第4章 第67話

「あのお二人が、仙人……ですか?」

 ペーター少尉が、ややかすれた声で聞き返した。

 頷いて、王子も答える。

「いかにも。とはいえ、中国ヤナクの古典に出てくるような仙人とは、少し意味合いが違いますが」

 中国の古典。封神演義、あるいは西遊記、そういったいわゆる小説のことだろうと、ペーター少尉はあたりをつける。

「『赤の女王』に選ばれ、縁を深め、英智を授かり、場合によっては血肉すら取り交わす……ああ」

 王子は、何かを思い出したように、少しだけ目を見開いて、言う。

「あなたも、ペーターさん、もしかしたら、『赤の女王』に見入られているのかも知れませんね」

「私が、ですか?」

 問い返された王子は、大きく頷く。

「この都に立ち入る事を許可したのはもちろん私ですが、その場に『元君』が臨御りんぎょたまわれ、ましてや、御自おんみずから都の案内をしても良いなどとのたまわれた。相当に『元君』はあなたをお気に召された御様子であると、あの時私は大変に驚いたものです」

 単なる為政者の気まぐれくらいに思っていたペーター少尉は、今までの話と合わせ、それがどのような意味を持っていたのかを改めて思い知った。

「……そうか……だから……」

 一度視線を落としたペーター少尉は、ふと、何かに気付き、視線を王子に戻す。

「『赤の女王』が王子がおっしゃるように『守り手』、神の落とし子であるならば。離れていたとしても、特定の誰かが何処に居て、何をしているのかを御存知だとか、そういう事は……」

「何ともお答えしかねます。私自身、『元君』『赤の女王』のお側にはべるようになってまだ日が浅く、女王ご自身からしてこの都におわす時間はさほど長くなく、殆どの時をこの世界のいずこか、ご興味を示されたところで過ごしていらっしゃいますので」

 軽い困り顔で、そう言って王子は謝るように小さくこうべを下げた。

「いやいや、王子、あなたがそのような……」

 あわてて取り繕いながら、ペーター少尉は思う。

 あまりに絶妙なタイミングで現れて、『元君』は、私が『御神木』に触れるのを防いだ。私を『見て』いたのか、それともドルマさんか、あるいは『御神木』か……考え方はいくらでもある。しかし、どう考えても結局は、何らかの計り知れない力によって、『元君』はあの時あの場に現れ、成すべき事を成したのだ。それこそがつまり恐らくは、『元君』が神の落とし子たる事の証左。考えてみれば、グース師のお話しの中にも何度かそのような事は語られていたのだから、誇張表現だと思っていたあれこそ、『元君』が何たるかを示す告白だったのだ、と。

「……さて。その上で、ペーターさん。あなたに、お伺いしたいのです」

 王子は、つい考え込み黙ってしまったペーター少尉に、声をかけた。

「我が『同胞団』に、参入されるお気持ちはございますか?」


 急に決断を迫られ、ペーター少尉は考える。

 今決めて良いものか、辞退すべきか。

 そもそもこんな、冷静にというか、科学万能のこの二十世紀に、言っては何だがこんなうさんくさい話を信じて良いものか、と。

 だがしかし、そもそもからして、自分が率いるチベット先遣調査隊の目的であるシャンバラやヴリル・パワー、アーリア人仮説といったものはどうなのだ?言語体系としてのアーリアン学説や、かつて実在したとされ伝説として語り継がれるシャンバラはともかく、ヴリル・パワーなるものは一体どれほどの確証があったのか。そんなものに活路を求めようとする国の、いや党の重鎮ライヒス・ハイニはどうなのか。

 そして、それを利用して自分の野望を遂げようとする自分はどうなのか。

 そうだ。これは、野望なのだ。

 人の革新、さらなる高みに人そのものを持ち上げるという目的。雲を掴むような、願望。そのために、党の、親衛隊全国指導者ライヒス・ハイニの妄信をも利用したのだから、これを『野望』と呼ばずして何と言おう。

 何と言っても良いのだ。私の目的は、ドイツ国民だけでなく、全人類の幸福、それなのだから。

 感謝を求めはしない。成功し、感謝されればそれは確かに嬉しかろうが、成功することが目的であって感謝を得る事が目的ではない。

 利益も求めはしない。明日のかてが得られれば充分だ。過分な富は、目的を鈍らせる。

 では、今、ここで決断すべきか。これは好機か、それとも破滅の罠か。

 好機というなら、この先の人生、もしかしたらもっと相応しい好機もあるかもしれない。あるいは今、別のどこかに、もっと確実性の高い何かがあるのかもしれない。

 だが。未来は見えないし、今手の届かない好機ならそれは無い物と同じだ。

 破滅に至る罠かもしれない。だがそれは選んでみなければ、その道に一歩踏み出さなければわからない。

 ならば。

 大胆に、慎重に、その道を進むべきだ。

 避けられる破滅であれば、慎重に歩めば良い。

 避けられなくとも、少しでも目的の為に前に進めたならば、それはそれで良いとしよう。

 後に続くものさえ、居てくれるなら。

 誰かが、意思を継いでくれるなら。

 それも含めた上で、私は、一歩踏み出してみよう。

 ペーター少尉は、心を決めた。


「……いくつか、うかがってもよろしいでしょうか?」

 ペーター少尉は、改めて皇子に聞く。

「何なりと、どうぞ」

 王子も、これは良い感触だと踏んだのか、微笑んで答える。

「私が同胞団に加入したとして、その、『マイゴウ』でしたか、英智を授かったとして、私はどのようにその対価を支払ったら良いのでしょうか?」

「ああ、そのようなご心配は無用です」

 王子は、目を細めて笑う。

「我が同胞団は営利目的でも、慈善事業でもありません。真理を求め、己の研鑚を目的とするものが自主的に集まったもの。もちろん、その真理とは地球人類にはまだまだ刺激的に過ぎ、そして理解の及ぶものではありませんから、人選には注意を要し、団員による観察と評価、選出と推挙は必要ですが、経済的な負担などはもとより求めてはいません。この都市の運営に要するエナジーは、それがペーターさん、貴方の求めるヴリル・パワーなるものと同一かどうかは判断しかねますが、自活してありあまるものであることは保証出来ますし、それ以外の消耗品に関してもおおむね目処はついています」

 つまり、遺体による人肉食以外にも、何らかの消耗品補充のルートは確保されている、そういう事なのだと、ペーター少尉は理解する。

「この都市、並びに同胞団の運営に関する金銭的なコストは、恐らくはペーターさん、あなたがご想像されるよりはるかに軽いものなのです。もちろん、自主的な寄付や支援は歓迎いたしますが、それは金銭的なものよりも、むしろそれ以外の活動を期待する部分はあります」

 ……なるほど、そういう事か。ペーター少尉は納得する。先ほどの話から、同胞団が何らかの形でチベット政府に影響力を持っているのはほぼ確実と言える。それは、地方為政官であるナルブ閣下だけでなく、もっと中央の深部にも同胞団員が居る、という事に他ならないだろう。であるならば、チベットではなくドイツの、末端とはいえ政治局員である自分に求められるのは……

「……理解しました。もう一つ、先ほどから王子が語られている宇宙的真理、まだ概容の概容にすぎない部分のみしか語られていないのだと思えますが、私はあと一月ひとつきもしないうちに本国に帰還しなければなりません。それまでに、どの程度の理解が得られるものでしょうか?」

「……人による、としかお答え出来ませんが……ペーターさんであれば、私は、最初からそれなりの階位の団員として迎えてもよいと考えています。私の一存で全て決定するわけではありませんが、そうであるならば、そして、ペーターさん、貴方が私の見立て通りの人物であるならば、ドイツ本国にお戻りになってから自己研鑚を積み、いずれまたこの地を訪れられるにあたってさらなる階位に達するに充分な英智をお持ち帰りになるのもやぶさかではないと思います」

 これは、ずいぶんと買い被ってもらえたものだ。ペーター少尉は、内心で苦笑する。と同時に、脇と背中に汗をかいているのを自覚する。自分出思う以上に緊張しているのだろう。ぶんぶんという耳鳴りは治まることなく、カビ臭い匂いも強くなる一方だ。いや、耳鳴りはともかく、匂いは?幻覚ならぬ幻臭とでも言うのだろうか?あるいは、ここは地下、それも相当な深部であるから、これまで完璧に思えていた空調が、一時的にそのような不調を訴えたとしても当たり前に思うべきか?現に、王子の様子にとりたてて匂いを気にする様子は見られない。

 質問したいことはまだいくらでもある。しかし、決断の確証としては、もう充分だ。

「わかりました」

 ペーター少尉はそう言って、立ち上がり、一歩進み出て、王子の前に跪く。

「私、ペーター・メークヴーディヒリーベは、同胞団の末席に加えていただきたく、ここにお願いを申し上げます」


「お顔をお上げください、ペーターさん」

 王子が、ペーター少尉に声をかける。

「同胞団は、貴方を歓迎いたします……では、これを」

 王子は、右手を振る。顔を上げたペーター少尉は、いつの間にか、その王子の右手の後ろに、王子と同じような白い服を着た老人、盆の上にショットグラスほどの大きさの杯を二つ載せ、うやうやしく捧げ持つ老人が王子の斜め後ろに控えているのを見る。

「本来は寺院で行うべきものですが、私は実は思いの外せっかちなのです。この杯をもって、加入の儀といたします」

 老人が進み出て、王子はその盆の上の杯を一つ手に取る。盆はそのままペーター少尉に差し出され、何か不可思議な違和感を感じつつも、ペーター少尉も杯を手にする。

「ここに、同胞団は新たな団員を迎える悦びを授かりました。新たな英智が互いの未来を照らすことを願い、杯を酌み交わして契りと成します」

 言って、王子は、くっと一息に杯を飲み干す。

 遅れず、ペーター少尉も杯を、赤黒く、どろりとした液体の注がれたそれを空ける。

 わずかな塩味と、鉄の味と、強いアルコール。それらを舌と喉の奥で感じた時、ペーター少尉は、違和感の理由に気付いた。

 盆を持つ老人の顔は、あまりにも王子に似すぎていたのだ。

 そうだ。ペーター少尉は、思う。王子の端正な顔と、老人の顔は、加齢によるのだろう深く刻まれた皺を除けば瓜二つ、そもそも王子自身年齢不詳であり、端正な顔に白い髪、白い髭を蓄えた容姿はアジア人種である事を除けばイエス・キリストその人の偶像であると言っても過言ではないが、うつろな目と深く刻まれた皺を除けば老人もまた同じ顔、親子でもこうは似るまいというほどによく似ている。まるで、同一人物の今と50年後を見るように……

 不思議な液体を飲み下したペーター少尉の意識は、ふっつりと唐突に、そこで途切れた。


「……本当に、せっかちだこと」

 王子の後ろ、壁に掛けられた壁掛けタペストリーの影からするりと現れた『赤の女王』が、口元に笑みをたたえたまま、言った。

「それとも、私のお手つきとなるのがお嫌なのかしら?」

「畏れ多くも『元君』の眷属でありますれば、私などがあれこれ命ずる訳にはまいりません故」

 答えながら、王子は杯をもつ右手を小さく振る。ペーター少尉の手から杯を取った老人は、王子の杯も受け取るとしずしずと壁掛けタペストリーの奥に下がる。

「あら。それはもしかして、モーセスとドルマの事かしら?」

 頬に当てた右掌の小指を口元に当てて、『赤の女王』はくすくすと笑う。

「これまでとこれからは違います。地球人類は科学を信奉するようになり、呪いと迷信で守られていたこの地も安泰では無くなりつつあります。同胞団の運営、『都』の隠蔽、諸外国への影響力も確保しませんと、この先の時代、同胞団の維持存続は苦労するかと」

 立ち上がった王子、貴き宝珠マニ・リンポチェは、『赤の女王』に向き直る。

「それはわかるけど。でも、あの少年は、そのためには役に立ちそうもないけれど?」

「これは……お見通しとは」

 王子は、『赤の女王』に一礼する。

「あれはまた別の目的、私の、いやさ、『マイゴウ』の希望、願望、熱望なれば」

「そう……」

 『赤の女王』は、するりと踵を返して壁掛けタペストリーの影に向かう。

「……せいぜい、上手におやりなさいな。くれぐれも、私はいさかいは御免被りますから、それを忘れないで」

 『赤の女王』の言葉は、振り向いて見送る貴き宝珠マニ・リンポチェに向けたものか、それとも、壁掛けタペストリーの向こうの異形の何かに向けたものか。

 謁見の間を立ち去る『赤の女王』に、貴き宝珠マニ・リンポチェは深々と頭を下げた。


――これは、何だろう……――

 ペーター少尉は、急に目の前に現れたその視界の、視野の殆どを占める白い平面の正体を見極められず、考える。

――私は、あれ?私は……どうしたのだろう……――

 その白い平面は、よく見れば平面ではなく湾曲しており、純白というわけでもなくいくらか濁った肌色がかった部分もあり、所々に赤黒い筋が幾本か走っている。

 目をこらすうち、だんだんにそういうものが見えてきた。

 耳鳴りもする。王子に謁見していた際に感じた、あの共鳴振動する金属板のような、耳障りな唸りも。

――……そうだ、私は、王子と、貴き宝珠マニ・リンポチェと同胞団加入の杯を交わし……それから、どうしたのだ?――

 その視野は、どこか不自然で、現実離れしている。まるで……そう、まるで、広角のカメラレンズを覗いているような違和感。

――杯を交わし、それから……記憶がない?――

 どんな成分が含まれていたのか。全身麻酔は、効いてきたという実感など感じる間もなく意識を消失させる。

――私は、倒れたとでもいうのだろうか?――

 試しに、ペーター少尉は体を動かそうとする。両手を、両足を動かしてみようとするが、反応も、実感もない。

――どういうことだ、まさか、脳溢血なり脳梗塞なり、私は、突発性の人事不省だとでも……――

 その時。耳鳴りに変化があった。音程が高く低く不規則に変化し、ついで、違和感のある視野の片隅を、何かがよぎった。

 鉤爪のようなものが繋がる薄ピンク色の丸みのある何か、見た事もない、似たものに見当も付かない、何か。

 急に、視野の中で、薄白い歪んだ平面が遠ざかりはじめた。

 遠ざかることによって、その平面の周囲のディテール――やや縦長の円形の平面、下に一つ、上側中程に二つの窪みがあり、その周囲は厚みのある白くて硬そうなケースと、その外の肌色のカバーに囲まれている――や、その平面に繋がっているもの――肌色の、どこかで見た事のあるような立体物――が、視野に入って来る。

――……ああ……――

 それが何であるか、平面の横に置かれている、半球状の物体――明らかに頭髪、金髪を載せたままそこにさりげなく置かれている、切断され、取り外された頭頂部、頭皮と、恐らくはその下にあるだろう頭蓋骨――を見て、理解したペーター少尉は、混乱し、驚愕し、恐怖した。

――……あれは、そういう事か。あれは私の頭蓋骨の内側、脊髄の通る穴と、視神経が眼窩に繋がる窪み。あの空間は、では、私の脳があるべき場所、なのか……では、それでは私のこの意識は、この視覚は、聴覚は、この思考は一体、どこで、どのように……――

 恐怖に怯えつつも、ペーター少尉は考え、すぐに唯一の結論に至る。

――私の脳は、視覚、聴覚、意識を保ったまま、何らかの超科学的手法によって私の体から切り離され、持ち運ばれているのだ――

 ペーター少尉がその結論に至った時、ペーター少尉の視野を外から覗き込むかのように先ほどのピンク色の塊、恐らくはその頭部なのであろう渦を巻くかのような模様といくつもの突起のある塊が近づき、鉤爪のようなものがぬっと視野にクローズアップされ、くるりとひねられると同時に、ペーター少尉の視野も、暗転した。

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