第3章 第37話

「お客様、大変遅くなり申し訳ありません。お食事のお時間で……あ、ドルマ?」

 ノック無しに部屋の扉を開けて会食の知らせを告げに来たそのチベット人女性は、部屋の中にドルマも居ることに気付き、小さく驚嘆の声を上げた。

「あら、ラモチュン」

 その白いシルクの長衣チュパを来たそのチベット人女性はドルマの顔見知りであったようで、ドルマは彼女の名を口にすると、立ち上がって戸口に歩み寄る。

「お客様のお食事のご案内、あなたが仰せつかったのですか?」

「ええ、モーセス師範ロードに仰せつかりましたの」

「そう……」

 ドルマは、ちらりとペーター少尉を一瞥してから、言い切る。

「……大変申し訳ありません、お客様は少なくとも今はお食事は遠慮なさるとの事です。それよりも、一刻も早く都の中を案内して欲しいとの事ですので、これから私がご案内しようと思います。ラモチュン、そのように師範ロードにお伝え願えますか?」

「しかし……」

「お願いしましたよ?ペーター様、では、参りましょうか?」

「あ、ああ……」

 ペーター少尉は、言われて腰を上げる。ドルマの有無を言わせない言葉の圧に、今すぐ動くべきとの意図を読み取ったからだ。

「あ、ちょ、ドルマ……」

「ごめんなさい、ラモチュン。ペーター様、鍵をお忘れなく」


「良かったのですか?」

 後ろに残したラモチュンという女性を気にしつつ聞くペーター少尉に、ドルマは流し目で答える。

「ちょっと、ラモチュンには迷惑をかけてしまいますね」

 肩越しに振り向いた流し目のドルマの頬が、ふと緩む。

「でも、許していただきましょう。そもそも、基本的にお客様には、禁忌に触れない限りはこの都での行動の自由を保障しておりますし、『元君』にお許しを頂いた大事なお客様を、これからご案内するのですから」

 早足で、ドルマは回廊を進み、金で象嵌されたとおぼしき大きな扉へペーター少尉を導く。

「禁忌に触れない限り、自由?」

「はい。決められた場所以外での食事、排泄、洗濯や入浴などの行為、食堂や図書館などで大声を出したりする事、男女間の行為、おおむねそんなところです。それから、この都では、外界の身分に関係なく、住人同士は互いに上下関係はありません。お客様ゲストについても住人ホストと同格として扱われます。住人に対して指導する立場の僧侶ロードが、その上に『光の王子』がいらっしゃって、住人の世話をするために下男下女がいる、ここは、そのような単純な構造の共同体になっているのです」

 ドルマは、肩越しに振り向いたまま、ペーター少尉の質問に答える。

「住人は、基本的に皆同時に、一つの食堂で同じ食事を一日二食召し上がります。この都は慣習として外界から半日ほど時間帯がずれていて、今の時間なら『会員』の皆様は『夕食』の為に食堂に向かわれているはずです。『御神木』を見学するのに、他の方が居たとしても何かあるわけではないと思いますが、その方が気兼ねがありませんでしょう?」

「確かにそうですが。本当に、よろしかったのですか?」

 ペーター少尉の声は、ほんのわずかに厳しい。

「……先ほどお話ししました御神木を、是非、ペーター様にご覧に入れたいのです。ですが、本来、御神木は部外者には秘密、とまでは言いませんが、すすんで見せる事はあまりしないのです。ですから……」

「わかりました」

 ペーター少尉は、ドルマの真意を測りかねてはいたが、その行動は何らかの決意、あるいは目的に突き動かされてのものである事は理解出来た。

「私も、共犯となりましょう。で、それはこの扉の向こうに?」


 荘厳な扉を押し開き、ドルマに先導されてペーター少尉はその中に入る。やはりここも天井はガラス張り、昼下がりの日差しを受けて地上のように明るいその地下空間の中は、

「ここは、『宮殿』の『庭園』になります」

 ドルマが説明するとおり、そこは地上のそれにも勝るとも劣らない植物園だった。

「『光の王子』の宮殿、庭園ですが、都の住人は誰でも入ることが出来ます」

「……凄い……」

 ペーター少尉の口からは、そんなありきたりの言葉しか出てこない。大きさも充分に巨大だが、何しろここは地上から10mは下った地下なのだ。そこに、文字通り百花繚乱に咲き誇る花々を見て、ペーター少尉は本当に地下に居るのか疑ってしまうほど驚嘆していた。

「よろしければ、後ほど心ゆくまで散策されると良いでしょう。ですが、すみませんが今はこちらへいらして下さい」

 いつまでも見ていたそうなペーター少尉に、申し訳なさそうにドルマはそう告げて、庭園の一角に目立たないように作り付けられた扉を示す。なるほどそれは、そのつもりで見なければ、あるいは、そこにあることを知らなければ、思わず見過ごすようなしつらえの扉、いやむしろ壁に立てかけられた不定形の石版だった。

 その取っ手も何もない扉に手を置いて、ドルマは小さく何事か呟いた。片言とはいえチベット語を知るペーター少尉は、なんとかその言葉を聞き取った。

「……いあ・いあ。我、黒き豊穣の女神に拝謁を賜らんと欲す。いあ・ふたぐん……」

 ドルマが石の扉に置いた手を引くのにあわせて、扉はゆっくりと、音もなく引き開けられる。その、重量を無視したような滑らかな動きと、扉の奥の漆黒のゆるい下り階段を見て言葉を失うペーター少尉に、ドルマは微笑みかけて、言った。

「さあ、こちらへどうぞ」


 それまでの地下都市のそれとうって変わって暗く狭く、しかし傾斜は緩い下り階段を思いの外長く下り、ドルマに導かれたペーター少尉は、細い一条の光のみが天頂から差す部屋にたどり着いた。

「ここは……先ほどの庭園の真下ではありませんね?」

 ほとんど光のない下り階段の後の、一条のみだがまばゆい光に目を細めながら、ペーター少尉は辺りを見まわして、言う。

「お気づきになりましたか、さすがですね。お察しの通り、ここは庭園から斜めに下った先の、『寺院』のほぼ真下にあたります……そして」

 光芒の中央にそびえるそれ・・に手を置いて、ドルマはペーター少尉に告げた。

「これが御神木、『黒き豊穣の女神』です」


 それ・・は、一見するならば、半ば化石化した枯れ木であった。

 だがしかし、自然の成す技なのか、誰かが意図的にそのようにねじ曲げたのか、それ・・は女性の彫像、いくつもの「乳こぶ」を持ち、密集し逆立つ枝がまるで長い髪を風になぶらせなびかせたかのような、原始的プリミティヴな女神、いくつもの原始宗教に共通する『豊穣の女神』のそれのようでもあった。

「……そうだ、アルテミスだ。エフェスのアルテミス。大地母神であり、豊穣の女神であり……」

 ペーター少尉は、その形状、異形いぎょうでありつつもなまめかしく、エロティシズムさえ感じるその造形に心当たりがあり、記憶の奥底から符合するものを探し出し、思わず呟いた。

「……そのルーツは、キュベレKybele、あるいはクババKubaba。アナトリアの古き神……」

 ペーター少尉は、ドルマに向き直って、言う。

「ローマでは『諸神の母マグナ・マテル』……イリオンがシュブ、キュブあるいはクブと聞き取った信仰の対象は、これだったのですね」

 言いながら、ペーター少尉はその枯れ木、枝は密集していても葉は無く、石と見まごうような木肌の『御神木』に、無意識に手を伸ばす。

 その手を、白魚のようにたおやかな、しかし黒耀のように怪しく光る指が闇から伸びて掴み、引き留める。

「触れては駄目」

 聞き覚えのある、艶めいた女の声が闇の中から聞こえ、紅い髪とドレス、紅い目が現れた。


「あなたのように探究心が強くて、好奇心が強くて、知識に貪欲な、強い意志を持つ人が触れたら、きっと『私』は我慢ができないでしょう。だから、触れては駄目」

 ペーター少尉は、驚愕に声も出ない。

「『元君』」

 振り向いたドルマは、『赤の女王』に礼賛の形を取る。

「ドルマ、あなたは私の血肉を分けた姉妹に等しい存在だから、触れても大丈夫だけれど。大事な人の意志が強ければ強いほど、気を付けなくては駄目よ」

「はい、肝に銘じます」

 『元君』、『赤の女王』はドルマをたしなめ、ドルマも素直に受け入れる。

 その姿と、そこに至るいくつかの言葉に違和感を感じたペーター少尉は、驚愕に早鐘を打つ心臓をなだめつつ、『赤の女王』を見つめる。

「……色々、聞きたいのでしょう?」

 『赤の女王』は、微笑みを浮かべ、しかし、その紅い唇に右の人差し指を当てて、答える。

「でも、今は駄目。物事には、順序があります。まずは、ここのやり方を体験して、ここの成り立ちを知って、それから、自分なりの答えを出してみて。必要なら『光の王子』への拝謁も手配しましょう。くれぐれも、手順を踏んで、決心がついてから……何かを得るために、何かを失う決心をつけて、それから」

 『赤の女王』は、ペーター少尉の右腕を握っていた左手を緩め、離す。

「それまでは、ドルマ、あなたがこの人の面倒をよく見てくださいね」

 それだけ言って、『赤の女王』は、現れた時と同様に、闇の中に忽然と姿を消す。

 一言も発する事無く、事の推移をただ見つめることしか出来ていなかったペーター少尉は、やっとの事で詰めていた息を吐き出した。

「……『元君』は、この都で唯一、決まった役職を持っていません。そもそも、『元君』がこの都に居る事自体滅多に無いことなのです」

「一体、あの方は……」

「それは、いずれ、御自分でお確かめください」

 ドルマが、『赤の女王』、『元君』が消えた方向を見つめたまま言って、それからペーター少尉に振り向いた。

「一度、お部屋に戻りましょう。改めて、ここでの暮らしについて、お話しします」

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