第5章 第69話
「……ペーター様……」
ユモと雪風及びオーガストと別れてから、もう一度『都』の中でペーター少尉を探してみようと思い直したドルマは、それでも念のためと思い、ペーター少尉に割り当てられた居室に向かい、その扉を開け、中にペーター・メークヴーディヒリーベその人の背中を発見して、思わず身を固くした。
本当なら、安堵すべきなのに。ドルマは、自身がどうして、安心するよむしろ違和感を感じているのか、咄嗟にはわからなかった。
「……やあ、ドルマ」
ゆっくりと振り向いたペーター少尉は、笑顔で、ドルマに語りかけた。
「何か、用ですか?」
――……違う。――
ドルマの頭の片隅で、小さな、しかし確固たる信念に満ちた声が、直感が、そう告げる。
そして、ドルマは理解した。何故、自分は安心ではなく違和感を感じたのかを。
――この人は、私の知っているペーター様では、ない……――
ペーター・メークヴーディヒリーベは、上半身裸であった。その事自体は、成人男性の裸を見慣れないドルマにとっては一つの驚愕の理由であったが、それは問題の本質ではなかった。
「……お部屋に戻っていらしたのですね。先ほど伺った時はいらっしゃらなかったので、お探ししていました」
努めて平静を装って、ドルマは答える。
――ペーター様は、こんな事はしない、私の前で、肌を曝すようなことはしない……――
捩じ切られそうな心の痛み、一秒毎に倍増する、押しつぶされそうな胸の重圧に耐えながら。
「……ああ」
一瞬、なんだかわからないという顔をしてから、ペーター・メークヴーディヒリーベは答える。その顔に微笑みを貼り付かせたまま。
「先ほどまで、私は
何でもないことのように、ペーター・メークヴーディヒリーベは言う。
「大変有意義な時間でしたが、少々疲れました。そこで、これから少し休むところだったのです」
「……そう、でしたか……」
ドルマは、自分の声が震えているのに気付き、何とかそれを抑えようと努力したが、その努力はあまり実らなかった。
「昼食までには、体調を整えておきます。昼食を戴いた後は、是非とも皆さんと歓談したいです」
「……わかりました」
ドルマは、やっとの事で、言葉を絞り出す。
「充分に、お休みください」
言葉ではなく、涙がこぼれそうになる。
「お時間になりましたら、誰か迎えの者を、よこし、ましょう……」
何とかそれだけ言って、ドルマはペーター・メークヴーディヒリーベに背を向ける。
「……失礼いたしました」
消え入りそうな声でそう言って、小走りにドルマは部屋を出る。
――
大事なものを、大切な人を、失ったのだと、その事実を呑み込みながら。
――ああ、違います、違うのです、ドルマさん――
ペーター少尉は、磨りガラスのような視野の向こう、プールの中のような聴覚の先で起こっている出来事に、踵を返したドルマに、そう叫ぼうとした。
しかし、何一つ思うようにはならなかった。体も、口も、足も、指先の一本に至るまで。
感覚の全てが
人は、感覚の全てが遮断されると、容易に錯乱し、驚くほど短時間で発狂する。
ペーター少尉の意識が正気を保てていたのは、感覚が遮断された中でも、自分の置かれた状況を冷静に検討する自制心と、何よりもその直前に見えた、得体の知れない薄桃色の生命体らしきもの、それらへの好奇心と、恐怖そのものによるものだった。
皮肉なことに、恐怖を感じる事こそが、遮断された体性感覚の代わりにペーター少尉の心を奮い立たせ、そして体性感覚が遮断されているからこそ、恐怖は『純粋な情報』としての恐怖だけで、肉体の恐怖反応を伴わない分、ある一定以上の刺激、錯乱するほどの強烈な刺激とはならなかった。
これらの皮肉な幸運によって、ペーター少尉はかろうじて恐怖を考察するだけの正気を保てていたが、それですらもっと長い時間、暗転したまま放置されていたらどうなっていたかはわからなかった。
そんなペーター少尉に復帰した感覚は、聞こえてきたのは、
「聞こえますか?ペーターさん?」
それは、酷く
「少々、乱暴なことになってしまいましたが、どうかお許しを。しかし、これで貴方は、我ら同胞団の同志、そして階位『魂の救済者』として、生まれ変わるのです」
酷く聞き取りづらい声ではあったが、
「ペーターさん、貴方の脳はこれから以降、英智の習得にのみその時間を使う事が出来るのです。その他の雑事は体がやってくれます。そのために、今しばらく、必要な情報を体に
突然、ペーター少尉の視野が、聴覚が、鮮明になった。驚いたペーター少尉の視界、いくらか歪みのあるその視界に、
「……いかがですか?今、ペーターさんの感覚器のスイッチを入れました。聞こえますか?見えますか?」
見えるし、聞こえる。ペーター少尉は、しかし、どう答えたものかと思い、
「……はい、聞こえます」
つい口にしたその言葉は、はっきりと自分の声でありながら、何らかの人工機械を通したかのごとくに金属的な共振音の混じったものであり、その非人間的な響きにペーター少尉は
「それは重畳」
にこりとして、
「既に、ペーターさん、貴方の体への
それでは、最初のあれは、体側からの感覚だったのか?ペーター少尉は、今現在明確になっている視界や音声とは別の、ぼんやりとした視覚と聴覚に努力して意識を集中してみる。
「丸一日もあれば、相当な量の情報を
その
「……私は……一度……キャンプに戻らなければ……」
「おお、もちろん、それはそのようになさるとよろしいでしょう」
「
残念そうに肩をすくめて、
「行動そのものに干渉する事は基本的に出来ません。あくまでその体は独立して行動し、独自に状況を判断します。もちろん、ペーターさん、その体には貴方の意思や目的も
いかがですかと聞かれても、ペーター少尉は理解が追いつかない。
「私は……」
みなまで言うな、そのように手で制して、
「少し、考える時間をとられた方が良いでしょう。時間そのものは、もはや無限にあります。ペーターさん、あなたのお仕事上のお時間が決まっているなら、それを優先して考えるのも良いでしょう。お望みならば、他の同胞団員と相談されるのもいいでしょう。他の団員と話せるよう、
そう言って、
そして、時間の感覚が希薄な中、ペーター少尉は知った。
ペーター少尉は、闇の中を漂いながら、それら『意識』との会話を試みた。
それら『意識』の多くはチベット語しか通じず、ペーター少尉の片言のチベット語では非常に苦労したが、それらは同胞団の高位の団員であろう事、そして、ほぼ全てが自ら望んで体から切り離され、『英智』を授かり、より高みを目指そうとしているのだという事を、苦労のかいあってペーター少尉はなんとか読み取る事が出来た、
さらには、その『意識』の殆どが、大なり小なり『気が触れている』事も。
――……ああ、そうか、そうなのだ、そういう事なのだ……――
ペーター少尉の意識は、悟った。
――ここに居る『意識』は全て、『意識』を肉体から切り離し、肉体の限界という『
ペーター少尉は、いくつもの『意識』の中から見つけ出した、もはや己が英国人の宣教師で会った事すら忘れてしまったかのように思える『意識』、唯一、己のためではなく、ひとえに信者に還元する為に『英智』に触れようと決断し――その他の『意識』は皆、己を高めることのみに執着していた――、それが故に会話することすらおぼつかない『意識』と触れあったときに、それを強く理解した。
苦労し、根気よく、一つ一つ順繰りに、時には後戻りしながらその『意識』と対話するうちに、ペーター少尉はふと、疑問を感じた。
これが『意識』のみであるのならば、何故、言語の壁があるのだろうか。そしてまた、何故、自分はこうまで、このような異常な状態にあってさえ、これほどまでも冷静に考えていられるのだろうか、と。
はじめの疑問のの答えは、すぐに見当がついた。意識とは、思考とは、その者が生まれ育った文化、環境、そして言語と強く結びついているのだ、と。だから、ここに居る『意識』の殆どは、チベット的な考え方をするのだ、とも。その意味で、ほぼ唯一の例外は自分であり、また、今、自分が何とかコミュニケーションを取ろうとしている、この英国人の『意識』なのだ、と。
もう一つの方の答えは、ペーター少尉はそれを認めるのが怖ろしくはあったが、認めざるを得ないとも思った。そうでなければ、説明がつかないと。
つまり、このような状況においてさえ冷静で居られるほどに、自分は、恐らくはこの遠征を決意した時から、いや、もしかしたらアーリアン仮説に取り憑かれた頃から、少しずつ、気が触れてしまっていたのだ、と。
そうでなければ。貴き
――ああ、そうだ――
ペーター少尉は、思う。きっと、『福音の少女』が出現した、摩訶不思議な現象を受け入れ、あの二人の少女その者を受け入れた時こそ、真に自分の中で既成概念が崩れ、常識の外にあるあれこれをそのままに受け入れる事が出来るようになった、ある意味で、自分はその時に『気が触れた』のだ。
意味があるのか無いのかわからない、行きつ戻りつしながらその『意識』が語る話を組み立て直して要旨をまとめながら、ペーター少尉は改めて、『福音の少女』の存在について、何故今、ここに現れたのかについても考えを巡らしはじめた。
いつの間にか、ペーター少尉の不鮮明な視覚と歪んだ聴覚は、自分の体が、自分に与えられた居室に戻っていることを示しているのに気付いた。
視覚と聴覚以外の体性感覚が伝わってこないため、自分の体が移動していた事、立ち上がり、歩いていたことに全く気付いていなかったペーター少尉は、体が全く自分の意思に関係なく動いていたことに驚き、軽いショックを受け、そして改めて、もはや自分の体は、自分の意識と切り離されているのだという事を軽い悲しみとともに確信した。
――それ自体は、いい……――
ペーター少尉は、思う。
――体を失った私が、これで生きていると言えるのかどうか、それは分からないが、この状態で何かしら得るものがあり、それをいかなる方法でか、誰かに伝え、役立てることが出来るのであれば……――
自分の意思とは関係なく動く視野を無感情に見ながら、ペーター少尉はそう思った。
――……だから、何としてでも、誰かに伝える手段を見つけて……あれは?ドルマさん?――
不鮮明で、不規則に揺れ、上下する視野の中で、見覚えのある女性の姿を認識したペーター少尉は、そこを注視しようとするが、しかし、視線はまるでペーター少尉の意思をあざ笑うかのようにあさっての方を向く。
「……ペーター様……」
ペーター少尉は、その声に、今は
「……やあ、ドルマ」
怖ろしいほどに感情のこもっていない、自分の声。明らかに自分の声だが、それがこれほどまでに怖ろしく、不気味に聞こえるなどとは、思ってもみなかった。
何か、言いたい。どうにか、伝えたい。せめて、視線で捕らえ続けたい。ペーター少尉は狂おしいほどの欲求に駆られ、体を動かそうと試みるが、何一つ上手く行く気配がない。
そうこうしていると、二言三言会話を交わしたドルマは、背を向け、部屋を出て行く。
――ああ、違います、違うのです、ドルマさん――
ペーター少尉は、思うままにならない視線であっても、確かに見た。
ドルマの、苦悶の表情を。こぼれ落ちそうに貯まった、涙を。
何がドルマをそうさせたのかは、分からない。もしかしたら、この『都』に自分より精通している彼女のことだから、何が起きているのかを理解したのかも知れない。そうでなくても、自分がこれほど
ペーター少尉は、扉が閉まるのも気にせずに何かしら行動し続ける自分の体に憤りを感じつつ、思う。
――この体は、もはや私ではない――
それは、冷静な思考ではなく、むしろ情動に突き動かされた、理不尽で、短絡的な思考ではあった。しかしながら、ペーター少尉にとって、その思いはまったくもって正義であり、全ての感情を支配する、最優先の情念だった。
――私でないなら。私は、ドルマさんを哀しませた
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