第6章 第94話

「……どんだけ下るのよ……」

 モーセス・グースの背におぶさって階段を下るユモは、独りごちる。

「ざっと、100メートル程でしょうか」

 その独り言が聞こえたのだろう、モーセスが答える。

「うげ」

 ユモは、心底嫌そうに、舌を出した。


 少し前。五角形断面の下り階段を踊り場10回分も下りないうちに、ユモの足は音を上げた。

 ニコニコ笑う膝に手をついて、深くため息をついて、何かを探して、諦めたかのように首を振り、背筋を伸ばして改めて歩き出そうとして……ふらつく。

 オーガストと顔を見合わせ、肩をすくめたモーセスは、踊り場に膝をついてユモに背を向けた。

「どうぞ、お掴まりください」


「全ての区画に、このような下り階段が用意されていますが、実際に使われているのはこの『宮殿』から下る階段だけです」

 早足で階段を下りながら、モーセスが説明する。

「お気づきと思いますが、踊り場ごとにハッチがあり、その向こうに何らかの部屋があるのですが、拙僧もそこに何があるかは知りません。『いにしえの支配者』が何らかの目的で用意したもののはずですが、もうずいぶん前から使われておりませんので」

「……」

 モーセスに続けて階段を下りながら、オーガストは興味深そうに、壁やハッチや照明を見ている。

「……これは……これも、『古の支配者』の技術テクノロジーなのですね?」

「そのはずです。『古の支配者』、『造物主』は体の構造上階段を必要としませんから、ステップは後の時代に付けられたもですが」

「……誰が、ですか?」

「それは」

 足下のステップの加工を確かめるように見ながら、モーセスはオーガストの疑問に答える。

「『ユゴスキノコ』の求めに応じて、『奉仕種族』が刻んだものです」

「つまり、その大工事をやり遂げた『奉仕種族』ってのは、今もこの地下都市のどこかにいる、そういう事?」

 モーセスの頭の上から、ユモが尋ねる。五角形断面の階段トンネルは充分な高さがあり、巨躯のモーセスにおぶさったユモの頭が天井につかえる心配はない。

「はい。『井戸シャフト』の底で、この『都』の動力を供給し、空調を整え、排出物を浄化し……言うなれば、この『都』の根冠として、昔も今も、そしてこれからも、働き続けています」

「今も……?」

 階段の所々にある空調穴を気にしながら、ユモが聞く。

「はい。ご心配には及びません、『都』の根冠の『奉仕種族』、『原型プロト』は、『造物主』の命令に忠実であり、その命令を遂行する事にのみ興味を示すので、よほどの事がない限り人前に出てくる事はありませんし、そもそも人に興味もなければ害する意思もありません」

「なら、いいけど」

「という事は、『ユゴスキノコ』に対しても興味を持っていない、という事ですか?」

 ユモに替わって、ニーマントが質問する。

「『興味』は、持っていません。『造物主』の命令だから言うことを聞いている、それだけに過ぎません」

「なるほど。興味深い」

 ニーマントの声は、珍しく、嬉しそうに聞こえる。

「実に、興味深い。ミスタ・グース、何故あなたは、そんなに詳しくその『奉仕種族の原型プロト・ショゴス』なるものの事がお分かりなのですか?」

 モーセス・グースは、踊り場で足を停める。

「……簡単です」

 微笑んで、モーセス・グースは答える。

「拙僧の脳は、『原型プロト』から発生したものです。故に、拙僧は、『原型プロト』と繋がっているのです」


「繋がっているとは言っても、『奉仕種族の原型プロト・ショゴス』の意識、脳は、人のそれとは大きく違っていますから、存在を感じる、程度のことでしかありませんが……この『都』で『オリジナルとの置き換え』に使われている脳のうち、純粋に『原型プロト』から発生したものは、今では拙僧だけです。過去には他に数名居たそうですが、暴走を乗り越える事が出来ず、『ユゴスキノコ』は対策として、暴走に関係しそうな因子を取り除いた組織から脳を分化生成する生物実験を繰り返しましたが、効果はあったものの完全ではなく、最終的に、先ほどお話ししたとおり、機械的制御による方法に落ち着きました。以降、置き換えに利用されているのは全てこのタイプの脳です。唯一、拙僧のみが、『元君』の命により『原型プロト』から発生した脳を用いて、充分な『教育レクチャー』を施された、そういう事です」

 肩越しに振り向いてユモに視線を合わせながら、モーセスは続ける。

「恐らく『元君』は、お分かりになっていたのでしょう。可能な限り人間のオリジナルに近付けるためには、生物的にも機械的にも改変された『ユゴスキノコ』の作る脳ではダメな事を。なにしろ、『元君』は過去も未来も見通せるのですから。その上で、オリジナルの意思を尊重し、拙僧にその意思を引き継がせた」

 モーセスは、改めて踊り場から階段の下を見る。

「それが何かは、未だ未熟な拙僧には皆目見当もつきません。ですが、ですから、今はただ行くのみ、です。さあ、先を急ぎましょう」


――……ヤバい……――

 ドルマの、山羊の後ろ足の強烈なドロップキックをまともに食らって通廊の壁まで吹っ飛ばされた雪風は、大きく息を吸ってその勢いで跳ね起きようとして、自分の体の異変に気付いた。

――息、吸えない!気管、潰されたか!――

 喉の下、鎖骨と胸骨を繋ぐ胸鎖関節を中心とした部分が、灼けるように熱い。息を吸おうにも、空気が入って来ない。

 如何に不死身の人狼ひとおおかみといえど、呼吸が出来なければ……

 肺は新鮮な空気を欲しがっているのに、それがまるで入ってこない。もどかしい、どころではない焦燥感。酸欠を起こし始めた体は、押し殺しきれない焦りを感じると同時に、既に混乱し始めた脳は不可思議な多幸感すら感じ始める。

――ダメだ、これ……ちょっと、死ぬかも……――

 跳ね起きるどころか辛うじて上半身を起こした雪風は、こちらに足を向けて仰向けに床に落ちていたドルマも状態を起こし、雪風こちらに向けて頭を振るのを見る。

 薄暗くなり始めた視界の中で、何かが動くのを見たと同時に、雪風はものすごい衝撃を腹部に感じ、背中から壁に叩きつけられる。

 混濁し始めた意識の中、自分の腹を見下ろした雪風は、そこから極太の大根のような何かが二本生えているのを見る。

「……かは……」

 潰された喉から、なけなしの空気が漏れる。

 雪風の腹を貫いたドルマの二本の角は、その表面に発生した無数の口が雪風の臓物はらわたに食らいついたまま、引き抜かれた。


――……勝った!――

 半身を起こすなり半ば無意識に頭を振って角を突き出したドルマは、その角が雪風の腹を貫き、引き抜き、血肉を撒き散らかしたのを見て、内心で歓喜の声を上げた。

 久しく感じていなかった、目眩めまいにも似た高揚感。

 ドルマは、壁にもたれて動かなくなった雪風を見ながら、ゆっくりと立ち上がる。

 ドルマは、まだ気付いていなかった。知らなかった。

 角の表面に発生した無数の口と、いくつかの目、それらを制御するのは人の脳には荷が重く、その負担をごまかす為に大量の脳内麻薬が分泌され、それが高揚感の正体であり、それでも誤魔化しきれない過度な視覚情報が目眩めまいの正体である、と。

 数歩歩いて、ドルマは動かない雪風の前に立つ。

 角の表面に発生こそすれ、消化器官に繋がらない無数の口は、雪風の肉を食い千切りこそすれ呑み込む事は出来ず、吐き出す。

「……だから言ったのに。あなたを殺したくないって」

 ドルマは、雪風を見下ろし、独りごちる。真っ黒な自分の体、上半身は人の、下半身は山羊のそれ。着崩れたチベットの民族衣装が、滑稽に思える。

「……あなたが、羨ましかった。同じアジア人なのに、西洋人と対等に付き合えるあなたが……お友達になりたいって、思ってた。あなただけじゃなく、ユモさんも含めて。でも……」

 ドルマは、自分の体を見下ろす。

「あなたは、こんな醜い私に、殺されてしまった。私は……」

 自分の手を見て、ドルマは笑う。歪んだ笑顔で。

「……私は、始めて、自分の意思で人を殺した。醜い私は、心まで醜くなった……」

 ドルマは、しゃがんで、うつろで濁った雪風の目に、視線を合わせる。膝を抱え、小首を傾げて。

「……そうね。私は、身も心も、悪霊になった。ペーター様の為の、悪霊に……ユキさん、あなたは、最後にそれを私に教えてくれた。ありがとう、ユキさん。私の正体を教えてくれて。命がけであなたが教えてくれた事、無駄にはしないわ」

「……そりゃ……どーも……」

「ひ!」

 突然、しわがれ、呟くような返事が返ってきて、ドルマは心底驚く。文字通り飛び上がって、一歩飛びすさる。

「……けどね……悪いけど……この程度じゃあ……この雪風様は、殺されてあげられないんだわ」

 雪風の声に、目に、一瞬で生気が戻った。腹に空いた二つの穴と、セーラー服に空いた穴が、みるみる塞がってゆく。

「え……あ、あなた……一体……」

 あり得ないものを、あり得ない光景を見て、ドルマは怯える。理解が、追いつかない。

 あらかた傷が塞がった雪風は、ゆらりと立ち上がる。

「あのね、ドルマさん」

 雪風は、軽く体を伸ばしながら、ドルマに言う。片頬を歪ませた、ニヒルな笑いをうかべながら。

「醜いとかどうとか、誰が決めたの?最初に言いだしたのは、誰なの?『綺麗は汚い、汚いは綺麗』って誰かが言ってたらしいけど、ドルマさんは、あたし基準だと、綺麗よ。醜くなんかない」

 雪風の右手が、首の左側のチョーカーに触れる。

「嘘じゃないわよ?あたしがそう思う理由を、今から、普通の人が本当に醜いって言うもの、怖がるもの、忌み嫌うものを、見せてあげる」

 言って、雪風は、発達した犬歯を見せて微笑む。微笑んでから、初めて、大きな声で、今まで自分で決めておきながらイマイチ声に出すのを躊躇っていたコマンドワードを、唱えた。

我、纏いたるは輝煌なりハー・ニィイ・フラーッシュ!」

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