「うちの恭介が連れてきたからどんな素敵な嫁かと思えば、料理のレパートリーは少ないし、掃除もきちんと出来ない嫁だとは思わなかったね」
「……すみません」
なるほどなぁ、と鏡子は二人に目をやる。
この二人は姑と嫁で、ドラマでよくある嫁いびりが酷い家らしい。
鏡子はそっと二人に見つからないように後退する。だがすぐにその必要はないと気付く。何故なら体が透けていたからだ。
もしかしたら相手には見えていないんじゃと思いながら、鏡子は二人と一定の距離を保ちながら会話を聞く。
「全く。私だってもう年なのよ。いつまでも出来の悪い嫁なんて見ていられないの」
「はい……。すみません」
「ったく」
芳子はクルリと踵を返す。鏡子と目が合ったかに思えたその瞬間、芳子の体が傾き前へ突っ伏す形で倒れた。
「え? お母さん!」
嫁が急いで芳子へと駆け寄る。肩を叩いて呼びかけるも起きる気配はない。
その瞬間、鏡子の視界が一気に暗くなる。だが、暗くなったかと思えばまた一瞬で世界は変わっていた。
目の前には点滴を打ってベッドに横たわっている芳子と、丸椅子に腰かけている嫁の姿が見える。
もうここまでいろいろあると急に違う場所に来てようと驚かないな……。
鏡子はここは芳子が倒れた後に担ぎ込まれた病院だろうと冷静に考えながら、薬指に嵌めている指輪を見つめる。
そういえばこの指輪をもらう時、裁判がしにくいだろうからと言ってもらったはず。閻魔大王は詳しくは教えてもらえなかったけれど。
もしかしたら今のこの状況は閻魔大王が仕組んだものなのか……。
そんなことを考えていると、芳子が目を覚ます。
「ここは……」
「お母様。目を覚ましたんですね。ここは病院です。私のことが分かりますか」
「ええ」
芳子は寝起きで頭が働いていないのか、ぼうっと目だけをゆっくりと動かしている。
「お母様、急に倒れたんです。お医者様の話によるとその……、言いにくいのですがもう体が限界に来ていると」
「そう」
「これからは介護が必要になってくるだろう、と」
嫁はビクビクと芳子の様子を伺っている。だが、その心配は杞憂に終わった。
芳子は「心配をかけたねぇ」と苦笑いを返す。
「そうかい、介護が必要になる歳になったんだねぇ」
芳子は寝ながら自分のポケットへと手を伸ばし、掌に包む。そして掌にあるものを嫁に見せた。
掌にあったものは指輪だ。鏡子の指輪とは違い、大きく真っ赤な宝石が光っている。
ルビーみたいだ。
鏡子は自分の薬指にはめている指輪を眺めながら、二人の会話へ意識を向ける。
「芳子さん。私の介護をしてもらえないかい。その代わりとはいってはなんだが、この指輪をあげよう」
「え? それはお母様のお気に入りの指輪ではないのですか」
「いいんだよ。それにタダでやるわけじゃあない。介護をきちんとこなせたら、だよ」
その言葉に嫁はキラキラと目を輝かせながら芳子を見つめる。瞳の中にルビーの赤が映っている。
嫁は芳子に対して深々と礼をする。
「はい。私、精一杯お母様のお世話をいたします」
けれど鏡子は見逃さなかった。嫁の煌めく瞳と対照的に、芳子の瞳には不気味な光が宿っていたところを。
それからというもの嫁は芳子を精一杯世話した。
世話をしている場面がとぎれとぎれに飛ぶように映る。どうも時間の経過ごとに飛んでいるようだった。
バランスの取れた日本食づくり、お風呂の世話。朝から晩まで嫁はかいがいしく芳子の世話をした。
場面はまた変わる。芳子は自室の布団の上で天井を見つめていた。しばらくすると嫁が入ってくる。
嫁の顔はどこか晴れ晴れとしていた。
「で、医者は何て」
「はいっ。お医者様の話によると体の調子が前より良くなっていると。それに自分で自分のことをした方がいいと言っていました」
おそらくちょっと前まで医者が来ていたのだろう。部屋にはお煎餅と飲みかけのお茶が置いてある。
鏡子は芳子を見る。前より老けてはいるものの、顔に血色があり体もふくよかになっている。
確かに前より調子が良くなっているみたいだ。
芳子は寝ながらポケットに手を入れ、赤の指輪を取り出す。
「そう、あなたにはお世話になったわね」
「いえ。家族として当然です」
その嫁の言葉を聞いて芳子は唇を歪ませる。そして「そうよね。当然よね」と呟いた。
「え?」
嫁は突然のことに対処できず、芳子を見たまま固まってしまっている。だが芳子はそれを気にもせず指輪を目の高さまで持ち上げる。
「この指輪さぁ、お気に入りなのよね」
「あ、はい。確か下さるんでしたよね」
「え? 何言っているの、あなた。私、そんなこと言ってないわよ」
「で、でも。確かに介護してくれたらくれると」
「だからそんなこと言ってないわ。まさかあなた、指輪が欲しくて介護したわけじゃないでしょうね。私達は家族なんだから、世話するのなんて当然じゃない」
芳子に強く言われ、嫁は黙ってしまう。
……嘘だ。
鏡子は心の中で呟く。
芳子の態度を見ていれば分かる。ちゃんと指輪をあげるといったことも覚えている。それなのに本当はあげる気なんてさらさらなかったんだ。
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