第4章 第65話

 貴き宝珠マニ・リンポチェは、薄く微笑みながら、ペーター少尉に聞き返す。

「ペーターさん、貴方は、どうお考えなのですか?私には、何かしら心当たりがあるようにお見受けするのですが」

「残念ながら、皆目見当がついておりません」

 肩をすくめて、ペーター少尉はかぶりを横に振る。

「このメモを読まれたのであれば既に御存知と思いますが、テオドール・イリオンは、ここでの燃料はアルコールであると、我々に語りました。実際、ここでの燃料はアルコールであると、私も、私以外の者も、ラモチュンさんからうかがっております……ですが」

 ペーター少尉は、天井を見上げる。

「この部屋の明かりはもちろん、上層階のランプにしても、アルコールではあり得ない。アルコールの炎では、これほどの明るさは得られないし、熱や燃焼ガスの問題もある。もちろん、電灯でもない。恐らくは、何らかの、私の知らない類いの技術である、そこまではわかりました。しかし、それが何であるかは……」

 もう一度、肩をすくめてペーター少尉はかぶりを振った。

「いや、ご慧眼、感服いたします。さすがな大ドイツ国が派遣する調査隊の隊長でいらっしゃる」

 軽く会釈しながら、王子はそう言ってペーター少尉を褒めそやす。

「とんでもありません。私などは……」

 ペーター少尉は恐縮して、胸の前で広げた手を振る。

「実を言えば、ユキ・タキ嬢フロイライン ユキ・タキが気付かれたのです。私は、テオドール・イリオンの言を鵜呑みにしていました」

ユキ・タキ嬢フロイライン ユキ・タキ……」

 顎に手を当てて、王子はその名前を口の中で転がす。

「……あのお嬢さん方のお一人ですね?ペーターさん、貴方が『福音の少女』と呼んでいらっしゃる」

「その通りです」

 ペーター少尉は、頷く。それを見て、王子は目を細める。

「なるほど、面白いですね。これは、私も是非、そのお嬢さん方とお話をしてみたくなりました」

 王子の、貴き宝珠マニ・リンポチェの細めた目が光る。相当に興味をそそられたのだろうと、ペーター少尉は推察する。

「それから、テオドール・イリオン。その名前は知りませんが……」

 貴き宝珠マニ・リンポチェの細めた目の光がいっそう鋭くなったのを、ペーター少尉は見逃さなかった。

「……チェディと名乗った、白人の来訪者であれば、私も覚えています。彼が、そのテオドール・イリオンなのですね?」

 一瞬、ペーター少尉は、肯定すべきか否定すべきか迷う。迷ったが、あえて嘘をつく理由も動機もないと、腹をくくる。イリオンがここでどのような偽名を使っていたのだとしても、既にそれは過去の事であり、今更なんらの意味も無いことなのだ、と。

「イリオンの口から直接聞いたわけではありませんが、ごく最近この地を訪れた白人がいるとしたら、それはイリオン自身に間違いないでしょう。そのような冒険をするものが二人も三人もいるとは、とても思えません」

「まさに、その通りです」

 王子は、破顔する。

「冒険!まさに、それです。彼は、大変な冒険の果てにここ、神秘の谷、秘密の都、秘伝者の地下都市にたどり着きました。あなた方のような、政府による特例以外は外国人の入国が非常に困難なこの国の、しかもこのような辺境に至るのは、まさに大冒険と言って差し支えなかったでしょう。なにしろ、私の見る限り、彼は非常に上手にチベット人を装っていました。それほど用心深く、用意周到で、なおかつ高潔な魂の持ち主であったチェディ……」

 王子は、何かを思い出したように天井を仰ぎ見ると、声を震わせた。

「……彼は、きっと純真に過ぎたのでしょう。この都の真実、そこにたどり着く直前で、彼は恐慌を起こし、何かをひどく誤解し、その誤解に取り憑かれたままここから去られた。とても、残念です。そう。とても、とても、残念でした。恐らくは……」

 王子は、視線をペーター少尉に戻す。その目は、涙で潤んでいるようにも見えた。

「……彼の中のキリスト教的なもの、キリスト者としての矜持と、この都市における信仰、崇拝の有り様とのギャップに耐えられなかったのでしょう。哀しく、残念なことではありますが、致し方も、為す術もありませんでした」

「それは、キリスト教とチベット密教との違い、という意味でしょうか?」

 ペーター少尉は、テオドール・イリオンが書簡に現した、この地を離れるに至った経緯を思い出しつつ、尋ねた。イリオンは、その部分についてはその部分については『神への冒涜』としていたが、それは果たして他宗教との教義の違いによるものなのだろうか?と。

「いえ、そうではありません」

 王子は、かぶりを振る。

「意味的には近いのですが、この都市で崇拝され、信奉されているのは、密教ではありません」

 王子は、椅子に座り直し、姿勢を正した。

「よろしければ、お話しいたしましょう、ペーターさん。貴方はきっと、これをお聞きになりたいのでしょう。そして、これからお話しする事は、貴方の知りたいこと、この都市のエナジーは何であるかにも繋がる事でもあります。どこまでご理解いただけるか、納得いただけるかはわかりませんが……」

「是非、お聞かせください」

 ペーター少尉は、身を乗り出す勢いで、王子に懇願する。

「私もキリスト教徒ではありますが、仕事柄もあります、それが何であれ、異教であるからと言って頭ごなしに否定するような考えは持っていないつもりです」

 しばし、ペーター少尉と王子の視線がからみあい、ふっと、王子の顔から険が落ちた。

「よろしい、お聞かせいたしましょう……ペーターさん、その上で、私はあなたを同胞団に招き入れるに足る人物だと思っています。それを確認する為にも、是非、お聞きいただきたい。よろしいか?」

 ペーター少尉は、無言で頷く。閉じた唇に決意を滲ませて。


「さて、どこからお話しするのが良いか……ペーターさん、あなたは、この宇宙について、どう思われますか?」

「この宇宙、ですか?」

 だしぬけに王子に尋ねられ、ペーター少尉は返答に困る。

「さて……どうと言われましても……私はその方面はあまり得意ではないので。真空で、無重力で、無限に広がる、位しか」

「そのようなものでしょう、普通の人類が思う宇宙というのは」

 ペーター少尉の曖昧な答えに、王子はしかし優しく微笑んで返した。

「今の地球人類の宇宙観は、例えるなら、世界と言われて亀の背に乗った大地を想像するようなもの。あまりにも知見が不足していますが、それは致し方のないところです。然るに、ペーターさん、地球人類は、亀の背の大地の外に別の世界があり、そこには別の『人類』が居たとしても、それを知る由もなく、想像だに出来ていない。そうは思えませんか?」

「それは……」

 そう言われてしまうと、ペーター少尉に返す言葉はない。全くその通りだと、納得する以外に無かった。

「それが悪いであるとか、愚かであるとか、そういう次元の話ではありません。観察能力、認識能力、技術的にも、神秘学的にも、地球人類はまだその域に達していない、それだけの事です」

 ペーター少尉は、気付いた。王子は、明らかに、『地球人類』ではない視点で話をしているのだ、と。

 その気付きが、顔に出ていたのだろう。王子は、ペーター少尉の顔を見ながら、頷く。

「そのような別世界、そのような別の人類が、存在するのです。結論を先に言っておきましょう。我が『同胞団』は、彼らからその英知の一部を譲り受け、地球人類のためにこれを啓蒙する方法を模索する、そのような団体なのです」

 王子は、椅子から立ち上がり、部屋の壁に手を触れる。

「お気づきなのでしょう?この部屋の明かりは、そのような英知の一部。あなた方がヴリル・パワーと呼ぶものと同じかどうか、残念ながら私には判断しかねるのですが、地球人類にとって未知であり、まだ活用しかねるという意味では同じものと思っても良いでしょう」

 ペーター少尉は、王子の言葉を理解するのに、わずかに時間がかかった。

「……活用しかねる、ですか?しかし、今まさに、このように……」

「この地下都市を造ったのは、地球人類ではないのですよ」

 あまりにもあっさりと、王子はペーター少尉の理解を超える一言を、言い放った。


「驚いていらっしゃいますね?無理はありません」

 言葉を失っているペーター少尉に、椅子に戻った王子は何でもないことのように語りかけ続ける。

「とはいえ、この広い宇宙に、生命を育む星がこの星一つだけ、宇宙の何たるかを考えるような知的生命体が地球人類だけ、というのも、それはそれであり得ないとは思いませんか?」

「それはまあ、はい」

 今ひとつあいまいに、ペーター少尉は頷く。

「そのような地球外の知的生命体の一つがこの地球に来たのは、十数億年もの昔のことだとされています。彼らが何を求めてここに来たのかはよく分かっていませんが、この地下都市を掘り抜いたのは彼ら、正確には彼らが使役する『奉仕種族』です」

 王子は、何事か思い出して、言葉を足した。

「そう、あなた方が発掘した化石。あれは、その地球外生物のなれの果ての姿です」

「……今、何とおっしゃいましたか?」

 あらぬ方向に話が飛んだように思えて、理解がついていかなかったペーター少尉は、思わず聞き返した。

「あの化石、ウミユリだか何かのようなアレが、地球外生物、なのですか?」

 地球産の動植物に似ているようで似ていないその形状を思い出しながら、ペーター少尉は聞く。

「正確には、地球に居着いて以降、相当に退化したなれの果て、といったところのようですが。彼らは何らかの研究目的でこの星に居着き、世代を重ねるたびにその特性の一部を失い、退化していったようです」

「……あれが……」

「地球の生物とは根本的に違うものですが、あえて当てはめるなら、限りなく動物に近い植物というところでしょうか」

「そのようなものから、同胞団は英智を譲り受けているのですか?」

「いえ、そうではありません。この都を掘り抜いた『古い奴ばらElder things』は、今や活動している個体はここには居ません。我々が英智を戴いている相手は、『ユッグゴトフ由来の菌類Fungi from Yuggoth』と呼ばれています」

「……菌類fungi、ですって?」

「はい。くれぐれも、地球人類の常識でお考えにならないで下さい。地球人類の常識など、地球外はおろか、地球上であっても、地球人類の間でしか通用しないものなのですから」

「地球人類の、常識、ですか?」

「そうです。地球人類と、そもそも地球上の動植物は、液体の水が得られるハビタルゾーンで発生しました。しかし、このハビタルゾーン以外では生物は発生し得ないのでしょうか?答えは、絶対に否、です。さらに、物を掴む手、移動する足、栄養を摂取する口、外界を把握する諸器官。これらは、地球人類の、あるいは地球上の動植物のそれでなければならないのでしょうか?これもまた、否、です。つまるところ、この地球という星の環境以外の、異なる環境で発生した生物であるならば、それは地球人類と似たところなど一つも無くてもなんら驚くに値しない、そういう事なのです」

「確かに……それは、その通りですが……」

 ペーター少尉は、混乱していた。情報量が多すぎた。それも、彼の常識の外にある情報が。

 漠然と、ヴリル・パワーを操る者は自分達人類と相似な者であろうと思い、そう願っていたペーター少尉を打ちのめすのに、貴き宝珠マニ・リンポチェの語る内容は衝撃的に過ぎた。

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